salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

〜日常は、劇場だ!〜「勝手に★ぱちぱちパンチ」

2011-03-27
『忘れられない言葉』 ~身内から賢者まで~

人は誰も、『忘れられない言葉』というものがあると思う。

それは身近な人に言われたり、誰かに教わったり、本や映像の中で見聞きした言葉だったかもしれない。
何気ないひとこともあれば、歴史的に名を残す人物の格言もあるだろう。
その言葉の中に、一瞬にして自分の世界を変える英知や光を見出し、救われることはないだろうか。
または、自分の視野の狭さや偏見に気づき、後悔や反省の気持ちをいだいたことはないだろうか。

どんな人間も、生きていると少しずつ自分の立ち位置や物の見方で、他者や出来事を捕らえてしまうものだ。純粋な物そのものや人そのものの姿を捕らえにくくなり、心の中の泉が少しずつ減って堅くなってくる。柔らかく何でも吸収し、常に新しい目で生きることは、なかなか難しくなる。

私自身もそうだ。
だからそんなときは、自分に新しい気づきを与えてくれた『忘れられない言葉』を思い出し、堅くパリパリ干し昆布のようになってしまった自分の心をゆっくりと戻す。
誰もが同じ言葉に心を動かされるとは思わないが、たまたまそのとき、自分の心にふと触れたその言葉に「よくぞやってきてくれた!」という感謝の気持ちと、「なぜこのタイミングで!」という不思議な縁、そして「何かに見守られている」かのような見えない力を感じることがある。

それはある種、世界との究極のコミュニケーションの形かもしれないと思う。
どこかで答えをさがしている行為そのものが、どこからか言葉として返ってきているとするならば。
世界と繋がっている。言葉にすると陳腐で恥ずかしい表現かもしれないが、心のどこかでそう感じるからこそ、その言葉は忘れられないものとなるのかもしれない。

  『被選挙人のレベルは、選挙人のレベルを超えない。』(大学の授業)
→ 学生時代、法学の授業で強烈に心に残ったひとこと。政治や政治家の愚行、行政の政策に対して、怒りや不満が爆発しそうになったときに、必ず思い出す言葉。責任は、その人々を選んだ自分たちにはないのかと。

  『心ある人』(徒然草)
→ 高校のとき、大嫌いな古典の授業で「心ある人(物の分別のついた良識のある人、物の本質を見極められる人)から見れば、なんという馬鹿げたことだろう」という訳を見て愕然となった。こんな昔から人々の意識は今と殆ど変わらないと。自分も絶対に「心ある人」に笑われないような「心ある人」でいたいと強く想った。その気持ちは今でも変わらないが、果たして自分が実際に「心ある人」になれているのかは不明である。

 『人って同じだよ。』(講師の先生)
→ 思春期真っ只中。自分は何か人と違う、オリジナルなものや個性を持った存在でなければ生きる意味がないのではないかとモンモンと世間を斜め見していた頃。ふと言われた講師の先生の一言にハッとなった。そうだ、みんな基本的に美味しいものが好きで、楽しいことがあれば嬉しくて、幸せになりたいと思っているのだ。他人との差異を見出すことに必死になっていた自分が恥ずかしくなった。相手と違うことより同じことの方がずっと多いのかもしれない、そう素直に思え、それが嫌でもなくなった。

『1万人の署名は、相手を笑わせるだろう。10万人の署名は、相手を怒らせるだろう。100万人の署名は、相手を黙らせるだろう。』(高校の現代社会の教科書)
→ 社会問題や環境問題に対して、どう考えても間違っているんじゃないかと思う様々な問題に対して、自分が何も出来ない、自分一人が反対したところで世の中なにも変わらないと諦めかけたとき。正直に言うなら、結果が出なければ動きたくないというズルイ気持ちに支配されそうになったとき。行為そのものの力が導く結果をもう一度感じることが出来るこの言葉を思い出し、自分に出来ることを問いかける。

 『お前のことを信じている!』(父)
→ 学校をサボりがちでずっと家にいたころ。担任の先生からの電話で、たまたまその日家にいた父に学校を休み続けているのがバレた。父は何も言わず、理由も聞かず、母にさえ言わなかった。そして、私を見つめて一言こういった。その日から、私はまた学校に行き始めた。

『人間万事、塞翁が馬』(中国のことわざ)
→ いろいろ言われているけど…「全てのことに意味がある」「偶然じゃなくて必然だ」「カルマの種は刈り取らねばならない」etc.でも、この表現が一番好き。物事が善悪を超えて間接的にグルグルと回っていく感じが。始まりと終わりがくっつき、損得のないフラットな感じが。今でも、子供のときに初めてストーリーとして聞いたときの塞翁さんの姿が目に浮かび、情景が見えてくるようだ。

  『君の知らないことだってあるさ…』(「イリュージョン」R・バック)
→ 誕生日のプレゼントで、初めて本をもらったのが「イリュージョン」だった。とても尊敬する人からだった。ジプシー飛行士と救世主のどこか可笑しくて不思議な夢のような物語。けれどそれは、ちょっぴりの残酷さと人生の秘密が隠された現代の寓話でもあった。未知のものや理解できないものに出会ったとき、ドナルド・シモダの何気ないこの一言を、いつも思い出す。「私にはまだ知らないことがあるんだ…」と。静かに人の心を動かす主人公の魔法にかけられて以来、一体何冊の「イリュージョン」を人にプレゼントしただろう。

 『Let it be!(=これでいいのだ!)』(P・マッカートニー/赤塚不二夫)
→ あるとき、自分ではどうしようもない問題にぶつかって、どうしてよいか分からなくなってしまった。自分に何が出来るのか、何をするべきか、或いは何もしないべきか。ただただ答えを求めて「神様!仏様!マリア様!どうすればいいのですか…。」と怒りにも似た祈りを夜空に向かって(心で)叫んでいた。
すると、ふと目の前の本棚にあるビートルズの詩集が目に入った。何気なく手に取りパラパラとページをめくる。そしてある曲のページで手が止まった。

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom,
“Let it be.”
~(中略)~
There will be an answer:
“Let it be.”
                 (”Let It Be” (The Beatles))

私が悩み苦難のときには
聖母マリアが現われ
知恵ある賢者の言葉を話される
 “あるがままにしておきなさい(神の御心のままに)”
~(中略)~
いつか必ず答えは見つかる
“あるがままにしておきなさい(神の御心のままに)”

まるでマリア様がじきじきに答えてくれたかのような詩に、私は愕然とした。
そしてそのとき、信じられないことが起こった。
なんと、遠くからピアノの音と共に、この『Let it be』が本当に流れてきたのである。
今思えば、近所の中高生がピアノの練習を始めただけなのかもしれないが、奇跡とも思える偶然に、私の全身はわなわなと震え、涙があふれ出した。
圧倒的なカタルシスだった。
 “あるがままでいい”のだというその答えは、私の折れかけた心を完璧に回復させたのである。

以来、自分にとって“Let it be”は特別な曲となった。
けれども、個人的な資質として、“Let it be”の和訳はもう少しパンクな感じの方が使いやすい。あまり宗教的になりすぎない方が好みなのである。
沢山の人たちが幾通りにも訳してきた、この“Let it be”。
私の中では、「これでいいのだ!」がピッタリではないかと思う。
だから、自分で歌うときは“Let it be”のサビ部分を、

「♪いいのだっ!いいのだあぁ~!これでぇえ~、いいのだあぁあ~!!」

に変換して歌っている。
まさか、あのバカボンのパパがマリア様の代弁者になるとは…なんて奥の深い話だろう。
<レノン=マッカートニー>改め、<赤塚=マッカートニー>。
日英二人の天才のコラボとして、これからも延々と受け継がれていくに違いない。(一体誰に?!)

宇宙に満ちる“気付きの玉”に囲まれる、塞翁さん。(想像図)

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アラキ ランプ
アラキ ランプ

東京在住。映画と文学と旅行が好きな典型的文化系社会人。不思議なものと面白いものに目がなく、暇があってもなくてもゆるゆると街を歩いている。そのせいか3日に1度は他人に道を聞かれる。夢は、地球縦一周と横一周。苦手なものは生モノと蚊。スナフキンとプラトンを深く尊敬している。

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