2011-08-7
「旅先で読む本(二)」
読書デビューが遅かった僕が言うのは説得力がないが、旅先に持っていく本を選ぶ時間は楽しいものである。シチュエーションフェチの僕はどこでどんな本を読みたいかを想像しながら選ぶことが多い。長いフライトや長距離バスのある旅には長編小説とエッセイ集を一冊ずつ用意する。じっくり腰を据えて長編小説を読む。長距離バスはともかく、機内では他にも楽しむ物が多い。映画を観ることもあれば、音楽や落語などを聞きながら酒に浸っているだけのこともある。延々と眠っていることだってある。これはフライトだけではないけれど。そして小説を読む気にはならないが、活字は少し読みたい時にエッセイ集を取り出す。
ホテルで寝る前用には普段、読まないような本を持っていく。新書と言われる民俗学や宗教、数学などの本である。たいてい何度も同じページを読んでいるなぁと思った頃、眠りにつく。この瞬間が心地いい。カフェでビールを飲みながら読む用には短編集を持っていく。ビール一本を飲み終える頃、一編もしくは二編を読み終えるのをきっかけに会計を済ませることが多い。時々、同じ短編集を読み返したとき、読んだ時のカフェが蘇ることがあると一粒で二度美味しく得したような気分になる。
そして、意外に海外の街で読むとヨガや整体を受けた後にすーっとビールが落ちるように文章が身体に染みわたっていくのが近代文学と呼ばれる明治時代から昭和にかけての日本の小説である。これには前回、書いたように僕の読書デビューが遅かったことも影響していて、本来、学生時代に読んでいるはずの本で、僕が読んでいない本が山ほどあるのだ。以前、京都の某大学の先生から
「今、学生達に小説を百冊読ませているんだけど、このリストの中で、イシコは何冊くらい読んだことある?」
とそのリストが送られてきたことがある。国内外問わず、様々な分野の小説で、これを読んでおけば、たいてい文学の話題ができるというものであった。村上春樹のような最近の作家の小説もあるが、ほとんどは古い小説が多かった。そして、僕の読書歴から推して知るべし、そのリストに書かれていた中で、僕が読んだことのある作品は見事に一冊もなかった。その日から僕は古い小説を選ぶ際、そのリストを参考にするようになった。
そして今回の長い旅に向けて、僕はゲーム機と供にそのゲーム機で読める百冊の電子本のソフトも購入した。あとがきを参考にして読書感想文を書いた夏目漱石の「吾輩は猫である」も、二十代、演劇に携わっていた時、飲み会の話題でついていけなかった太宰治の「人間失格」も、また最近、再び注目された小林多喜二の「蟹工船」も全て収録されており、これを僕は今回の旅中、電子辞書で読んでいる。
百冊が単行本一冊程度の機械で読めてしまうというのは旅人にとって、とてつもない新兵器になる。ただ、やはり時に本の質感を味わいながら読みたいなぁなどと思ってしまう。つくづく人間とはわがままな生き物です。
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