2017-03-5
私のアルバイト物語
ウェイトレス編 その1
前期試験が終わり、おサルと4月以降の話が弾む。
「僕、大学に入れたら勉強と部活しかしないよ。」
教育費を払う側としては、そのセリフは若干嬉しかったりもする。
私たちの様な私立文系の、学費がムダになる様な生活はやっぱり送って欲しくないしねぇ。
彼は、中学高校ではゆるーーーーーい部活に入っていたので、一度チームでガッツリ打ち込むスポーツをやってみたいんだって。
そして理系だと、勉強と部活との両立だって大変だろうから、それ以外なんてなかなかできないかもね。
部活でセルフリーダーシップとチームワークを学び、そこで一生の友達を作ってくれたら本望だ。
でも、でも・・・・
部活に負けず劣らず、アルバイトも得難い経験が沢山できるんだけどなぁ。
そう思って、私のアルバイト経験談を話したら、おサルは面白がって聞く。
話している内、私自身、学校で起きたことよりよっぽど細かい部分までとても良く覚えていることに気が付いた。
そして、私の仕事観とかって、アルバイトで出会った多くの人たちや、そこで学んだ多くのことがベースになっている様な気がしてきた。
そこでこれから暫くは、私のアルバイト体験記について何回かに分けて書いてみることにする。
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記念すべき人生初のアルバイトは、レストランのウェイトレス。
中学が終わった春休み、一貫校で大学まで持ち上がりの学校に居た私は、いち早くアルバイトを探した。
中2から始めたバンド活動ではスタジオに入るのに毎回お金が必要で、それを親に出してもらうことに違和感があったからだ。音楽にどっぷりハマり始めていて、欲しいカセットテープは沢山あり、ラジオでエアチェックするだけでは物足りなくなっていたし、ダブルカセットデッキでは飽き足らず、もっと良いステレオが欲しくなっていた。洋服も、毎回親にお金を無心するのではなく、自分で自由に買いたかった。
学校ではアルバイトは禁止されており、私自身学級長なんてやっていて、校則違反はご法度の立場だったけど、学校から2時間半のところに住んでいて、先生には絶対にバレないと自信を持っていた。
地元で探してみると、神奈川名勝100選に入る夕陽が綺麗な長者が崎に、古いタイプのファミリーレストランがあり、そこでウェイトレスを募集していることが判った。時給530円。それが高いか安いかは解らなかったけれど、そして山の上にあった我が家からはアップダウンの激しい坂道を含めて自転車を30分も漕がねばならなかったけれど、絶景に心を奪われて申し込むことにした。
日に焼けてマッチョな店長に面接をされ、無事に合格。
親に事後報告をすると、最初は「えええ?学校では禁止されてるんでしょ?ダメなんじゃない?」とブツクサ言っていたが、「許してくれたらもう教育費と食事代以外のお小遣いは要らないから」と言ったら黙ってくれた。
アルバイト初日は、中学の卒業式の翌日。
制服は、相当野暮ったいダンガリー色で、スカート部分がAラインのワンピース。袖はパフスリーブで腕が太い私には全然似合わず、おまけにフリル付きの白いエプロンまでさせられて内心閉口した。足元は三つ折りの白いソックスに黒い革靴、これは学校の制服で使っていたものをそのまま使った。
レストランは長者が崎の浜辺から少し丘を登った高さにある階から、バス道路と同じ高さの階までの3階建てで、3階にレストラン、2階が厨房とお手洗いと団体のお客様用休憩室、1階がシャワー室とパーラー用カウンターという造りだった。普段は3階のレストランしかやっておらず、2階の休憩室は週末、レストランの親会社が運営する観光バスの途中休憩処に使われ、1階は夏季限定で海水浴客のためにオープンするのだった。
前職ではホテルで働いていたというマッチョ店長は、筋骨隆々の体とは釣り合わない繊細な感性の人で、ウェイトレスとして接客業の基本を徹底的に教えてくれた。
トレイ(お盆)の持ち方、シルバーと呼ぶナイフ、フォーク、スプーンの並べ方、左手だけでお皿を3枚持つ持ち方、フロア奥の一番良い席から順番にお客様をお通しすること、お客様がメニューをパタンと閉じたらご注文をお伺いすること、鬱陶しくない範囲でフロア内に目を配り、お水やコーヒーのお替わりなどは出来るだけ言われる前に伺うこと、フロアに背筋を伸ばしてピンと立ち、お客様から声をかけやすい様にいつも感じの良い笑顔で居ること・・・
当時のトレイは今の様に表にゴムがついていなくて、上に載せたものは全て滑るので、落とさない様に水平に保ち、なおかつキビキビと歩くのにはコツが入った。でも、手の平をしっかり広げてトレイの中央を乗せると、不思議と安定して体と一体化する。お皿を左手で3枚持てる様になった時は嬉しくて、出来上がったばかりの料理のお皿は腕の内側の柔らかい皮膚が真っ赤になる位熱かったが、我慢した。必要が無いのに、家や友人宅でも得意げにやって見せた。
色々なお客様とコミュニケーションが取れるフロア担当は面白かったが、裏方としてやる仕事も面白かった。大量のシルバーを熱々のお湯で洗い、大きな布巾でテンポ良く拭いていく作業、大きな氷をアイスピックで砕いて飲み物を作る作業が好きだった。レスカと略すレモンスカッシュやコーラはシロップを炭酸で割って作られるのだということ、グラスを氷で一杯にしてから飲み物を入れるので実質量が少なく、よってお店にとっては稼ぎがよく、お客様にとってはコスパが悪いものであることを学んだ。あれ以来、レストランで飲み物は余り頼みたくなくなった。
一緒にフロアで働いていたのは、音楽好きで明るい小さい40過ぎのオバサマ(きっと今の私と同じ位の年齢だったろう)が一人、地元の高校に通う、ソリの深く入ったヤンキーでジャニーズ顔のお兄ちゃんが二人。
オバサマは私が音楽好きなのを知ってとても可愛がってくれ、「家に聴いてない古いレコードが一杯あるから」と譲ってくれた。旦那さんがカントリー好きだそうで、もらったレコードの殆どはカントリーだったが、中には後にビリー・アイドルもカバーして大ヒットになった、トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズの「モニー・モニー」(リンク:https://youtu.be/pLW9LcjJX7c )のシングル盤があって嬉しかった。もうレコードプレーヤーなんて持っていないのに、今でも大切にとっておいてある。
ヤンキーの兄ちゃんは、制服のズボンを横に幅広い「ボンタン」と呼ばれるスタイルにしていた。一人はよくしゃべり、一人は無口で、二人とも地元の学校に通わない私にも親切にしてくれ、くるくるとよく働いた。
私は遠距離通学者だったので平日の勤務は難しく、春休みや夏休みなどの長期休暇を除いては土曜日の夕方から夜と、日曜や祝日の朝から晩までのシフトに入った。
最初は家からお店までバスで通っていたが、バス代がバカにならないので自転車で通うことにした。ヤンキーのお兄ちゃん二人は原付バイクで通っていたが、運動神経の悪い私が夜の帰り道に自転車で転んでしまった時には、心配して暫く交代で帰り道に途中まで付き添って送ってくれた。
厨房に居たコックさんは、おじいさんが一人とおじさんが二人。中でもおじいさんは私をとても可愛がってくれ、まかないの時に私が好んで注文したシーフードパスタ―――シンプルな塩・コショウ・レモン味で美味しかった―――を作る時にいつも大盛りにしてくれた。2階の厨房と3階のレストランフロアの間には縦60cm、横40cm位の二段の、銀色のエレベーターがあり、お料理や空いたお皿などはそのエレベーターで上げ下げした。空いたお皿を下げる時、ドアを閉めてボタンを押す前にエレベーターに頭を突っ込んで「お願いしまーす!」と叫ぶと下の厨房から「うぃ~!」と頼もしい声が聞こえて、その度に何だか嬉しくなった。
勿論、親切な人ばかりではなかった。
高校生が試験期間などでシフトに沢山入れない時には、フロアと厨房、両方できるおじさんが系列の別店舗から助っ人でやってくるのだが、この人は仕事は出来るが気分にムラがあり、機嫌が悪い時は色々と嫌味や文句を言うので、彼がやって来た時には職場のムードがピリピリした。動作が早いのでそういう意味では助かるのだが、この人に何かを言われるのが嫌で萎縮して、そういう時に限ってお皿を割ってしまって怒られたりした。
夏は、海水浴客で賑わうトップシーズン。
1階のカウンター式パーラーもオープンさせるので、スタッフはいつもの何倍も忙しくなり、例のおじさん以外のメンバーもテンパりがちになる。そこで一番“商人(あきんど)”ぶりを発揮するのがマッチョ店長。レストランの駐車場は広く、レストランに入らないお客様にもご利用いただける仕組みで、普通のシーズンは1日1000円なのだが、夏には一気に5000円まで値上げする。少し天気が悪いと3000円か2000円にするなど、入れ替える札は何故だか何種類もあって、どれにするかはマッチョ店長の感覚で決められる。今思えば随分いい加減な感じで決めており、「おっ、天気良くなってきた、やっぱり5000円にしよっと」といそいそ札を替えに行っていた。
ここでのアルバイトは高校2年の夏まで続けた。一番好きだったのは、お客様が全く居ない時、手が空いた時に眺める海岸の美しい風景。海も夕陽も、1日とて同じ表情ではないことを知ったのはここだった。
閉店後全ての片付けを終え、シルバーもピカピカに拭き終わって布巾類を綺麗に干した時も、達成感で一杯になった。
このレストランで稼いだお金で、念願のステレオセットを買った。
高校生には高級なDENONの20万円位するモノで、レコードプレーヤー、カセットデッキ、そしてその当時はまだ新しいCDプレーヤーもついたものだった。発売開始後半年間待ち、少し安くなってから手に入れた時は嬉しくて嬉しくて、部屋に居る時には必ず電源を入れていた。タイマーを使って、起きる時も寝る時も音楽を聴き、特に夜電気を消して寝る時に光るオレンジの液晶画面が優しくて好きだった。このステレオセットはそれから20年近くも私の傍に居て、その後買ったどのステレオよりも長持ちだった。
辞めた後も、店長以下スタッフの方には可愛がっていただいた。夏には1階のシャワー室を顔パスでタダで使わせてもらい、レストランでシーフードパスタを頼むと自動的に大盛りになって、ジュースまでついてきた。
その後数年してそのレストランは閉店となり建物も解体され、ただの駐車場になってしまった。今でもその前を通ると、一緒に働いた人たちのことを思い出す。
この最初のアルバイトで、お金を自分で稼いで自分の欲しいものを自由に買う喜びと、接客業の基本と、愛想の重要さと、先手先手で動く目配り、気配りの大切さを学んだ。
そしてこの学びは、この後も続く私のアルバイトのベースとなった。
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