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我が書斎、横須賀線車中より

2017-09-5
中動態?!

今、ちょっと興奮している。
新たに、「中動態」という言葉を知ったからだ。
この言葉、皆さんは聞いたことがあるだろうか?

「中動態」とは、「能動態」と「受動態」の間にあること。
非自発的同意。
つまり、「する」と「される」の間。
「一応自ら『する』んだけど、そこに働いている自分の意志は大きくない」という様な状態。

例えば、
やりたくないのに引き受けてしまったPTA役員、
人の目を気にして好きな服を着ないこと、
なんとなく勢いでしてしまった結婚、
生きていくお金を稼ぐために仕方なくしている仕事、
高圧的な上司にさせられてしまう忖度、
カツアゲに負けてお金を払ってしまうこと、
体に悪いと解っているのに吸ってしまうタバコ、
自傷患者のリストカット、
あらゆる依存症患者の行為・・・

極端な例まで出してしまったけれど、こう書きだしてみると、世の中は「中動態」の事象で溢れている。
周囲からの巧妙な誘引や圧力に屈し、社会的な圧力に怯え、心ならずも従ってしまうシーンは多い。

『中動態の世界』を表した哲学者の國分功一郎氏によれば、この動態は古典ギリシア語などかつてのインド、ヨーロッパ語に広く存在したらしい。
しかし、欧米では「受動態」・「能動態」に押されて「中動態」表現が少なくなり、文法的に用いられなくなってきてしまった。

そして「能動態」には本人の意思があるとみなされ、その裏側にある責任が問われる様になった。

その行為は誰がしたのか?
自ら「した」のなら責任を取れ。
「された」なら、免除してやる。

國分氏の解説は興味深い。
曰く、日本では、「主語」が使用されない言語表現や、目的語となる対象(相手)すら省略することもある様に、「中動態」を表す文法表現としての「中動性」が今も多く認められている。
その背景にあるのは、日本ならでの「気配り」や、「対人関係の円滑」のためや「衝突を避ける」目的から、「婉曲表現」として使用されているという文化的側面。
まさに「中動性」優位の言語が日本語であるとのこと。

私が興奮したのは、「中動態」とその文化的側面の関係性は、日本におけるキャリアの自立・自律の難しさと同根だからだ。
その文化的側面を支えているものとして、自らの意思云々の前に、子ども時代には親や先生など、組織に入ってからは上司など、とにかく上から言われたことには従え、周りに合わせろ、という教育や社会的な同調圧力の影響も小さくない。

國分氏は言う。

「哲学研究の世界では、ここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志”の存在が疑われていて、僕は実際に“近代的意志”の存在を前提とした“常識”が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」

「数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。」

「おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた『近代的主体』の諸問題を目撃したような気がしたのだと思う。『責任』や『意志』を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。」

たしかに。

キャリア形成支援の前提としての共通認識は、
「キャリアを自らの意思で自律・自立的に切り拓くことはその人の幸せに繋がる」
ということ。

だからこそ、そこにどんな意思があるのか、どの程度の主体性があるのかについて、注意深く観察する必要がある。

例えば、コンサルティングのプロセスでは、その意思について、3つの輪という現状分析手法で「やりたいこと」と「やるべきこと」をしっかり分けて考えることとしている。

そこに、この「中動態」という概念を入れて考えてみると、新たな世界が見えてくる。
「能動態」→「中動態」→「受動態」はその順番に意思が弱くなるが、「中動態」の中にも2種類あるのではないか。
一つは、「本当はやりたくないが、色々な外的要件を考えるとやった方が良いだろうと思ってやっていること」。これは、3つの輪の「やるべきこと」の中に入る。
もう一つは、「やらない方が良いと解っているのにやってしまっていること」で、これは3つの輪の中に入らず、外にある。でも、その領域が大きければ、そこも決して無視できない。

そして、新しく立ち上げたキャリアの学校のワークショップでも、個人のキャリア・カウンセリングでも、度々思うことは、本当に主体性を持った意思を持つことの難しさ。
そして、明確な自分の意志で「やりたいこと」を貫くことの難しさ。

親の、パートナーの、子どもの、上司の、近所の、過去の経験の・・・
本人の行動には、色々な過去の記憶や、他者の思惑や状況に鑑みた、「中動態」が溢れている。

それを、「本当にやりたくないのなら止めれば?」とは到底言えないし、実際その殆どが止められない。
現実的には、どう折り合いをつけていくかがテーマになる。

だからこそ、國分氏が述べたこの言葉には、とても勇気づけられた。

「過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。
逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由”に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった。」

そもそも人は、弱いものだ。
頭では解っているのに、感情が、もっと言うと本能が言う事を聞いてくれない、なんてことはよくある。
全てのことを自分の強い意志でやっている、なんて世界は無い。
私が身を振り返ってみても、決して「中動態」から自由な訳ではない。
勿論、それで責任逃れをするつもりはないけれど・・・

だから、自分も含めた人が本来持っているその弱さは否定せず、肯定しながら、いかに折り合いをつけていくのか、そのサポートが出来る様なキャリア支援を目指していきたい。
そんなことをしみじみ感じた、秋の始まりであった。

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齋藤 由里子
齋藤 由里子

さいとう・ゆりこ/キャリア・コンサルタント(CC)。横浜生まれ、大阪のち葉山育ち。企業人、母業、主婦業も担う欲張り人生謳歌中。2000年からワーキングマザーとして働く中、日本人の働き方やキャリア形成に問題意識を持ち、2005年、組合役員としてWLB社内プロジェクトを立ち上げ。2010年、厚生労働省認可 2級CC技能士取得、役員を降りた後も社内外でCCとして活動継続。個人・組織のキャリア・コンサルティング、ワークショップ、高校・大学生向け漫談講義などを展開、参加人数は延べ3,600名超。趣味は海遊びと歌を歌うこと。

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