2012-09-30
「海外で自分宛に葉書を出す」
以前は、旅に行くと海外の旅先から自分宛に葉書を書いていた。たいてい旅の最終日に送ることが多い。そうすると自分の方が先に日本に到着し、日本の生活のリズムに戻っている頃に届く。旅先の自分から送られてくる葉書は、手紙をいれて土の中に埋め、何年か後に読むタイムカプセルの簡易版のような感覚である。
たいしたことは書かれていない。
「ドミニカ共和国で覚えたスペイン語
「オラ!」の挨拶だけ。
その言葉だけで孤児院にて大道芸のショーをした」
これだけの文面が届く。小学生の絵日記でも、もう少しまともな文章が書かれているだろうが、他人に見せるものではないし、その時の自分の記録が海を超えて渡ってきただけでも感慨深く、この文面の中に自分だけの物語が詰まっているのである。
ひどい文字で殴り書きの日記のように
「昨日、ロンドンで記憶をなくしました。
ウォッカをレッドブルで割ったものは気をつけるべし」
別にロンドンでなくてもいいんじゃなかろうかと思うような葉書が届くこともある。それでも自分にとっては旅の時間の大切な切れ端には違いない。
ここ十年くらいだろうか。年賀状というものを出さなくなってしまった。そのかわりと言っては失礼だが、年賀状でいただいた葉書を持ち歩き、旅先のホテルやカフェでビールを飲みながら、一年がかりで返事を書くことにしている。日本で年末に友人や知人を思い浮かべながら、また相手の新年に祝いを込める意味も含め、年賀状を書く時間を持った方がいいのは承知の上なのだが、そのうち流れ作業になっていて誰に対しても同じ文面になってしまうのが嫌になってしまったのである。だったら旅先でふっと葉書を手にとって、一枚でも二枚でもその時の場所でその人のことを考えながら書いた方がいいような気がしてきたのである。完全な自己満足なのはわかっているのだが…。
「こっちが働いているときに、「プーケットでシンハービールを飲んでいるイシコです」っていうのを読むと腹が立つんだよねぇ」
葉書をもらった方から怒られることもあるが真剣に怒っているわけではないし、その葉書があるからこそ、こういったコミュニケーションが生まれるわけである。
自分宛への手紙もその延長なのである。しかし、実は今は自分宛に書いていない。どこかで妙に格好つけて詩のようなことを書き始めるようになってしまったのだ。そういう自分も時にあるということで客観的に見るのもいいし、後から葉書を見ながら恥ずかしい思いをすればいいのだが、あまりの恥ずかしさに耐えきれなくなり、最近では僕のパートナーに送るようになった。そこまでしてでもやはり送っておきたい。普段、パソコンのメールばかりで、手書きの時間が極端に少なくなった僕にとっては旅先で筆を取る時間は大切にしたいのである。
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