2012-07-1
『宇宙の仔』
宇宙のことを考えると眠れなくなる…。
一体、この宇宙はどこまで続いているのか?
この宇宙の外には何があるのか?
子供のころから果てしなくだだっ広い空を見上げながら、いつもいつもまだ見ぬ宇宙の果てのそのまた果てに想いを馳せた。
恐らく、飛行機や高いところが異常に大好きなのも、そこに要因があると思う。
高いところは、宇宙に近いからだ。
いつか必ずこの地球(ほし)とは違う惑星に降りたってみせる!と、何の根拠もなく思いこんでいた小学校、中学校、いや高校の、いやそのまた先の、大学生の、ホントのこと言うと、20歳を越え社会人になり、いやはやどーも、実はあのですね、まぁこの現在に至っても尚、マジでどっかで思い込んでいた、いやいる、あの頃ではなく今の頃なのである。
宇宙に対するその情熱と疑問は、ふとした拍子に胸の奥の不思議な引き出しからヒョイと漏れだし、するすると打ち上げ花火の爆発前のような頼りない上昇を続けると、スーパーでメキシコ産のアボカドを買うべきかグアテマラ産かを迷いながら皮をつつく私の頭の上に、突如「ちーん!」と飛び出してくるのである。
「宇宙は膨張し続けてるとは言うけれど、その外側には何があるのだろう?でも膨張するからには大きくなり得る空間のようなものがあるのか?ならその空間は今一体どうなっているのだろう?そして、縮み始めた時は、その空間には何が残るのだろう?」
いつしか頭は宙へと飛び、気がつけばレジを通った記憶もないのに、しっかりとスーパーの袋を握りしめ家ににたどり着いた自分の姿に「ハッ!」として我に返るのである。
そしてまた、アボカドを切りながら、ふと思う。
「一つのものの中にすべての要素が詰まっているとしたら、このアボカドや我々人間や、惑星の成り立ちのように、生まれ(出現)、成長(膨張)し、やがて死に至る(消滅)過程もまた、宇宙の動きと相関しているとするなら…。やがて宇宙は、終わるのだろうか?いや、それは、また新たな始まりにいたる一時的な消滅であり、また新しい出現に向かうということなのだろうか?そんなことを、宇宙は一体何度繰り返しているのだろう?」
アボカドを縦切りし、何度見ても植物の種には大きすぎると思う種をペティナイフの根元でゆっくりと取り出しながら、また頭は何千光年と離れた違う宇宙や銀河のことを思う。
「でも、もしそうだとしても。それを繰り返すことによって、誰が、いや何が、どんな利益を被るのか?何の目的があるというのか?最終的に宇宙は一体何を目指しているのだろう?」
気付けば、いつの間にかポッカリ開いた種跡の穴いっぱいに注ぎ込んだ醤油にわさびを溶き、スプーンでアイスを食べる要領で、半分程の実を食べ終わっている。いつのまに…。
“我々はどこから来て、どこに行くのか?”
誰もが一度は考えるこの疑問を想起するのに、一番身近な存在が宇宙だと思う。
考えたら、空を見ると隣の星たちが見えているのである。これって結構スゴくないだろうか?!
自分が惑星の上に立って動いていることもスゴいし、ましてや、どんなときも自分は秒速約400m!で回転しながら(自転)、そのまたさらに秒速約30km!!で大移動しているのである!
ひょーーーー!目が回るぅ~~~!!
四次元コースター「X]や「ええじゃないか」もビックリである。
自分は一人静かにカフェに座って、稲垣足穂なんか読みながら、優雅な午後のひとときを過ごしていると思いきや、何のことはない。
地球上のものはすべて、どんな時も、もの凄いスピードでグルグルに動き回っているのである。
日々、そんな想いを抱きつつ、その一方で、文化系一直線で人生を過ごしてきたコンプレックスの裏返しからか、物理学や量子力学といった超理系の理論をどこかしら斜め見し、信じきれない部分があるのも事実であった。
いつもこころのどこかで、突っ込みを入れている自分がいるのである。
「宇宙は膨張と収縮を繰り返している」
→ なんでやねん!なんのために?
「何もない、無からビッグバンが起こり、宇宙は生まれた」
→ 見たんかい!
精神論や魂論では解決できない命や宇宙の不思議を前に、私は限界を感じ始めた。
私の知りたいと言う情熱は、少しずつ諦めを覚えた。もちろん、知りたい気持ちはあるのだが、所詮証明できない、太刀打ちできない、壮大すぎる宇宙の不思議に立ち向かうのはもうやめよう、そう思うようになった。
星がきれい、光が輝いている。
月が陰っている。なんて美しいんだろう。
それでいいじゃないか?
それがすべてじゃないか?!
そう思うことにした。
無力な自分に納得し、手に入らないものは諦めることにした。それがたとえどんなにまばゆい宝石のような真実を持っているとしても。
ジョナサン・リビングストンよ。そうすれば、終わりのない敗北感から解放され、もう永遠に傷つかずにすむ。
そして、卑屈感丸だしで心の宇宙オヤジのぼやきを炸裂させ、空想の世界に逃げ込んだ。
ダメ人間ならぬ、ダメ地球人。
「太陽系銀河のちょっと端のオリオン腕あたりにひっそりと、ウチらの兄弟8惑星が太陽の周りを回らせていただいておりますです、ハイ。」
「ええ、ほんの、本当に少しだけですが、科学技術も進みまして。いえ、なに、それでも大気圏の外に少し出て、母星(地球)の周りをくるくる飛ぶというか、回っているだけです。」
「銀河全体から見れば、それば宇宙というよりゴルフのグリーンの外側にある、カラーみたいなものでしょう。そんな、ほんのちょっとハミ出た距離でもって宇宙旅行!といってはしゃいでるのが地球に住む我々の精一杯のところです。まだまだウチらの科学では燃料を消費することでしか推進動力が得れないままですのでね。ま、それは致し方ないことなんですよ、ハイ。」
「月?ああ、ウチの衛星ね。あれはちょっと触れて欲しくないんですよね~。アポロ?あー、チョコじゃなくて?。ははは、失礼。でも知ってて聞いてるんでしょう?!もう、意地が悪いなぁ。あのコト…。まあ、キューブリックも死んじゃったし、今更本当のことも言えないしね。だから、とりあえず、行ったということで穏便にすましてるんですよ。まあそのうち、オバマさんがバラしてしまうかもしれませんけどね、近々辞めるときにでも…(汗)」
イメージは惑星タトゥイーンのミュージックパブに出演する、初老の流れもののコメディアンである。
宇宙の荒くれ者たちに、謎のドリンク瓶や不思議オツマミを投げつけられながら、日々小銭を稼ぎ、何とか生きている。
けれど、その心の片隅には、しずしずと宇宙に対する憧れや疑問、情熱の炎がくすぶり続けているのである。
そしてそれは完全に消えてなくなることはなく、時には一瞬ではあるが、頭の上に「ちーん!」と出てくるやっかいなものに成り果てているのである。
そんな日々をやり過ごす中、仕事帰りに久しぶりに立ち寄った地元の図書館で、1冊の本に目が止まった。
それは、
『ゆらぎの不思議 -宇宙創造の物語- 著者:佐治晴夫(PHP文庫)』
という文庫本だった。
恥ずかしながら、佐治晴夫という名前は聞いたことがなかった。
宇宙創造という言葉に惹かれ、何気なく手に取に取ったその本をめくると、最初のページにいくつかの写真が載っていた。
私の最も好きな星のひとつ、「こと座のヴェガ」から始まり、「プレアデス星団」、「オリオン座大星雲」他、美しい高原や空、彗星の写真が続き、そして本文は、天才詩人、金子みすゞの詩から始まっていた。
ちょっと、鳥肌がたった。
何かを求める自身の直感アンテナが、ビリビリと感応している。
心臓がドキドキし始めていた。何か、物凄く素敵なものに出会う予感。
その本の目次には、
「なぜ宇宙が美しいのか」
「星はどこからやってきたのか」
「宇宙のはじまりを考える」
「無とは何だろう」
「ゆらぎとは何だろう」
「なぜ宇宙は存在するのか」
「“宇宙のひとかけら”としてどう生きるか」etc.
そして、題名にもなっている「ゆらぎ」こそが、この宇宙の始まりであるという考え方を、難しい専門用語や堅苦しい理論文とはかけ離れた、誰にでも分かるような易しい文章と言葉で書かれているのである。
まるで目の前で語られるような優しい口語調なのは、この本が大学で行われた学生向けの1年間の宇宙論講義をまとめたものであるからだった。
早速、その本を借りた。いつもなら、5,6冊を選んでかりるのだが、その時は一刻も早くこの本を自宅で読みたい想いに駆られ、すぐさまカウンターに行き、逃げるように図書館を飛び出した。
自宅へ帰り、晩御飯の用意もせず本を開けた。
そこには、私の長年の根本的疑問に対する、科学的、宇宙的、文学的、芸術的解答といえるものが詰まっていた。
例えば、私が最初に衝撃を受けたのは、
「宇宙に始まりがあるとなぜ言えるのか…」という疑問に対する答えである。
なんとそれは、「夜が暗いから」なのである。(詳しくは本書をどうぞ)
理系の人には当たり前なのかもしれないが、私には目からウロコである!もう面白すぎる!!
しかも、難しい色々な理論を解説する際でも、「例えば、これがパン屋さんだとします…」といった、もの凄く日常的な例えと気安さなのである。
ぎゃー!なんてことだ!私は間違ってた!!アプローチが完全に違った。
真正面からの精神論や魂論じゃなかったんだ。
科学や数式や物理量子学を理解し発展させることが、皮肉にも芸術や宗教にさえ近づく宇宙の解明と理解に最も近く分かりやすいアプローチだったんだ。
少なくとも、私にとってはそうだったかもしれないんだ…。
文系一直線で生きてきた自分の生き方に、ガラガラとヒビが入ったような気がした。
パズルのように埋まっていく長年の疑問への答えを噛み締めながら、もし、自分が学生のときに、この佐治さんのような先生に出会っていたら、人生の指針はかなり違ったものになっていたかもしれないと思った。
そして、自分が持ち続けてきた、宇宙の孤児であるかのような孤独と疎外感が、少しづつ癒されていくのを感じた。
新しく生まれ変わるような、新鮮で瑞々しい気持ちだった。きっと、嬉し涙の洪水が、心臓から全身に行き渡っているに違いない。
それにしても。
世の中には、何と言う頭の良い人がいるのだろう。
そして、理系と文系の才能がこれほどまでに豊かに備わった秀才というものがいるものなのだ。
まるで、詩の流れ星のように美しく語られる言葉とリズム、古典から現代の文学や詩、経典や聖書などから引用された文章の数々に、とてもじゃないがこんな物理学者がいたのかと、私は心底、感心した。
なにより、絵画や音楽からから感じ取る、著者独自のとてつもない豊かな感受性、難しい数々の数式をなんでもないような日常の言葉で解説する機転と英知。
もし、ヘルマン・ヘッセがもっと穏やかな性格で、文学者ではなく量子物理学者になっていたら、きっとこんな風に若者に話しをするのではないだろうかと思われるくらい、美しい文章である。
私は14歳の頃のように、自分を取り巻く宇宙の不思議さと美しさに改めて感動した。
そして、地球に生まれたことを、そう悪いことでもないなと思った。
とうとう、惑星タトゥイーンのパブを引退する日がやってきたようだ。
自虐的で悲観的な皮肉屋のコメディアンは引退だ。
今後は、地球内のWEBネットワーク宇宙の中で、微力ながら人々の心を楽しませる文章を提供していく、一人の物書きでいることにしよう。
「宇宙って本当はどうなっているんだろう?」
そんな疑問を持ちつつ大人になり、誰にも聞けず、人知れず眠れない孤独な夜を過ごす精神的宇宙孤児の紳士・淑女の皆様。
自分は、宇宙が生み出したひとかけらの存在(仔)であり、その構成員であり、そして考えて動く葦であることですら美しいと思えるこの本を、是非お勧めします。
“I love you!(宇宙)”
“I know!!(我)”
誕生日に友人カップルからもらったホームスターR2D2!デススターも映る!(ちなみに、あのクピピクー音は出ません)
1件のコメント
もちろん さっそく借りて読んでみるよ。
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