2015-04-6
『来るもの拒まず、去るものちょっとだけ追う』
確か、パウロ・コエーリョが自身の小説のはしがきで書いていたが、「人生において深遠な変化というものは、非常に短い時間のうちに起こるものであり、その時間として1週間というのは十分な時間である」といった意の言葉を残していたと思う。
そしてその短い時間の中で、予期できない変化の波に巻き込まれ、問題が突きつけられ、それに待ったをかけることが出来ない状態で、振り向いている余裕は泣く、人は自分自身の強さや勇気を試されるのだと…。
昨年の8月にコラムを更新して以来、約半年強のご無沙汰となってしまった。実は、自分にとって、まさに昨年の夏から(さすがに小説のように1週間とは行かないが)いきなり人生の転換期に入ったかのような、怒濤の変化の連続が続いている。(←コラム更新滞りの言い訳とも言えます…。魚見編集長、ゴメンね!)
まず、身内が亡くなった。
そして同じ日に、友人に子供が生まれた。
家族のために割いていたお金や時間の使い方が大幅に変わった。
そのことにより自分の生活の優先順位が大きく変わった。
少なくとも、家族・親戚・近しい友人の中で6人が病気で入院し、そしてその内の5人が手術をし、さらに3人は命に関わる大掛かりなものだった。(手術は全員成功した。)
突然仕事環境が大きく変わり、付き合う人々、経済的な状況も大きく変わった。
その他、細々とした変化が沢山あるのだが、ここに書けないことも多い。
けれど、ほんの最初の一つの変化から、一気になにもかもが変わり始め、人生の進むべき方角が、大きく変わってしまったかもしれないと思う。
要は、静かに細々と暮らし、半分隠居にも似た心の老年期に入っていた状態が、ある時突然お尻を叩かれ、しっかり王道を歩けと言わんばかりに引きずり出され、もう一度心と体と頭(脳)のギアを一段ガシッと上げなければならない環境になってしまったのである。
“人生は長く静かな河”、その言葉どおりここ数年、良くも悪くも生活や仕事、人間関係に殆ど変化のなかった静かな年月に慣れきってしまっていた。
そして、今後もたいした変化はなく、同じような年月が日々続いていくのであろうと、どこかで思い込んでいたのである。
しかし、現実は違った。
それが、運命なのかどうかは分からない。
ましてや、その運命なるものが、人の意志で変えられるのか否かも不明だ。
しかし個人的には、どうも人間の人生に起こる出来事の殆どは、あらかじめ決まっているのではないか、運命がその都度起こるべき時期を見越してやってきて、人間の人生を導いているのではないか、と思えて仕方がないのである。
「馬鹿じゃないの?人生は自分の手でつかむものだよ!自分で思い通りに選択するんだ!」という、目標計画実現系の人ももちろんいるだろう。
しかしながら、少なくとも、こと自分の人生を振り返る限り、大きな出来事や転機になればなるほど、自分の意志とはなんら関係なく、運命が向こうからやってきて、いつのまにかその流れに乗り、気が付いたらこうなっていた。そんな出来事の繰り返しなのである。
核爆弾で破滅する地球の未来を否定し、「NO FATE!」と書き残して運命を変える戦いにでたのはサラ・コナーだが、そこには何が何でも自分(人間)の手で物事を切り開いていく!といった、西洋近代主義的な自由を崇拝する思想への賛美が隠れているように思う。(そして実際にサラは運命を変えたとされる描写で映画は終わる。)でも、果たして本当にそうなのだろうか?
考えると眠れなくなるし、きっと答えもでないことは分かっている。
古今東西の哲学者や宗教者が頭を悩ませたこの問題を、極東に住む金属アレルギー持ち、糖質制限ダイエット中の、いちサラリーウーマンに解けるとは思わない。
しかし非常に逆説的なのだが、本当に自分の意志どおりだけで生きていくことができるのだとしたら、人生に予期せぬ出来事が入る余地などなくなってしまう気がするのである。
すべては計画どおり、目標どおり、想定どおりの人生。
Everything is under my control!の世界。
それは、どこか人工的であり、安心安全な世界。征服欲を達成するには良いかもしれないが、そこに何か言いようのない虚しさを感じてしまうのは私だけだろうか。
そういえば、高校生のとき、同級生に誕生日プレゼントに欲しいものを聞かれたことがあった。
何人かでお金を出し合って買ってくれるという。私はここぞとばかりに、当時好きだった某メーカーのマグカップとティーポットのセットをお願いした。
「あのシリーズのあの形で、ポットは何色で…。」と色や形もすべて細かく指定した。
快く了解してくれた友人たちは、約束どおり誕生日にそのプレゼントを自宅まで届けてくれた。ウキウキしながら、私はその箱を開けた。
もちろん、包装された箱をあける前から、そこに何があるのかは分かっている。
そして、そのまま予想通りのティーポットのセットが出てきた。
と、そのとき、急に思いもよらない感情が湧いてきた。それは、
小さな“達成感”。そして、“虚しさ”である。
自分でも本当にビックリした。この感情はなんなのだろうと、おおいに戸惑った。
嬉しいはずなのに、自分が欲しかったもののはずなのに、どこか言葉にならない喪失感。
もちろん、嬉しくないわけはないのだが、何か心の片隅に言いようのない虚しさが漂っているのである。あの喪失感とは一体なんだったのか。
恐らく、私はそのプレゼントに、贈り物というものが意味する本来のもの、何かのお返しや御礼の品、決められた約束事といったものではなく、ただ相手を喜ばせたい、与えたい、という純粋なエネルギーを感じることが出来なったのではなかったかと思う。
そしてそれは、きっと自分が欲しいものを聞かれ、事細かに希望を出し、その通りのものを手に入れたことと関係している。
言っておくが、サプライズが好きとか、そういうことではない。
言葉にするのが非常に難しいのだが、プレゼントというものが元来持つべき役割、ただ純粋に相手に与える愛のエネルギーのようなものが、自分のコントロールによって希望の品をもらうことにより、約束や計画といった日常の利便性や効率性といったようなものに掠め取られた気がしたのだと思う。
つまり、ほんのちょっと傷ついたのだ。あー、ややこしい!
もちろん、友人に罪はないし、ましてや純粋に喜ばそうと思ってプレゼントをくれたのだと思う。要らぬものより欲しいものをという気遣いから予め聞いてくれたのだと分かっている。
でも、自分が感じたこの意外な虚しさの感覚は非常に鮮烈で、その後の人生でも何度か経験していくことになる。
話を戻すと、結局、予期せぬものが起こること自体が、人間の意志だけでコントロールし選択していける世界が有り得ないということにならないだろうか。
つまり、人間意志や自由というのは、幻想かもしれないのである。
自然がつねに外的要因によって変化するのに、自然の一部である人間を支配するルールも同じで無いはずがない、とどこかで思ってしまうのである。
そして、その予期せぬものや外的要因といったもの自体が、決められた運命の一部なのだとしたら。あー、ややこしい!
思ってもみない出来事や情報が嵐のようにやってきて、出会うべき人に出会い、また離れるべき人と離れ、気づくと新しい道の上を歩いている。
知らぬものへ恐れと不安の陰に怯えながらも、その先に出会うかもしれない希望と喜びに期待しながら、結局は進んでいくしかない。その繰り返し…。
いまの自分自身は、子供の頃に想像していた大人とは全く違う。
自分の人生がこんな風に展開していくとは、本当に思ってもみなかった。
でも、殆どの人はそうなのではないだろうか?
運命の選択肢は、あるように見えて本当はなかったのかもれない。
相反するように聞こえるかもしれないが、それを受け入れたとき、ある意味自分は自由というものに少しだけ近づける。そんな気がするのであるが、皆さんはどうだろうか。
それにしても、あー、ややこしい!
今まで出会った美しいもの、すばらしもの、恐ろしいもの、醜いもの、優しいもの、可愛いいもの、腹立たしいもの、目を背けたくなるもの、そのすべてが今の私を作っている。
そして、そのどれ一つが欠けても、今の私ではなかっただろう。
それが、運命というものならそれでもいい。そして、今までの運命に感謝したいと思う。
そして、これからやってくる運命を拒まず、去って行く運命も追わず…。
でも、この半年、新しい出会いも、そして別れもあった。
けれど、やっぱり別れは辛いもの…。
去るものはちょっとだけ追うことにする。そして、涙と共に感謝して、さようならとしたい。
これから出会う運命の人、出来事に、先に感謝しておきます。
今後とも、よろしく~!!!ヽ(^o^)丿
(※ご無沙汰の映画コラムも復活予定です。まだかまだかと問い合わせくれた皆様、すみませんでした。お楽しみに~♪)
代々木八幡宮の森と空。すべての運命に感謝して。(H27.3.29)
1件のコメント
このコラムを読み、私の頭の中に思い浮かんだ言葉は宮台真司さんの言う≪歴史≫という言葉でした(『14歳からの社会学』)。この≪歴史≫とは、簡単に言えば「どのみちそうなる」ような社会の流れのこと。どんなに何かが起き、それが「歴史」的な事件だと思っても、いずれかは単なる≪歴史≫の一コマに過ぎないとみなされるようになる。かように私たちは≪歴史≫には抗えない。
そういう運命だったんだと、人はよく言う。そこには「しょうがないじゃん」という含みすらある。でも、思い切って、「これが私だ!」と言える日が来るといい。あらゆる自己決定が≪歴史≫でしかないなら、逆に言えば「ハズレ」なんてないんだから。
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