2012-07-15
「道路を渡ることに人生を重ねる」
あるようでない、ないようであるのがインドの信号。信号自体はあり、信号が目安にはなる。しかし、あくまで目安でしかないのだ。実際、歩行者は道路上の車を見ながら渡れる時に渡る。信号とは関係なく。自然に歩行者用の信号の陰は薄くなる。そのせいかどうかはわからないが、横断歩道の線は薄く白いペンキがはげてしまっていることが多い。律儀に横断歩道を渡る人もいないということである。
信号と関係なく渡るというのはインドに限ったことではなく、他の東南アジアでもアフリカでも南米でもそういう場所は山ほどあるし、日本でも欧米でも横断歩道の信号を無視して歩いている人は特に珍しいことでもない。
しかし、インドは道路を横切る難易度が少々、高い。世界道路横切り選手権なるものがあるとしたら、インド人はかなり上位に食い込むのではないかと思う。男性も女性も老人も子供も車のタイミングを見計らうのがうまい。僕は他の人が渡るタイミングについていきながら、徐々にではあるが、そのタイミングを身体で覚えていく。
やっかいなのが大通りに現れる大きなロータリー。信号を使わないで、方向を変えられるので車を運転する人にとっては便利だが、歩行者は渡りにくい。
大きいロータリーであればその分、円周が大きくなり、大まわりしながら道路を渡ることになる。しかし、道路横切りの達人になるとロータリーの円の中心を突っ切って、歩行距離を短縮してしまう。つまり車の渦の中に自分の身を突っ込んでいかなくてはならない。このインドのロータリーを渡ることが、僕が旅した中では今のところ一、二を争うほど、横切る難易度が高い。渋滞していれば、のろのろ走る車の間をぬって歩いて行けばいいが、かなりのスピードでしかも途切れないでロータリーに突っ込んでくる場合はかなり難しい。
しかし、途切れないからと言って、待っていてはいつまで経っても渡れない。頭の中ではわかっているのだが、この歩きだすタイミングがなかなかつかめない。
猪突猛進でがむしゃらに突っ込んで行ったら、いつか跳ね飛ばされ、大怪我をするだろう。逆に石橋を叩いて渡るように車が全く来ていないときに行こうとしていたら、延々と渡れない。大袈裟ではなく、本当に延々と渡れないのだ。実際、最初の頃、どれくらい渡れないか測ったことがあり、五分経っても車が途切れなかったロータリーがある。よって、どこかで決断しなくてはいけない。行く時は行く。行かない時は見極める。
決して渡っている途中で急に走ったりはしない。車もバイクもたいてい見えている歩行者は来るものだと思っているから、それに合わせて先に自分が行ってしまうか、先に行かせてから自分が行くのかを咄嗟に判断しているらしい。よって途中で走り出すなど変則的な動きをするとその判断ができなくなり、事故になる確率は高くなる。決断して渡り始めたら後戻りしないで進んでいく。これは、どこかギャンブルにも似ている気がするし、スピードを調整したり、タイミングを見計らったりしながら進んでいくことはどこか人生の縮図のようなものを感じてしまうのである。
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