2010-12-12
愛は他動詞?!
確かそれは何かの本で読んだのだが、もともと『愛する』という言葉は日常の日本語にはなく、聖書のLOVEを訳すために作り出されたのが『愛する』という言葉だと書かれていた。(「愛」という語自体は古くからある)
もしかすると諸説があるのかもしれないし、間違った説なのかもしれないが、その言葉を読んだときに私はハタっと膝を打った。
「やっぱりそうかっ!そーなんだよなぁ!」
自分の中でくすぶっていた長年の違和感が払拭され、突風に煽られたクモの子が一気に蹴散らされるように、私の脳内の目に見えないモヤモヤホコリが一気に蒸発した。きっと血流は屋久島の清流なみにサラサラとクリアに流れ始めただろう。
何かしっくりこないなと思いつつ、あえて深くは追求していなかったこと、見て見ぬふりをしていたことへの回答が、突然目の前に差し出されたような感じだ。
“ピンポーンッ!”
その説の真偽はどちらでも構わない。ただその記事を読んだことにより、自分が感じていた「愛する」という言葉への違和感が、とても分かりやすく表面化したのである。
つまり、私は長い間、「~を愛する」という語の使い方はどうもオカシイのではないかと思っていたのだ。もっと正確にいうと、一般的に「愛する」と言われている気持ちと、実際に使われている「~を愛する」という言葉が示す状態が、一致しないのである。
まるで外国語の翻訳語のような動詞で、日本語としての不自然感がどうしても拭えない。しかしながら、こんな超ウルトラメジャー級の言葉に自分ごときが文句をつける訳にもいかず、心ひそかにひとり「愛」についての使われ方を悶々と懸念しておったのである。
一般的に「愛する」という動詞は、他動詞とされている。
他動詞とは簡単にいうと、その動詞が作用するための目的語(「~を」で表されることが多い)を伴う、それだけでは完結しない動詞。
一方、自動詞は、目的語がなくそれだけで完結する動詞。
例えば、以下の文。
・ 「木の実を落とす」 → 他動詞
・ 「木の実が落ちる」 → 自動詞
私の中で「愛する」とされる言葉に近い状態は、非常に感情的自然発生的なもので、それは行為や動作ではない。どちらかというと、限りなく自動詞的な表れ方のする形容詞的なものなのである。
日本語で言うと、意味的には「好き」、「愛(いと)しい」に近い。
文法的には「苦しい」、「寂しい」といった状態を表す言い回しに近い。
これらの語句の共通点は、感じるということだ。
気がついたら、「愛していた」、或いは「愛を感じていた」という状態。
そこに、意志の介在がないのである。
自分の中にある感情が自動的に発生し、対象にたいして湧き起こるもの。その状態を表す言葉。そんな部類の中に、「愛する」という言葉が入る。
つまり、「It’s automatic」である。
それを15歳で歌にしてくれた宇多田ヒカルちゃんはやっぱり天才的だ。
(言語学的な細かい要素は私には分からないが、ここではカテゴライズが目的ではないので、一般的な意味の受け取り方として許してちょうちん)
殆どの人は、もちろん「何かを」「誰かを」『愛する』経験があると思うし、その感情を覚えているだろう。対象は、家族や恋人、妻や夫、友人、時には人以外の物であったかもしれない。
それは、誰かに強要されたり、意志でしたり、感じなければならないものとして努力した結果のものであっただろうか?
(もともと、感情自体が意志とは真逆ものものであるから、これ自体が愚問である…)
では、なぜ、そういうことになってしまったのだろう。
「(私は)あなたが好き」が、私にとっては日本語的にとても自然で馴染むのに対し、「(私は)あなたを愛する」という語は、先述ではないが何か外国語の翻訳のような日常生活に馴染まない、取ってつけたような表現に思えてしまうのはなぜか?
そして、人々はなぜ、普通に「愛する」を他動詞として使い続けるのだろう?
そう考えたとき、キリスト教の影響があるとしたら、つまり聖書の訳として「愛する」という語が新たに作られ、その影響として現在の使われ方になったとしたら、大変に納得のいく話だと思い至ったのである。
なぜなら聖書には、沢山の意志的な「愛」が出てくる。分かりやすい例は、「汝、己の敵を愛せ」という言葉だ。
通常の俗世間の人間なら出来ないこと、「自分の敵を愛する」ことを、あなたの意志の力でやり遂げなさいというメッセージが含まれている。
恐らく、この「愛せ」は「許せ」とも言い換えられるだろう。
それは信仰のために自分の感情を犠牲にし、神の意志の通りに、神の力をかりて、自分を高めるためにすることである。本来なら出来そうにないことを、神がそれを望んでいるならば、自分はそれを(やりたくはなくても)やるべきであるという意志の力だ。
それは「許す」、あるいは「許そう」という意志を伴う、紛れもない「他動詞」であり、道徳的な意味合いが隠れているように思う。
そして、日本語の「愛する」は、もともとは意志で行うものではない「愛」という感情を、この「許す」=「愛する」と言い換えられるような、まるで自分の意志を介在して行われるような感情であると誤解したまま、今日まで使われ続けてきたのではないだろうか。
言葉の力とは強力なものであり、そうして長年「愛」を他動詞として使い続けているうちに、いつしか日本人も皆、「愛」が他動詞的なものとして認識してしまい、今に至るような気がする。
つまり、意志の力で何かを「愛せる」と思い込んではいないだろうか。
だからというか、「好きになれない」という語句には、あまり責任感を伴わないが、「愛せない」という言い方には、罪悪感の匂いがする。
でも、本当にそうなのだろうか?
一般的に何も愛を感じていないものに対して「~を愛せ」と言われても、本心のところなかなか出来るものではないだろう。
「えぇ?ちょっと…」「そう言われても…」となるのが普通だ。
それは、「この料理を美味しいと感じろ!」「今、寂しいと思え!」、と言われているのと同じなのである。「美味しいと感じない」「寂しいと感じない」ものを、無理やり感じさすことは出来ない。感じることに努力は無用だ。
「愛」も同じである。
「あの映画を好きになれ(愛せ!)」、「この人を愛しいと感じろ(愛せ)!」
無理である。愛は感情の状態であり、自動的に出てくるものであるから。
「~を愛せ」が無理なら「~を愛する」も無理だ。
そこに意志があれば、それはいわゆる「愛している」状態ではない。
「愛する」状態になるために「愛している」という行為を行っているのである。
「(意志で)好きになる」「(意志で)愛しいと感じる」ことが不自然なように、「愛する」ことを目指せば目指すほど、もともとの純粋な「愛」の意味からかけ離れていくことになる。
だから、誰かを、何かを、「愛せない」と悩む必要はないのである。
夫を愛せない、妻を愛せない、子供を愛せない、友人を愛せない、学校を愛せない、故郷を愛せない、仕事を愛せない、猫を愛せない、自分を愛せない・・・。
そうだろう、そう感じてないなら仕方ない。もともと「愛する」という状態が不自然なのだから。
でも、「好き」ならどうか?
夫を好きじゃない、妻を好きじゃない、子供を、友人を、学校を、故郷を、仕事を、猫を、自分を好きじゃない・・・。
それは、感情である。
現在の気持ちの状態、「好き」と感じていない状態に過ぎない。だから、何かのきっかけで変わることもあるかもしれない。
しかも、それは気がつけば、自らの意志ではなく自動的に起こるものなのである。
「愛せない」もの、「愛せない」自分を、いつか自然に、自動的に、「好き」になっているかもしれないのである。
そして逆説的なのだが、自分の意志ではないからこそ、それは自分自身を信じることに繋がる気がするのだ。
感じる自分を信じれる人間であることは、ある意味とても健全なことであると思う。
そう考えると、ちょっとばかり生きていくのが楽になる。少なくとも、私には。
最後に。
この「愛」と同じような違和感のある使われ方に、「平和」と「健康」があると思うのですが、どなたか論じてくれませんか?
私は「愛」で、手一杯です…。
『 愛って、どっち?!』
1件のコメント
loveをまずは状態動詞に分けると、話はとてもわかりやすくなる。
アラキランプさんも言っているように、感情の状態だからだ。
状態動詞、つまりは「今どう言う状態にあるか」を表現するもので
あるので、loveを訳すと、「愛している」と言うのが一番適当なんだろう。
しかし、上にもあるように、聖書の翻訳書を読むと「愛する」となっていることが多い。う・・・ん。一体どう言う状態なのか?やっぱり自動詞的に訳してるよねぇ・・・。
「愛する○○」のような形容詞的なものなら、愛すると言う日本語になんら違和感をおぼえないが。
やっぱり、色々努力して工夫してそういう状態にするように心がけなさいと言うことなのだろうね。
平和と健康かぁ・・・。
これは英語では、名詞であったり形容詞であったりするので、
be動詞を伴う。
be動詞も状態動詞なので、やっぱり上と同じような解釈は出来ないだろうか?
言葉って、難しいですね・・・。
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