salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

〜日常は、劇場だ!〜「勝手に★ぱちぱちパンチ」

2011-08-9
元祖!ランチの女王

蒸し蒸しと体にまとわりつく亜熱帯のような湿気とともに、ようやく地平線近くにまで辿りついた太陽のまだまだ凶暴と言えるくらい強力なオレンジの光が、タチの悪いヤンキーのガン見目線かと思えるくらい執拗に私たちの背中を照らしていた。
季節はちょうど夏の初め頃で、初夏というにはあまりにも高い気温に、歩き疲れた足の指先にまでじわじわと汗が滲んでくるのが分かる。おかげで、ちょっと大きめサイズのサンダルは、足の裏でつるつると微妙な体重移動を繰り返し、余計な踏ん張りがさらに足先に疲労を蓄積していくようだった。

探している店が見つからない…。

先ほどからもう20分くらいは迷っている。早くしないと友人が出演するジャズのライブに間に合わない。
サラリーマンをやめ、本格的に音楽を仕事にし始めた友人が、その世界では有名なジャズのライブハウスに出演すると聞き、共通の友人で親の家業を継いだ比較的時間に融通の聞く同級生を誘い一緒に出かけることにしたのだ。
店までの道のりは頭で覚えてきたつもりだった。同級生の友人も何となく場所は知っていると言っていたし、しかも彼は日頃から父親がジャズ好きだと公言していたこともあり、てっきりそのお店に行ったことがあるものと思っていたのだが、よく聞くと今日が初めてだと言う。
いずれにしろ、近くまで行けばすぐに見つかるだろうと高をくくっていたのが甘かった。
気が付けば同じところを何度もグルグルと回っている。

「あれ?また同じところに出たよ…」
「こっちじゃないかな?そっちはさっき行ったよ。確かビルの地下だった筈…」
「暑い!早く店に入りたい」
「ヤバイな。もう、始まっちゃうな」

ライブに出演する友人に直接電話してみようかとも思ったが、時間的にも既に本番直前になっており、心身ともに演奏準備の邪魔はしたくなかった。
それに、ライブハウスは通常防音設備がととのっており、店内で電波は繋がらないことが多いので、多分無駄だと判断した。地下にあるのならなおさらだった。
二人でなんとかお店を見つけるしかないのだ。

 暑さと湿気と汗のせいで、髪は乱れ、汗はシャツをびっしりと濡らし、足先はもう完全に歩くのを拒否していた。
あせりとイライラから不快な気持ちが募り、今日出てきたことを少し後悔し始めたその時、やっと目的のライブハウスが見つかった。

「あったー!ここだ!」
「おー、よかった!」

なんのことはない。大きな通りを完全に一本勘違いしていたのだった。

「とにかく急ごう!もう始まるよ!」
「うん、走ろう!」

私たちは人が一人通るのがやっとの細い階段を、急いで駆け下りた。
足がツルツル移動し、足の指全部がサンダルのつま先からはみ出そうになるのも厭わず、とにかく一刻も早く店内へ、そして涼しい空気を求めて入り口までダッシュした。

店内は既に満員だった。客たちは皆ビールやワインを片手に食事やおしゃべりを楽しんでいる。
どうやら演奏はまだ始まっていないようだ。ギリギリ間に合った!
友人が予約しておいてくれたステージ近くの席に案内され、ようやく席に座ることができた。心底、ホッとした。

店内の強力な冷房のお陰で急速に汗は引きつつあったが、夏の暑さが苦手な私には、店に辿りつくまでの時点で既に今日一日の体力の殆どを使い切ったといっても間違いではなかった。
疲労と倦怠感。正直、もうこのまま演奏を聴かずに帰りたい気分だった。
しかし、今日は友人のハレの舞台を見に来たのだ。帰る訳にはいかない。
私たちは飲み物と簡単な食事を注文し、出てきたビールでまずは無事にお店に辿り着けたことを祝って乾杯した。
やっと少し、気分が良くなった。

タイミング良く、店内の照明がゆるやかに落ちた。
友人のライブが始まった。

やや緊張気味ではあったが、ライブは順調に進んだ。
当時、まだライブの経験が多いとはいえなかったが、友人は観客の声援をすべて自分の味方にしたかのような愛されエネルギーを放出し、無事最初のセッションを演奏し終えた。
スタンダードなナンバーや難しいテンポの曲も乗り切り、何と言っても観客の反応がとても良かったと思う。
私たちは2杯目のビールを注文し、もう一度、今度は友人が無事に演奏を終えたことを祝い乾杯した。
また、少し、気分がよくなった。

次のセッションまでの間、同級生と話しをしながら改めてライブハウスの様子をよく見てみた。
ジャズという事もあってか、客の年齢層は比較的高い。そして半分以上は中年以降の男性客だ。
多分、中にはマニアな客もいるのだろうが、有名店ということもあってか、普通のサラリーマンぽい人も多い。皆、気軽に音楽を楽しんでいるように見える。
そして、まもなく2回目のセッションが始まった。

友人は1回目の時よりも格段にリラックスしているようだ。
アルコールの威力もあって、私は演奏に聞き入った。よりリラックスし集中して演奏された音楽は、ゆっくりと私の、そして観客の心に響いていく。

夏の夜。仕事帰りに経験するには十分楽しいライブだった。
友人の演奏する姿も見れたし、お酒も食べ物も味わったし、何曲かは自分の知っているスタンダードナンバーも聞けた。
お店に辿りつくまでにかなりの体力と気力を使ってしまったが、ちょうどそれが相殺できるぐらいの楽しみを味あわせてもらった。それで十分だったし、それ以上は何も望まなかった。

演奏も終わりに近づき、最後のアンコールタイムに入った。
観客は手拍子でバンドを呼び出し、客の何人かが口にしたリクエスト曲の中から、バンドは数曲を演奏した。
頭にメロディー読み込み、手拍子でリズムをとりながら、私は心の中で、無意識に明日のことを考えていた。

「あと数曲聞いたら、もう終わりだ。明日は仕事だな、またがんばろう…」

一日が終わるモードに、脳がゆっくりとシフト変換されようとしていた。
アンコールの演奏も終わりに近づき、帰る準備を始めようかと考えていたその時、突然店の空気が変わった。
店の奥から、一人の人物が飛び出してきて舞台に上がったのだ。

「yeah~!yeah~!yeah~~~!!!」
「ドゥビドゥビ~シャラピピバラッパ~ドゥトゥルシュビドゥビパラパァールッブァーッ!!!」

(は?)

誰もがそう思った。

もの凄い早口のスキャットで突然歌いだしたその人物の姿に、私は唖然とした。
なぜならその人物は、今まさに厨房から出てきた、おばちゃんだったからである。

片手にマイクを持ち、頭に三角頭巾を巻き、ヨレヨレの真っ赤なエプロンにぶかぶかの長靴、大きなメガネとパーマヘヤー。(しかもはっきり言って、おばさんというよりはおばあちゃんに近い年齢かもしれない)
そのおばちゃんが、まるで取りつかれたように両手足を動かし、リズムを刻みながら、機関銃のようにズブズブと呪文のようなスキャットを歌っているのだ。

「シュビドゥビドゥビブビ~ッパズyeah!yeah!yeah~!!!」

見た目とのあまりのギャップに「一体何者?」とポカンと口を開けてみている客もいれば、野次を飛ばしながらも大喜びのお客もいる。
そんな観客の反応はお構いなしに、おばちゃんの怒涛のスキャットは、これでもかというくらいの勢いで店内に渦を巻き、台風のように空気をかき乱していく。
演奏者は、これはいつものこととでも言うように、おばちゃんのスキャットに合わせて曲を盛り立てている。

「イエーイ!イエーイ!皆様お待たせいたしました!私(わたくし)、ランチの女王!ランチの女王でございます~!!!」

ランチの女王…。
そのおばちゃんは、何度も繰り返しそういった。
あとで聞いたところによると、おばちゃんは何とここのオーナーで、今は経営を息子に任し、自身は昼間この店でランチを作っているという。夜も厨房で手伝いをしているそうだが、まぎれもなく正真正銘のジャズウーマンなのである。

しかし、もの凄い迫力とエネルギーである。
おばちゃんは両足でリズムを踏み、長靴をポコポコ言わせ、手を上げ踊り、エプロンをしわくちゃに揺らしながら、ますます激しくなる音楽のウェーブに自身の声とエネルギーを集中し、歌い続ける。

「ランチの女王、ランチの女王が歌います!!!!!シュビドゥビドゥビブビ~ッパズビジュビデインデパッパラ~ッyeah!ビジュビデインデパッパラ~ッシュビジュビドゥバッパー!!!」

おそらく、60代後半から70代前半であろうと思われるおばちゃんの圧倒的なエネルギーに、いつしか私の中の、いやそこにいた多くの観客の中の、何かが捕まれてしまった。
気が付くと、店内の客すべてが、このおばちゃんのものになっていた。みんな手を叩き、顔が輝き、笑顔と喜びがその場を支配している。心が開放されている。
誰もが、おばちゃんに魅せられて、今このひと時を生きていた。今を楽しんでいた。いや楽しむというより、幸福だった。
なぜなんだろう?こんなにも楽しく幸せな気分になるなんて。

おばちゃんは、その見た目とは裏腹に、キラキラと輝いていた。
全身で叫び、歌い、踊り、まるでリズムの奴隷のように体をくねらせ、すべてを開け放ち、すべてを音楽にゆだねていた。その場のすべてのエネルギーを取り入れ、湧き出るメロディーとリズムに完全に乗り移り、放射していた。
しかも、究極にそして完璧に楽しんでいた。
その場にいることを、自分自身を、音楽を、お客を、時間を、人生を。

そこには、虚栄、傲慢、取り繕い、計画、約束といった、自らを縛るものは何もなかった。ただ、歌いたい、叫びたい、踊りたい、自己解放のためのエネルギーがあるだけだった。
それは、ある意味自己中心的とも言えなくもないが、全く持って100%、心の赴くままの姿を見せられると、人は不思議にその姿に感応してしまうのかもしれない。
今この店内にいるすべての人が、このおばちゃんに感応し、開放の喜びと至福感に包まれた、究極の快を共有しているようだった。

そして気づくと、私の中で、先ほどまでの自分の感情がどこにも見当たらなくなっていた。自分の中の何かが、いつのまにか違ってしまっている。

今日ここに来るまでの出来事、道に迷い、イライラし、ライブに行こうと出てきたことでさえ後悔し、やっと店が見つかりホッとし、まあ適当に、それなりに楽しんで、それで良しとしよう。そしてまた明日の仕事を思い、なんとなく普通にほどほどに過ごすことに満足していた自分。今日のことだけじゃない。多くを求めず、無難に、当たり障りなく生きようとしていた自分。

「違う!そんなんじゃない!そうじゃない。生きることって、もっと楽しいんだ!激しいんだ!そうだろー!そうだろうーーーっ!!!」

おばちゃんが全身で私にそう叫んでいるようだった。

泣けてきた。いつの間にか置いてきた、自分の勇気や強さや、馬鹿みたいな熱い思いや気持ちが、まだ静かにどこかに潜んでいる。忘れ去られたその雫が溜まった私の心の湖に、おばちゃんの歌は響いたのだ。水面がざわざわと波打っているようだった。

おばちゃんは、その後もマイク片手に客を煽り、叫び、踊りながら、ひとしきり歌いきったところで、そのまままた厨房へと踊りながら消えていった。(格好良過ぎ…)

ライブハウスを出たとき、私は信じられないほどのエネルギーで満たされていた。
半端のない幸福感と喜びの感情が、全身の毛穴から暗闇の街中へ漏れでているようだった。
まるで生まれ変わったような新鮮な気分で、夏の夜の生暖かい空気を思い切り吸い込んだ。あれほど不快に思えた湿気も、今は心地よく感じるのが不思議だ。

「おばちゃん、ありがとう!」

生きていると色々な出来事や人に会うけれど、ここまで心に触れる出来事はそうそう簡単には出会えない。
私は振り返り、そのライブハウスに向かって深々と頭を下げた。

「いつかランチに来ます。ホントにありがとう、おばちゃん。いや、女王!ランチの女王!」

あれからそう短くない年月が過ぎた。
あの迷路のような街の片隅で、ランチの女王は、まだ元気に歌っているだろうか。

♪~シュビドゥビドゥビブビ~ッパズyeah!yeah!yeah~!!!


(以前、テレビで同名の『ランチの女王』というドラマがありましたが、こちらのお店およびおばちゃんとは一切関係ございません。もちろん、このドラマよりも先におばちゃんが『ランチの女王』を名乗り活躍(?)していたのは言うまでもありません…^_^;(汗))

元祖ランチの女王!(あくまで記憶のイメージ・雰囲気図です。実物には似ていないかも…)

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アラキ ランプ
アラキ ランプ

東京在住。映画と文学と旅行が好きな典型的文化系社会人。不思議なものと面白いものに目がなく、暇があってもなくてもゆるゆると街を歩いている。そのせいか3日に1度は他人に道を聞かれる。夢は、地球縦一周と横一周。苦手なものは生モノと蚊。スナフキンとプラトンを深く尊敬している。

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