salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

我が書斎、横須賀線車中より

2016-11-5
ジョハリの窓 

「私、自分に自信が無いんです。自分のダメなところばかりが目について。だから、何か行動する前に、『こんな風にしたら、相手がこんな風に思うだろうなぁ』って、考えこんでしまって…結局何もできなくなってしまうんです。」

これは、最近知り合った女性の言った言葉。
私から見たら、柔和な物腰と笑顔が素敵で、人の気持ちの細かいところまでよく気が付いて、とても優しい人だ。
いい所は一杯ありそうなのに、ダメなところばかり見てるなんて、とても勿体ない。

大体、自分が短所だと思っていることは、その裏返しで長所であることも多い。
それをポジティブに捉えて磨いていくか、ネガティブに捉えて塞いでしまうかで、その人の行動は大きく変わってしまう。

そこで、<ジョハリの窓>を紹介し、こう提案してみた。
「自分が思う自分の姿と、人が思う自分の姿は、必ずしも一致しないものですよ。
是非、自分のことをどう捉えているか、周りの人に聴いてみてください。
そしたら、自分にも色々な長所があることが見えてくると思います。」

この提案を実行することは、彼女にとって、とても勇気の要ることだったと思う。
でも、ずっと思い悩んでいたのを突破したい気持ちがあったのか、程なく「頑張って試してみた」と報告をしてくれた。
結果は私の想像通り。
彼女の短所は、周りからは得難い長所だと受け止められ、感謝すらされていたのだ。

皆さんは、<ジョハリの窓>をご存じだろうか?

これは、サンフランシスコ州立大学の二人の心理学者、ジョセフ・ルルト(Joseph Luft)とハリー・インガム(Harry Ingham)によって提唱された心理学理論。
二人の名前の一部を取って、<ジョハリの窓>と名付けられた。
対人関係における自己開示、コミュニケーション、気づき、自己理解などの説明によく使う。

このモデルでは、自分には4つの領域が存在すると考える。
<開放>:自分も他人も知っている自分
<盲点>:他人は知っているが、自分は知らない自分
<秘密>:自分は知っているが、他人は知らない自分
<未知>:自分も他人も知らない自分

出来るだけ自分を「自己開示」して、<開放>領域を広げれば、かなりの確率で相手も気持ちを開いてくれ、コミュニケーションが幅広く、深くなり、質が向上する。
すると時々、その相手から「あなたって○○だね」といった、思ってもみなかった「フィードバック」があって、それによって自分の中の新たな自分を発見することができる。
その発見は、<盲点>領域にあった要素が<開放>領域に移ってきたことによる気付きである。
この「自己開示」と「フィードバック」を重ねることによって、<開放>領域がどんどん広くなっていく。

もしくは、相手が言葉で「フィードバック」しなくても、相手との関係性の中で、新たな自分に出会うことがある。
例えば恋愛をして、今まで知らなかった、意外に可愛い自分や嫉妬深い自分に出会う、なんてことはよくある話。
これは、<未知>領域が<開放>領域に移ってきたことによる気付きである。

従って、出来るだけ<秘密>の窓を開けて「自己開示」をし、様々な人と関わって行った方が、自分が知らない<盲点><未知>の窓が開いて、結果的に自己理解が客観性を伴って深まっていく。

この化学反応は、人の多様性と同じ様に、関係性の多様性の分だけ起きる。
「自己開示」の手段も、「話す」だけとは限らない。
「書く」、「描く」、「作る」、「奏でる」、「触る」…言葉より、もっと雄弁な方法もある。

多様な化学反応が起きた人ほど、自己理解と他己理解が近づいていく。
自分の強み・弱みも俯瞰でき、等身大の自分を知ることができる。

思う存分自己理解した後は、自分の中で、<開放>の自分と<秘密>の自分とで、じっくり対話してみるのもいいだろう。
そこから、また何かあたらしい気付きが、自分の中での化学反応が、生まれるかもしれない。

この様に、<ジョハリの窓>は、他人との関わりが自己理解を深め、気づきをもたらしてくれることを示している。自分のことを客観的に理解できた方が、キャリア形成もしやすく、生きやすくなる。

このモデルを効果的に使うには、
「自分には自分のことがわかっている」
「自分は自分の意志で行動を選択している」
「自分というものが確固として存在する」
というある種の思い込みを一度捨てることが必要だ。

大体、人の性格なんて、単純には語りきれない。
相矛盾する要素を合わせ持っていることなんて、ザラ。
そして、そんな「本当の自分」というものに辿りつくには、怒涛の様な人との関わりをいくつも経ないといけない。
よく、修羅場をくぐった人は肝が据わっているなんて言うが、つまりは、その経験の中で自分のことを見極める時間を持てたのだと思う。

だから、若い身空で、浅い経験で、「本当の自分」とやらが見つかると思ったら大間違い。
なのに、今の時代はキャリア教育まっさかり。
高校生のうちから、自己理解をするためのテストやワークなど、「自分探し」的なことをやらせることが多い。
これは得難い経験の様でいて、両刃の剣である。
ありもしない自分探しの罠にはまってしまわない様、十分に気をつけねばならない。
ここで自分の価値観が定まらない子は焦ってしまいがちだが、焦る必要は全く無いのだ。
<開放>の窓は、まだまだ小さいのだから。
むしろ、解ったと思っている方が勿体ないし、決めつけている分危険だ。

例えば私。
今、人からよく言われる形容詞は「明るい」「元気」「アクティブ」などなど。
<自己開示>もしまくっている様に見えるだろう。
でも、昔からそうだった訳じゃない。

幼稚園生位の頃までは、超インドア派。
とにかく運動が苦手で、外で遊ぶのは苦痛でしかなかった。

3歳の時、初めて滑り台の階段を登ってみた。
滑り台の光り輝く急カーブが視界に入った瞬間、その高さに恐れおののいた。
くるりと振り返って階段を降り始め、後ろから来ている子ども達をよけようとして…頭から落っこちた。
大泣きした。
それから暫くは、滑り台の両側にゴキブリがはっている夢を見てうなされた。

父親と散歩に出かけて、鉄棒にひょいと乗っけられそうになり、怖すぎてエビ反りになって大泣きしたこともある。
今でもその時の感覚をよく覚えているが、
「こんな棒一本の不安定なところにいきなり乗っけるなんて、何考えてんだよ!」
…てな気持ちだった。

だから、恐ろしい外には出来るだけ出ないで、家で、一人で遊んでいた。
絵を描き、日記を書き、時々歌を歌い…
特に読書は大好きで、4つ上の兄が図書館から借りてきた本は片っ端から読んでいた。
本を読むとそこから色々な空想が広がるので、それらを言葉や絵にする。
親から与えられた大学ノートは次々に私の絵や文章で埋まり、何十冊も消費された。

そんな私だったので、同世代のお友達はなかなか出来なかった。
ひたすら、<秘密>の窓の中に閉じこもっていた。
そのままだったら、今の私にはならず、ひたすら大人しい子で終わっていただろう。

でも私には、近所に、面倒見の良いオバちゃんが居た。
その頃は大阪の公団に住んでいて、皆玄関にカギをかけないで開けっ放しだったので、馴染のオバちゃんが居る家にしょっちゅう上がり込んで、オバちゃんにだけはぺらぺらしゃべった。
オバちゃんは時々アイスクリームなんかを出してくれながら、
「あんた、ようしゃべるなぁ。でも、オモロいなぁ。」
と相手をしてくれた。

私の「自己開示」する原体験は、このオバちゃんが作ってくれたのだと思う。
その時何を話していたのか、全く覚えていないのだけど、恐らくまとまりのない、たわいもない、どーでも良い話。
でも、受け止めて、聴いてくれる人が居ることに安心して、気持ちを開いて、素直に自分を出すことが出来たのだ。
そして、「オモロい」と言われたことが、少しだけ、自分の自信になった。
それからの人生、私は少しずつ、自分をさらけ出すスタンスを取る様になった。

あれから40年。
さらけ出す傾向は年々拍車がかかり、今では「初めまして」の挨拶から間を置かず、さっさとフルオープンになる。
「こんな私ですけど、どーですか?」と迫り、好きならガッツリ仲良くしましょ、嫌いならご縁が無かったってことで、残念だけどお互いに時間のムダにならなくていいよね、という感じ。

色々な人と出会う中で、時には自分を出し過ぎて打たれたり、抑えつけられたり、嫌な想いも沢山してきた。でも良くも悪くも、そのリアクションとフィードバックから、相対的な自分の個性を知り、自分の輪郭を客観的に掴むことができ、それは私が自分らしく生きる上で大きな糧になっている。

家にひきこもっていた頃の私は、こんなに落ち着きが無い程外を動き回っている私を想像もしなかった。
でも、自分をさらけだし、動き回り、人と関わってきた結果、こんな私が出来てきた。
引きこもっていた私も私だし、今の私も私。
変わってきたというよりは、<盲点>や<未知>の窓をひたすら開けてきただけなんだろう。
そして、自分のことを理解すれば理解する程、どんどん楽に、生きやすくなっている。
色々な経験を重ねて、肩の力が抜けて…歳を重ねるっていいよね!

なのに、自分のことで悩んで私に相談に来る人は、この「さらけだす」という行為が圧倒的に苦手な人が多い。
とても、勿体ない。

話すことがそんなに苦手なら、他の手段を考えてみてもいいかもしれない。
もしくは、自分が無理をしなくても、人との出会いで、苦手意識がふっと消えて、急に、ほとばしる想いを語りだすかもしれない。

だから、学生にはこう言っている。
「同じ学校の、似た様な友達とだけ付き合っていないで、外に出よう。
もっと多様な人と出会おう。
ありもしない自分探しをしてる暇があったら、
友達と喧嘩する位ドップリ議論して、失恋を恐れずに怒涛の恋愛をして、
スマホをいじる暇が無い位忙しくバイトでもしよう!!」

そして、アナタにも言いたい。
「もし、自分のことについて、自分の中だけでぐるぐる考えて、行き詰っているとしたら。
信頼できる誰かを捕まえて、自分のことを<開放>して、色々話してみよう。
そしたら、きっと何か糸口が見つかるから。」

私は今も、自分が自分のことを全て解っているとは、思っていない。
きっとまだ、開けていない扉があるはず。
それを見つけて、開いていくのが、誰かに開いてもらうのが、とても楽しみ。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

3件のコメント

“ジョハリの窓”のこと久しぶりに思い出しました。
しかし、本当に自分のことを知るってのは難しいです(笑)
この歳になっても、落ち込んだり、俺って分かってないな〜って自己嫌悪に陥ることありますもんね。
以前、こんなことがありました。私の長所かもしれない「元気で明るく快活」っぽいイメージは相手も知ってる長所である解放された領域だと思い込んでいました。ずっと長い間です。
そうだと思っていたらその側面をある方から思い切り否定されるような対応を取られたことがありました。
ある方にとっては私の鼻持ちならない短所だったということです。
要は自分のその面はジョハリの窓で言うと「盲点の領域」だったというわけでした。
それからもその長所だと思っていた解放領域が、場面を変えて否定される面が発生し、随分と私はその面を一定の好意的に捉えてくれる方達以外に出さなくなったような感じでした。
今でも自分のオープンマインドなイメージで、たまに蹴つまづいたりします(笑)
自分をさらけ出すのって、ある意味他人から嫌われたり、不利益を被ったりすることもあるって勇気がないと難しいのかも知らない。
お恥ずかしいですが、いまでも自分は自分の未熟さに落ち込んだりします(笑)

by 海おやじ - 2016/11/07 6:02 AM

海おやじさん、今回も長ったらしいのを読んで下さって有難うございます。
私も、海おやじさんと全く同じ体験があります。何度も、そして、つい最近も!
その時は勿論傷付き、悲しくなり、頭に来るんです…
でも、その人からしたらそれが事実なんだ、と受け止めるしかないですよね。
勇気というよりは、「こんなにアクの強い性格なんだもん、万人うけするわけ無いわー」と前向きに諦める感じでしょうか。
それでも、時々出逢える濃い関係が嬉しすぎて、引き続きフルオープンで行こう!っと懲りない私なのでした、ふふふのふ。

by 齋藤由里子 - 2016/11/08 7:25 AM

そうそう。(^^)
結局、太い幹みたいな性格ってのは大きくはもう自分の場合はそんなに変わらないみたいです。
だから、今回のブログでQP姫様が言ってることは、本当になるほどと思いました。
明るくいるのも苦労がいるわけですもんね。
FBの方にコメントしてシラ〜っとさせては申し訳ないのでこちらにコメントしました。すみません(^^)

by 海おやじ - 2016/11/08 5:25 PM

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齋藤 由里子
齋藤 由里子

さいとう・ゆりこ/キャリア・コンサルタント(CC)。横浜生まれ、大阪のち葉山育ち。企業人、母業、主婦業も担う欲張り人生謳歌中。2000年からワーキングマザーとして働く中、日本人の働き方やキャリア形成に問題意識を持ち、2005年、組合役員としてWLB社内プロジェクトを立ち上げ。2010年、厚生労働省認可 2級CC技能士取得、役員を降りた後も社内外でCCとして活動継続。個人・組織のキャリア・コンサルティング、ワークショップ、高校・大学生向け漫談講義などを展開、参加人数は延べ3,600名超。趣味は海遊びと歌を歌うこと。

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