2013-03-24
『身体騒動記 過去編 ~ラーメン中毒マン・そして猛暑との戦い②~』
(以下、食中毒と思われる症状の描写がありますので、想像力豊かな方、及びお食事中の方は、ご気分を害されないよう予めご了承の上、読みすすめ頂ければと思いますm(_ _)m)
自宅の扉をあけて私がまっすぐに向かった先。それは、もちろんトイレだった。
しかし、結果は意外だった。
駆け込んだトイレではあったが、それほどヒドい下痢の症状ではなく、少しお腹を壊した程度のものだった。
(えっ?こんなもん?!)
苦痛の大きさに比べ、結果が軽い。
これだけお腹がチクチクと痛み、いてもたってもいられないにもかかわらず、なぜ出るものが出ないのか?
それに、普通は少しでも用を足したら、一時的にでもお腹の痛みは減るはずなのに、まったく傷みが軽減しない。
納得のいかない気持ちを抱えつつ、トイレを後にした。
それでも、発熱と腹痛が風邪以外の原因で起こっているなどとは夢にも思わなかった私は、1、2日会社を休み安静にしていれば、いずれ風邪菌との戦いを終えた免疫細胞の静かな勝利がやってくるものと信じきっていた。
その上、当時の自分はどちらかというと自然主義的な傾向を好んでいた。
薬に関しても同じで、できるだけ人口の薬を飲まず自然に治そうと、いつも風邪を引いたときと同じように、水分を十分に取り、無理に食べず、汗を大量にかいて体内を浄化する作戦に出た。
大概の風邪は、こうやって安静にしておくと治るものなのだと。
気温が35度を越えようとする真夏の正午頃、あえて汗をかこうと、冷房は入れず首にタオルを巻き、布団をおもいきり被った。
(暑く…!熱く…!どんどん熱く!)
(よしよし、苦しいけど、これで熱が出きったら一気に風邪菌が退治されて回復に向かうから、今は我慢、我慢…。てか、熱いの歓迎!)
私は無邪気に信じ込み、そのまま横になり続けた。
しかし、お腹の痛みは一向に収まらなかった。
そして、体は信じられないほど熱くなってきた。
目の前にぶら下がるノグチイサム風の照明器具が、少しずつこちらに迫ってくるように思え、目に入る景色の輪郭も曖昧になってきた。
意識は朦朧とし、眠るどころか息さえも出来ない胸苦しさが、重くのしかかってくる。
体の中に、まるで小惑星でも作れそうな超高温の燃え盛るマグマの固まりがあるようだ。それに、関節という関節が全部バラバラになってしまったかのように痛い。
熱さと苦しさで、スーっと意識が遠のきかけた。
そのとき、ふと何かがよぎった。
(チ・ガ・ウ……)
なんだ?
(チ・ガ・ウ!!!!)
なにが?なにがチガウ?!
意識の境目が、今にも崩れそうなその瞬間。
そうか、そうだ…。
そして、ヨロヨロの手で力一杯布団を放り投げ、力の限り叫んだ!
「あ…つぃぃいいーーーーっ!!!」
殆ど声にはならなかったが、心の119が緊急事態を察し、私に浜田雅俊級の激しいツッコミを入れたのだ!
(チ・ガ・ウーーーっ!!逆だよっ!逆!!熱出てるのに、温めてどうすんねんっ!冷やせぇーー!冷やすんじゃーボケぇーーーーーっ!!!)
ようやく、高熱には冷やすことが何より大事なのだと気づいたのだ。
冷静に考えてみれば当たり前のことで、小学生だって”熱には冷やせ”の療法は分かる。
なぜか私は、全く逆のことをしていたのだった。
危なかった…。
熱さバックアップ体制のせいで、もう少しで大量の脳細胞が破壊されていたかもしれない。
自分の愚かさに、声にならない笑いと涙が出そうになったが、力の入らない横隔膜はほんの少し、揺れただけだった。
心の浜ちゃん、ありがとう。(涙)
もう、間違いはない。冷やせばいいんだ。
確信した私は、今度は冷房を入れ、フラフラの足でアイスノンを取りに冷蔵庫までいった。
アイスノン以外にも、デパ地下のお総菜売場で付いてくる保冷パックを2、3個タオルで巻き、おでこにくくりつけた。(残念ながらこのとき、我が家に“冷えピタ”はなかった)
これで少しはマシになるだろう。
そう思いつつ、おでこの上の固すぎる保冷パックがズレるのを防ぐ為、真っ直ぐの姿勢で微動だにせず仰向けツタンカーメン状態で寝ていたのも束の間、今度は一転、寒くて寒くて仕方がなくなってきたのである。
冷房の温度は27度に設定していのだが、高熱のせいか冷風が体にあたるだけで、ガタガタと震えてしまう。
仕方なく冷房を切ると、今度は容赦のない西向きのベランダから照りつける悪魔の西日地獄が、あっという間に室内を40度近くまで暖める。
またしても、暑く、冷房をつけ、またすぐに寒くなり冷房を切る。
そんなことを15分おきに続けながら、体の熱さに耐え切れず水を飲み、そしてすぐにお腹を下し、トイレとベッドを往復するというパターンを繰り返した。
そのうちベッドで寝ているのも苦しくなり、どこか少しでも居心地の良い場所はないかと、毛布を一枚肩から被りながら、ウロウロとムーミン谷のモランのように家中をさまよった。
その結果、最も過ごしやすく感じたのは、リビングの板の間だった。
ひんやりと冷たい板の間でなら、少しは眠れるかもしれないと横になり、また寒くなったら部屋に戻りベッドに横たわることを繰り返した。
しかし結局、なにをしても苦しくて眠れない。
1日目はまだ体力があったため、ストックしていたお粥のパックを少し口に出来た。
そして、観念して、風邪薬も飲んだ。
ここまでくるともうやむをえない。現代科学の力をついにかりてしまったのだ。
少しの罪悪感はあったが、これで症状は回復に向かうだろうと、ホッとしたのも正直な気持ちだった。
そして、2日目。
さらに下痢がヒドくなってきた。
下痢といっても、もう水分が出るだけで、大も小もない。
大腸から水道の蛇口が直接つながっているのではと思うくらい、思い切りよく大量の水分が延々と排出されつづける。
症状は改善を見せぬまま、2日目はもう液体しか体がうけつけなくなった。
野菜スープの上澄み液を、3、4口、口にするのが精一杯である。
寒さ暑さの両方と戦いながら、私は横たわるベッドの上で、
(もしこのまま気を失ったら、死ぬかもしれない)
と、本気で思い始めた。
なんせその夏は、昼間の気温が40度を越え、室内でも高齢者が脱水症状で亡くなる事件が何件も起きていたのである。
15分おきの温度調整を怠り、猛暑の中意識を失えば、本当にそのまま死んでしまうか、たとえ意識を取り戻したとしても、もう立ち上がる体力さえなくなっているかもしれない。
昔観た映画の、雪山遭難の定番シーンが頭に浮かぶ。
「眠るなー!起きろー!!!」
「寝っちゃいけない!死ぬぞーー!!」
食塩水でも詰まったかの様な鈍く重い頭をゆすりながら、なんとか意識を失わずにいられる方法を、必死に考えた。
『ダイハード』のジョン・マクレーンの気持ちがほんの少しだが分かる。
(Think!Think!!)
そして、朦朧とした頭で考え、なんとか導きだした結論。
生き残る為の、今出来る最善の方法。それは…、
”歌”だった。
そう、歌うのである。
しかも腹式呼吸で、内蔵にわざと負担をかけて刺激を与え続ける。
そうすることで、昼間の猛暑が終わるまで、温度が下がる夜まで、なんとか意識を保とうという作戦だった。
私は、精一杯の大声(実際は弱々しいカスレ声)で天井に向かい、出きる限り沢山の歌を歌うことにした。お腹には殆ど力が入らなかったが、何とか声らしきものは出てきた。
「しぃ…んぱーい、なぁぃ…かぁらぁねぇぇ…、きぃ…みぃぃーのぉおぉ…もぉ…いがぁ…(byKAN)」
「ガァ…ァラスのぉ、リィ…ンゴォたぁちぃぃ…(by松田聖子)」
「おぉ…まぁーえぇ…ならぁ、ゆぅ…けるぅ…さー、トォムぅ…(byトム・ソーヤの冒険)」
生存本能の成せる業なのか、無意識に出てくる歌はどちらかというと希望の持てる、未来志向の歌ばかりであった。
昼間の住宅街。40度近くの猛暑の中。
冷房が効きすぎるのを防ぐため、ベランダの扉は開けていた。
どこからか聞こえてくる弱々しい悪魔の囁きのような歌声は、平和に洗濯物を干す何人かの主婦を恐怖のどん底へつき落としたかもしれない。ここで改めてお詫び申し上げる。
3日目になり、さすがに風邪にしては何かがおかしいと思い始めた私は、症状が出た前日に一緒だった友人へ電話してみた。
すると、電話に出た彼女の声は、憔悴しきったヨロヨロのカスレ声だった。
聞くと、あの日、ラーメンを食べた深夜、突然の激しい吐き気と下痢が始まり、今も続いていると言う。私より、症状が出るのがかなり早かったようだ。
翌日から行く筈だった旅行も取りやめ、今は実家で静養しているとのこと。
唯一自分と違う点は、すでに病院に行き食中毒の症状と診断されたと。入院を薦められたが、家が近いので毎日点滴に通うことを条件に帰ってきたということだった。
私がまだ病院に行っていないことを伝えると、まるで悟りきった往年の性格俳優のように静かにこう言った。
「死ぬよ、マジで…」
病院に行くことにした。
しかし、その前にやることがある。
それは人間として、いや、ほ乳類雌としてのプライド。
いかんせん数日お風呂に入っていないのだ。どんなときにも、やはりエチケットというのは必要である。例え相手が医者でも、一応きれいな体で診察に行きたい。
私はシャワーを浴びるためにフラフラと洗面所へ行き、数日ぶりに自分の顔を鏡で見た。
そして、生まれて云十年、これまで一度も見たことの無いVFX顔負けホラー映画のような自身の姿を目にした。
ろくに栄養もとらず、毎日毎日体から水分が出続け、おまけに殆ど眠ることも出来なかった、憔悴仕切った自分の顔。
(髑髏だ…)
なんと、顔中の肉が萎んでいる!
目は落ちくぼみ、眼球の周りの骨が浮きでて、骸骨の形が分かるのだ。
痩せた、という言い方は違う。
体(顔)の水分が無くなり、肉が干からびて骨に張り付き、いわゆる髑髏がリアルにその皮膚のすぐ下まで迫っているのが分かる。
よく、戦争映画やアフリカの飢餓の映像で骨と皮だけとでも言えるような栄養と水分失調の人の姿が映されることがあるが、そこまでは行かなくても、かなり近いものがある。
たった数日でこれほど顔が変わることに、私はショックを受けた。
そうしてようやく、これはただ事ではない、このままでは死ぬかもしれないと、初めて事態の深刻さを受け止めたのである。
昔、小学校の学習本で、いずれ太陽の寿命がつきるとき、一緒にこの地球も滅びると書かれた記事があった。そこには、太陽が無くなり、酷寒の中地球人たちが凍り付きながら死んでゆく恐ろしいイラストが書かれていた。自分ではどうすることも出来ない恐怖とイラストの人々の形相の激しさに震え上がったのも束の間、その記事の最後には、太陽の寿命が燃え尽きるまではまだ40~50億年はかかるとあった。
(はぁ?まだまだじゃね?)
拍子抜けした。
恐怖の感情は、一瞬にして奇妙な安堵感と何とも言えない失望に変わった。
結局、どんなに恐ろしいと思えるようなことがあっても、大したことではないのだ。別に今すぐに命の危機にさらされる訳ではないのだ。人はそう簡単には死なず、自分はこのまま生き続けていけるんだと。
何だかんだ言っても、何かあれば誰かが助けてくれるだろうし、万が一、何か危機的なことがあっても自分一人だけじゃない。そんな、世の中や人生を楽観した最初の経験。
突き詰めて言うならば、自分には(自分だけには)恐ろしいことは起こらない、自分だけは死なないという、誰もが少しは心の片隅に持つ深刻さへの軽視にも似た命への無防備な信頼。
でも、今は違う。
今、自分は何となるだろうという世界にはいない。誰かが一緒でもないし、助けてくれる人はいない。
今、自分が対処しない限り事態は変わらず、本当に命の危険にさらされるかもしれない。生きていくことが出来なくなるかもしれない。
静かな恐怖の細波が、全身にゆっくりと伝わってきた。
大人になって、初めて死の影を身近に感じた瞬間だった。
人は何時の日か、誰にも頼らず自分だけで物事を判断し、対処しなくてはならないときがある。
それが、大人になるということだ。もう選択のミスは許されない。
シャワーを浴び、震える手で、保険証を探した。
何とか病院に辿り着かねばならなかった。
~最終話③へつづく~
メキシコ『死者の日』(別名:骸骨祭り)。街中にキッチュな骸骨が溢れるそうな。いつか絶対行きたいお祭りのひとつ!(出典:www.geocities.jp)
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