salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

〜日常は、劇場だ!〜「勝手に★ぱちぱちパンチ」

2011-02-8
カレーなる人々 ~スパイス王国へようこそ! その⑤暴風の中で…後半編 <最終回>~

店内は、静かにその予感を待っていた。

ひとくち、ふたくち。
男性は、カレーを口にした。
何とも言えない奇妙な緊張感と、沈黙の世界。
その場にいる誰もが、どんな気配も逃すまいと視聴覚のアンテナを最大限にまで張り巡らし、空気の流れを読んでいた。

しかし、男性に特に変わった様子はなかった。そのまま静かにカレーを食べ進めている様子だ。
左手でマンガを読みながら、右手でゆっくりとではあるがカレーを口に運んでいる。
スプーンがお皿にあたる音だけが、店内に響く。

私と友人は、そっと顔を見合わせた。
どこかでホッとしながらも、正直、少々拍子抜けしてしまった。
お互いのつぶやきがテレパシーのように分かる。

(なんだ、ホンマもんの超辛党だったんだ…(汗))
(それならそうと言ってよ。こっちが緊張するよ~(ホッ))

(無謀な若者扱いしてしまい、申し訳なかった。きっと彼は、日夜超辛党の店を探し続けるカレーヒッピーの一人に違いない!)
(余計な心配してゴメンネ。今日は辛いカレーに巡り合えて、本当に良かったね!黒ブチさん!)

(これからも、黒ブチさん好みのカレー屋に出会えることを、心から祈っています)
(どうか、激辛人生を楽しんで下さい。グットラック!)

私たちは心の中で、勝手にその男性に詫びた。
最初は無謀な若者として冷たい目で見たこと、しかし途中から心配になり注意しようとしたがやっぱり出来なかったこと、そしてその超辛党を理解できなかった我々の器の狭さを反省し、許しを請い、最後には彼の人生と未来へ、祝福と激励を送った。(やや尊敬の念を込めて、黒ブチくんから黒ブチさんへと昇格も果たした。)

全くもって、本人には関係ない他人の想像の世界で、彼は一度無くしてしまった信用を見事に取り戻すという、波乱の運命をたどったのである。誰もが出来ることではない。
というよりも、基本、本人には全く関係ない余計なお世話であり、甚だ迷惑な話そのものである。

それにしても、世の中には自分たちが想像もつかない哲人がいるものだ。
凡人の世界では考えられない。一体どんな舌をしているのだろう。
しかし、今や私たちは凡人の世界に戻らねばならない。他人の心配をしている場合ではなかった。自分たちの戦いが残っていたのだった。
地道な努力の甲斐あって、私も友人もカレーの残りはかなり減ってきていた。
もう少し頑張れば完食できそうである。
なかなか先が見えなかった我々の長く苦しい旅が、今やっと終わろうとしている。

あと少し!あと少し!

汗と鼻水にまみれながらそう言い聞かせ、もう殆ど食べ終えそうになったそのとき、突然友人が私の腕をつついた。

「?」

隣を見ると、友人はこちらを見ず、ただミュータントのように小さくアゴを右に振った。
私はすぐに意味を理解した。

(トナリヲ ミヨ…)

ひとつ空けた席に座る、あの男性の方を見た。
スプーンを持つ右手が、空中で静止している。一見すると、ただマンガに夢中で、次に食べるまでの間に動きが止まっているだけのようにも見える。だが、いつまでたってもマンガのページをめくる音は聞こえない。
よく見ると、顔と首筋には大粒の汗が噴出し、滝のように次から次へと流れ出している。既にTシャツの首元は、汗でびしょ濡れであった。
恐々と男性のお皿を見ると、カレーはまだ殆ど減っていなかった。
にも関わらず、デカコップの中身は完全な空っぽで、水はもちろん、氷のひとかけらさえ残っていなかったのである。

(ヒィーーーー!!!まさかっ…(汗))
(言わんこっちゃない~。やっぱり無理だったんだよ、10倍は!)

(店主も店主だよ!そんなこと分かっていただろうに、注意してあげればよかったんだよ~)
(ど、どうするよっ!黒ブチさん。絶対絶命のピンチだべ~!!)

心の会話が、怒涛の勢いで繰り広げられた。
恐れていたことが現実になってしまったのだ。
これからこの男性は、どうなってしまうのだろう。敗北を認め、勇気を持ってあの店主の前でこのカレーを残して帰るのだろうか。或いは激闘の末、この辛さを突破するのだろうか。いや、それ以上に、彼は生きて帰れるのだろうか。

残すも地獄、食べるも地獄…。
と、そのとき、突然それは起こった。

ゴゴゴゴゴオオォォォ~~~~~!!!

いきなり背後から不審な轟音が響き渡ったかと思うと、強烈な突風が私たちの首筋に容赦なく吹き付けられた。

(げげっ?)
(な、なんだっ?!)

振り返ると、カウンターの背後の壁に取り付けられた大型エアコンが、突如稼動していた。
しかも、その威力はエアコンが持つ最大の風量だと思われ、吹き出し口は全開になり、物凄い勢いで冷風を送り出している。
そして何よりも至近距離であるため、冷風は部屋全体に広がる前に、まず我々の首元に直撃する。まるでスナイパーが致命傷を狙い撃ちするかのように、ピンポイントで我々の首に吹きつけられるのだ。

辛い!苦しい!!そして首だけ寒い!!!

ふと、カウンター内の店主を盗み見た。
キッチン奥の柱にあるエアコンのスイッチをいじっている。この爆風の原因は、恐らく店主が我々三人の尋常ではない汗の量を見て、風量を最大に切り替えたのだろう。

(オタク店主よ!やめろ!弱にしてくれ~!)

わずかに残る気力の中、最後の力を振り絞りテレパシーを試みるも、店主には全く通じなかった。
満足そうに調節を終了し、また洗い場のシンクへと戻っていく。

ただでさえ、地獄の苦しみを味わっている中、またしても新たな責め苦が加わった。
真後ろから来る風に煽られ、髪は逆ビヨンセの状態となり容赦なくカレーに入り込む。
仕方なく片腕全体で顔の周りをぐるりと押さえながら、なんとか髪がお皿やスプーンに触れないように食べようとするが、その姿は何かの儀式のように奇妙な体勢になり、恥ずかしいことこの上ない。
先ほどまで使っていた汗や鼻水やいろんなものをぬぐった紙ナプキンは、そそくさと逃げ出す間男並みの速さで、既にどこかに飛んでいってしまった。
隣の男性は、パラパラと音を立ててめくれ上がるマンガ本をどうにか押さえているが、とても読むどころではない。
お皿に盛られたカレールーも小波のように波打ち、茶色い玄米の岸辺へと打ち寄せている。

体は熱い、汗は出る。でも、異様に寒いのだ!

「生き地獄、三重苦」
これを拷問と言わずとして何と言おう…。

もはや一刻も早くこの店を出るしかない。やはり、食べきるしかないのだ。
そう、あと少し、あと少しで終わる。
私と友人は必死で食べた。髪が逆立とうが、首だけ鳥肌が立とうが、汗と鼻水が邪魔しようが、とにかく食べた。
もはやジーンズのベルトは穴から外され、一本の無能な皮ヒモと化していた。

そして永遠とも思える数分の後、ついに、わたしたちは食べ終わった。やりきったのだ。
辛さと苦しさと、一部の寒さの中、諦めなかった自分を自分で褒めたい。
隣の男性を見ると、お皿には、まだ半分以上のカレーが残っている。
先ほどと同じく顔の表情はクールなものの、変わらず流れ落ちる尋常ではない汗の量が、彼の置かれた地獄のような厳しい現実を物語っていた。
それにしても、あのカレーを三分の一食べただけでもたいしたものだと思う。私なら絶対に無理である。
彼に対する尊敬の念は、ある意味、より深まったと言えるだろう。

(もし、このまま私たちが店を出て行ってしまったら、一人残された彼はどうなるのだろう?)
(最後まで食べるつもりなのだろうか?本当に死んでしまうかもしれない。あの汗は、緊急事態であることは間違いない…)

見ず知らずの男性ではあるが、この困難を共にした人間同士として、いつの間にか強い仲間意識のようなものを感じてしまっていた。
何か、私たちに出来ることはないか。友人に、そっと相談しようとしたそのときであった。

突然、男性はマンガを閉じた。
そして立ち上がり、店主に向かってポツリと言った。

「お会計…」

キター!ついに決断したのだ。
私も、反射的に立ち上がった。

「続けて出よう!急いで!」
のんびりと口に含んだ氷で舌を冷やしていた友人を、小声で促した。友人もあわてて席を立つ。
続けて出ることで、少しでもその男性のお皿をチェックする店主の目を遅らせようとする、有効かも無効かも分からない余計な親切だった。

すると、いきなり会計に三人ものお客が並んだことで、店主は動揺した。
いつもの焦り顔が復活し、額に皺を寄せ、汗をかき、ややパニック状態で会計に取り組む。
何度もつり銭を確認し、汗だくの手のひらで必死に小銭を返している。
どうやら心はお釣りのことで精一杯で、カレーの残量のことなど二の次になっているようだ。
特に何を言われることもなく、男性は会計を済まし、早足に店の出口に向かった。
続けて私たちも会計をする。作戦は見事に成功?したようだった。

支払いを済ませ、「ごちそうさま、美味しかったです」と一言残し、私たちも店を出た。
暗く狭い通路を後にし、フラフラと外界の空気を味わう。
店主がどこまでカレーの残量を見極めたかは不明であるが、「ありがとうございました~」といういつものアルトは変わりないように聞こえた。
恐らく今頃、残された10倍カレーを前に、何かしらの感慨に浸っているに違いない。
いずれにしても、なんとか無事に生きて帰ってこれたのだ!私たちも、あの男性も。

思えば、今日あの店に入ったときから、どれ程の時間が流れたのだろう。
希望に満ち、明るい未来を信じて疑わなかったあの入店のとき。それははるか遠い昔の幸福な記憶。
それに比べ、今や我々の体は重く、視界は狭く、歩くのも息をするのも苦しい肉体を引きずった、アジアの片隅に生きる二足歩行の生物、それが私たちだった。

先に店を出た、あの男性の姿はもうどこにもなかった。
恐らく彼は学んだであろう。
カレーの神様の遊戯は、時に人間の想像を遥かに超えた、過酷で滑稽な神秘の迷宮であることを。
そこはきっと、百戦錬磨の勇気と知力と体力が求められる、壮大なスパイスの王国なのである。
簡単には、攻略できないのも無理はないのだ。(ってことは、あの店主…。ボスキャラ?!)

その夜、私と友人は夕食を抜いた…。

カレーネタが尽きたので、最近知人がタイで食べたという『カオソーイ』 なんと米麺の上に揚麺が乗ってるそうな。美味そう~!

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

1件のコメント

援護射撃をしてもらっているにも関わらず、その態度は何だ!黒めがねさん、いや、黒めがね!もはや呼び捨てや!ううううう、やっぱり無理やったんですね、10倍カレー。
それに引き換え、爆量攻撃も、激辛攻撃も、そして何の効果も生まない冷房攻撃をも制覇し完食したお二人はすごい!
「アジアの片隅に生きる二足歩行の生物」(爆)
スパイス王国面白かったぁ~♪

by umesan - 2011/02/21 7:28 PM

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アラキ ランプ
アラキ ランプ

東京在住。映画と文学と旅行が好きな典型的文化系社会人。不思議なものと面白いものに目がなく、暇があってもなくてもゆるゆると街を歩いている。そのせいか3日に1度は他人に道を聞かれる。夢は、地球縦一周と横一周。苦手なものは生モノと蚊。スナフキンとプラトンを深く尊敬している。

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