salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

〜日常は、劇場だ!〜「勝手に★ぱちぱちパンチ」

2017-04-9
月からの音
~ウォン・ウィンツァンさん~

かねがね、生まれ変わったら音楽家になりたいと思っていた。
音楽家というと範囲は広いが、楽器で音楽を演奏する演奏家のことである。

個人的には、擦弦楽器と呼ばれる、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロといったものに惹かれる。
けれども、生まれ変わった時代(多分未来)に、音楽が音楽として、今と同じ形態であるのかは不明だ。
もしかすると、今の音楽と言われている形とは全く違う、絵画や映像、ダンスや言葉と融合した想像もできないような形で存在しているかもしれないし、楽器だって、見たこともない姿へと進化しているかもしれない。
実際に、バロック期の音楽家が現代に来たとして、ロックはもとより、コンピュータで作り出される電子音楽に驚くだろう。(案外、知っている楽器が生き残っていて、いまでもクラシックな演奏会が行われていることに驚くかもしれない。)

いずれにしても、来世は趣味としてではなく、とにかく楽器を奏で、音を作り出すことで食べていきたいと強く強く願っている。
優れた演奏家が沈黙から音の世界へと移る瞬間、全ての集中力と神経を注ぎ込み現れる音の連なり。空気の振動、見えないエネルギー、理論を越え感情へとダイレクトに訴えかける不思議な力。
音楽には、命の内側にまで伝わる祈りにも似た力と魅力がある。

しかしながら、本当に本当に残念ではあるが、今世において私には楽器を演奏するという才能が、全くもって、これっぽっちもなかった。
そのくせ、兄弟や親類、友人たちは楽器をたしなむ人が少なからずいた。
母方の祖父は、無学ながら拾ってきたヴァイオリンを修理し、趣味の範囲ではあるが独学で演奏していたらしい器用な人であったが、その血は私でなくギターを弾く兄へと受け継がれたようだ。

演奏する才能がないということをひしひしと感じたのは、5歳のころである。
ピアノ教室へ通い出した友人がうらやましく、親にねだり、なんとか自分も通うことになったのだが、
ちょっぴり緊張しながら挑んだ練習初日に、致命的と言える2つの問題が発覚した。

一つは、爪である。
ピアノやオルガンを弾くとき、当たり前だが指の先端で鍵盤を押さえるのであるが、その際、爪が伸びていると鍵盤にカチカチと当たるため、必ず短く切っておかねばならない。
もちろん、そんなことは承知していたため、前の晩にキチンと両手の爪を切っていた。
しかし、いざ鍵盤を弾き始めてものの数秒で、

「アラキさん、爪切ってこなきゃ。爪が伸びていると、うまく弾けないのよ」

と、先生は私の手のひらを持ち、じっと指の先を見ながら注意した。

(切ってきたのに…)

そう思ったが、とにかく緊張していたため、そのまま「はい」と答えた。
そして、頭の何処かで「これはマズイぞ」という声がした。
実は、生まれつき自分の爪が他人より指の上部に生えていたからである。
つまり、爪が指の頭ぎりぎりまで皮膚に引っ付いているため、思いっきり深爪に爪を切ったとしても、爪の方が指より先に出て、どれほど切っても鍵盤に最初に当たるのは、爪なのである。
通っていた保育園で、週に1度保健検査なるものがあり、クラスから一人の園児が検査役となって全員の爪が伸びてないか見てまわるのだが、私は必ずと言っていいほど毎回ひっかかった。もちろん、前日に、爪を切っているのにである。

そんなものだから、どうしたってこの爪がこれ以上短くなることがないのはわかっていた。
おまけに、鍵盤に爪がカチカチと当たるたびに、痛い。これには参った。毎回この痛いまま練習しなければならないのか?と、いきなりやる気モードが足元まで落ちたが、とにかくその日はそのまま練習を続けることにした。何といっても、初日なのだから。

そして、問題がもう一つ発覚した。
それはなんと、音の長さが理解できないという、根本的な問題であった。

今でもそうであるが、基本的に左脳発達型人間の要素が強い傾向にある私は、物事や現象に対して、論理的な説明を受け、自分が十分に納得したあとで取り組まないと嫌なのだ。これは、発達や成長とは別に、資質として持って生まれた傾向だと思っている。全体像を把握してから、その細部へと取り組むことを好むといってもよい。

基礎中の基礎として、先生が音符の種類を説明するたびに、全音符、二分音符、四分音符などを実際にピアノで弾いて見せるのだが、その音を聞き、いざ自分が弾く番になると、その音の長さが分からないのである。

どういうことかというと、先生が今弾いた全音符を、自分が鍵盤で同じように鳴らしてみろと言われても、その音符をどのくらいの長さで弾けばいいのか、判断する材料が私の中にないのだ。
そんなの、今聞こえた通りにならせばいいではないか?と思われるかもしれないが、そんな感覚だけで正確な長さが分かるわけない。ましてや、全音符の長さの四分の1が四分音符になるのなら、基礎となる全音符の長さを完全に理解し、何度押しても同じ長さで弾けない限り、その他の音符や休符も、全部長さが狂ってしまう。聞いただけの音で、全く同じ長さを再現するのは、訓練したピアニストか、機械にしか無理なのではないか。
とまあ、今その時の自分の気持ちを言葉にすると、こういう感じなのである。
なんという理屈っぽい5歳児だろうかと自分でも思う。しかし、こういう論理先行型の子供には、物理学的な説明を加えるだけで一気に理解が進むと思うのだが(例えば、この音符は0.何秒、この音符はその倍の0.何秒といった、ブレない数字の根拠を示すだけで納得する。)恐らく音大出のやや神経質そうなやせ型の中年女性であった先生には、まさかそんなことで、5歳児が手を止め固まっているとは思わなかったであろう。
そして、どんどん音を鳴らしながら、構わず説明を続けた。

自分の理解を超える事態が急速に進みつつある現状に、私はちょっとしたパニックになった。

しかし、その違和感を言葉で先生に説明するほどの才気はまだなく、仕方なく、適当に聞いた長さで音符を弾いていったが、検証をしないまま、「いいですよ~、そうそう。次はこの音の半分で!」と言われ続けても、

「絶対合っているわけがないし、半分の音を判断する根拠が曖昧。こんな風に曖昧なまま、自分が正確な音符を出しているか判断できないまま、ピアノを演奏していくことが本当にできるのか?」

といった、なんとも可愛げのない気持ちがふつふつと沸き続けた。
そのとき、私は音楽の才能、少なくとも楽器を演奏する才能がないことを思い知ったのである。

その後、結局1年ほどして、ピアノを辞めた。もう限界だった。
このような性質は、スポーツをしている時にも邪魔になることがよくあった。
中学校でテニス部に入るのであるが、ラリーをするたびに、その流れについていけなくなるのである。
今、なぜラリーは続いているのだろう?どんな要素があって、また次に繋がるのだろう?もしちょっとでも力加減が変わればアウトになるだろう、それを的確な判断で自分は返し続けられるのか?等々を考えながら打ち返しているうちに、その緊張感に耐えられなくなる。そして必ず、自らアウトやネットといったミスを犯してしまう。まあ、そりゃそうだろう。考えていたらラリーなんかできるわけがないのだ。
意識的にしろ無意識的にしろ、これは緊張から逃れたい、その場を壊して終わりにしたいという願望が、大いに働いているように思う。

つまり、私は流れに乗ることができないのだ。
常に頭で考えているため、感覚的なものを一番に優先、信頼し、その流れに乗って移動し続ける、とどまることなく、環境や状況に合わせ集中しながら、変化し続けることができない、いや苦手なのである。

だからこそというか、必然的に音楽が必要なのだ。
自分の理念や論理を越えて、直接作用する、時には変化を促し、傷を癒し、心を奮い立たせる音の力が。
自分では感じまいとしている感情や、どうにも溜まってしまった哀しみの水源を、音楽は導き溢れ出させ、解き放つ手助けをしてくれる。
本当に優れた音楽は、演奏家の自己表現の域にはとどまらず、自我とは真逆の透明な真理の香りが漂っているものだ。

ウォン・ウィンツァンさんのピアノ曲を初めて聞いた時、本当にびっくりした。
ピアノから出てくる一音一音が、きらきらとまるで光の花びらのように広がり、そっと語りかけてくる。
なぜだか哀しくもないのに、次々と涙があふれ出た。
これほど優しく、美しく、囚われのないピュアな音を、もう何年も聞いたことがなかった。
どんなふうに生きれば、こんなに素晴らしい演奏ができるのだろう。人の心を打つ音楽を創造し奏でられるのだろう。
音楽はもちろん、その演奏家の自己表現ではるが、それをはるかに超えた、誰のものでもない根源的な宇宙の美に触れたような気持ちになる。そんな音が、ウォンさんの音楽には詰まっている。もし、月から音楽が流れてくるとしたら、それはウォンさんの曲だ。

ウォンさんは、作曲家であり、ピアニストであり、即興演奏家であり、社会運動家であり、心理学のセラピストとしての面もある。
プロフィールによると、華僑の父と日中のハーフの母との間に生まれ、日本生まれの日本育ちだそうだ。
10代の頃には偏見なども受け、苦労されたらしい。恐らく沢山の厳しい現実や苦しい環境もあったのだろう。けれども、その人生のすべてを彼は昇華し、音楽の魔法の中へと溶け込ませた。

楽しみや喜び、怒りや苦しみ、様々な感情が昇華し、宇宙の中でもまれ、そして一人の演奏家を通じて、この世界に現れてくる。音楽という媒体を使って、完璧さと未熟さの完全なダンスとして。
ウォンさんの音楽に出会えたことが、本当に喜びである。
細胞が洗われたような、生き生きと蘇るような、そんな音楽を、ぜひ沢山の方に味わってほしいと思う。

今日も、月から聞こえるピアノの音が、一日の終わりを平安で彩る。
そのままの生で。人は、ただ生きることが美しいんだと。

ウォン・ウィンツァン WEBサイト (購入&試聴ページも有)

★最も好きなアルバム CD「光の華」 (2009年)
2枚組。 ピアノソロ作品11曲、ピアノソロ作品にストリングス・アレンジを加えた11曲、 全22曲を収録。NHK「にっぽん紀行」のテーマ曲「旅のはじめに」初CD化。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。よろしければひとことどうぞ!

コメントする ※すべて必須項目です。投稿されたコメントは運営者の承認後に公開されます。


コメント


アラキ ランプ
アラキ ランプ

東京在住。映画と文学と旅行が好きな典型的文化系社会人。不思議なものと面白いものに目がなく、暇があってもなくてもゆるゆると街を歩いている。そのせいか3日に1度は他人に道を聞かれる。夢は、地球縦一周と横一周。苦手なものは生モノと蚊。スナフキンとプラトンを深く尊敬している。

バックナンバー

そのほかのコンテンツ