salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

〜日常は、劇場だ!〜「勝手に★ぱちぱちパンチ」

2011-05-6
正直さと率直さ(嘘ってな~に?!)

すでに故人になったが、医師で小説家で映画監督兼脚本家でもあるマイケル・クライトンが、その著書「インナートラベルズ」の中で、彼がそれまで出会った人間の中で最も率直で正直な人間として、ショーン・コネリーのことを書いた文章があった。
この本は、クライトン自身が体験した70年代~80年代の精神世界探求を中心に書かれたもので、自身の生い立ちや研修医時代、作家になる経緯なども記された半自叙伝風の内容になっている。
うろ覚えで若干表現が異なるかもしれないが、確か本の中で、コネリーはクライトンに「率直に正直に(事実を)言うこと。そうすれば、後は相手の問題になる」と言う意のことを語るのだ。

私はその文章を読み、「おお!これだ~っ!」と、目からウロコ的、はたまた2階から目薬改め、頭上ゼロcmからいきなりアイボン的な衝撃で、ショーン・コネリーの言葉に激しく同意した。
今までは、ただ刺激と女性がなくては生きていけないアドレナリン中毒の秘密情報工作員のおじさんとばかり思っていたのだが(←ゴメン!)、そうではなかった。
彼が言わんとしている事は、少なくとも私にとっては物事の真理を的確に捉えた非常に重要な言葉に感じたのである。

私はいつも、正直で率直な人間に憧れていた。
多くの人は、人とのコミュニケーションにおいて、自分が感じたり思ったりしていることをどこまで正直に表現するか、伝えるか、迷うことがあると思う。
相手との関係性や親密度によっても違うが、過剰に空気を読みすぎて疲れてしまったり、相手が望んでいるラインを越えて踏み込んでしまったのではと後悔したりすることがないだろうか。恐らく現代人が抱えるストレスの中で、最も身近で頻繁におこるのは、この対人関係のストレスだろう。

人は基本的には人に好かれたいと思う生き物である。
誰だって、自分が魅力的だと思われたいし、嫌われたくはない。
そんな中で、思ったことを正直に表現するのは、ある種、勇気がいることだ。
ここで言う「率直に正直に言う」ということは、思いついたことを何でもかんでも口に出して相手に投げつけるといった、突発的な選択性のない感情や暴走的な思考の表現とは違う。もちろん、悪意をもってワザと傷つけるような人がいう正直さとも全く違うものである。
それは、コミュニケーションの態度のことであり、自分の感情と想いの伝え方・立ち位置の問題である。
相手と自分自身への信頼のもとに、自分の心を完全に開いて相手に投げ出す覚悟がなければできないことだ。
中には正直に伝えることで、物事を自分の物差しだけで捕らえ傷つく人もいるだろうし、嫌われたり恨まれたりすることもあるかもしれない。

例えば、あなたが「顔が丸いですね」と誰かに言われたとしよう。
言った本人は特に何の意図もなく、ただ丸いなと思ったまま伝えただけかもしれない。
しかし、あなたがもし自分の顔が丸いことをネガティブに捕らえていたとしたら、それはあなたの心に傷をつけるかもしれない。
けれども、もし特に自分の顔が丸いことを何とも思っていなければ、「そうなんですよ。丸いでしょう」と単に事実を言われたと理解するかもしれない。
もちろん、人の顔のことをとやかく言うのは常識的には失礼なことなのかもしれないが、敢えてここで例に出したのは、根本的に「顔が丸い」という事実には何の意味もないということなのである。
そこに意味らしきものが発生するとすれば、言った側の善意(褒めている)、或いは悪意(けなしている)があり、言われた側の自分の顔に対する思いと態度で決まるのだ。
しかも、相手の発言の意図は基本的には分からない。となると、結局自分自身の捕らえ方次第となるのである。
それで傷ついたとしても、或いは特に何も感じないとしても、それはその人の問題であり、その人の自由だといえる部分がないだろうか。
恐らく、コネリーが言った相手の問題とはこの部分であり、『物事は中立であり、基本的にはその受け取り手にゆだねられている』ということであると思う。

率直で正直な態度と言えば、子供のときのある忘れられない出来事がある。
あれは、まだ自分が小学校2、3年生だったと思う。
私は父と一緒にドライブに出かけていた。
早婚で、非常に子煩悩だった父は、土日祝日はもちろんのこと、時には平日の夜でさえ、夕食の後、「よし!ドライブでも行くか!」と、私や兄弟を連れて夜の高速道路を走り、近郊の山や海へ連れて行った。
今思うと、まだ20代の半ばで若くエネルギーに溢れていた父は、家庭を養うために必死で働きつつ、友人たちと遊びにいく経済的な余裕はなかったに違いない。その代わりに、私たちを子守り兼遊び相手としてよく連れ出した。

その日のドライブは山の中だった。
星空が綺麗で、宇宙や天体やUFOに目がない私は、何気なく父に聞いた。

「父ちゃん、もしもだよ。もしも、私が突然いなくなって、それがUFOに連れて行かれて宇宙人に遭っていたとするね。で、何日か経ってフラッと帰ってきて、どこに行ってたんだ!と聞かれたときに、UFOに乗って宇宙人に遭ったよ!って言ったら、信じる?」

もちろん、父なら信じてくれると思った。
父は、私がこの世で最も信頼し尊敬する人であったし、その父にこれほど愛されている私が言うことを、他の誰が信じなくても父だけは信じると確信していた。だから、その質問はどちらかというと質問ではなく、確認のような気持ちだった。
父はしばらく遠くを見つめ無言で考えた後、何度かうーんと唸りながら意外な言葉を発した。

「信じないだろうなあ…」

予想もしなかった答えに、私は心底ビックリした。

「なんでっ?」

ゆっくりとハンドルを切りながら、父はまるで自分の心の声を聞きながら話しているかのように答えた。

「UFOがいるか、宇宙人がいるかも、正直なところわからない。でも、父ちゃんはいないんじゃないかなと思う。だから、もし本当にお前がそう言って何日間か行方が分からなくなったとしても、多分何か他のことを隠したくて言っているのかな、と思うだろうなぁ」

「……信じないんだ?」

「んー、多分、信じないだろうなぁ…」

ショックだった。
しかし、父が正直に話しているということは分かった。そしてそれが、父の本当の気持ちだということもよく分かった。
つまり、この父が信じないなら、きっとどんな大人に言っても、たとえそれが本当のことであっても、信じてもらえないということが分かったのだ。
世の中には、それが真実であっても通じないことも起こりえるのだと、初めて自分が生きる現実のリアルな側面に、手が触れたような気がしたのである。言い換えるなら、映画や物語の中のように、真実や善が必ず結末を保証してくれるものではない。そんな冷ややかな世界の感覚を感じ取った初めての瞬間であったような気がする。

しかし、今から考えれば、父はよく正直に言ってくれたと思う。
もし私が逆の立場だとしたら、自分の子供に同じことが言えるだろうか。
相手は子供なのだから、ましてや空想の話であり、気に入られるために、また傷つけないためにと自分に言い訳し、その場しのぎで「もちろん信じるよ」とごまかしてもよさそうなものだ。そして、実際にそういう大人もいるだろう。
けれど、父は私を一人の人間として、真剣に考え向き合ってくれた。だからこそ、私に嫌われたり、がっかりされたり、或いは私を傷つけることを恐れずに、正直に自分の気持ちを伝えることができたのだろう。

この出来事がとても印象深く残っているのは、父のその正直で率直な態度が、「私の話を信じない」という私の意見を否定する内容の答えだったにも関わらず、逆にそのことが父への信頼をますます高めたということにある。
父もまた、私を信頼していた。そして、率直に正直に話してくれた。私の受け取る能力を信じてくれていたのだと思う。

人は自分が信頼されているかどうかを、敏感に感じとる。
信頼されていることは、自分の存在が肯定されていることの何よりの証である。
逆に、その場しのぎの嘘をつくことは、一瞬は物事がうまく運ぶように思えるかもしれない。しかし、結局その態度は、相手を信じず、軽んじ、ごまかすことなのである。
突き詰めれば、嘘をつかれるということは、自分は相手から信頼も、愛されてもいない、取るに足らない人間として扱われたようなダメージを、本能的に感じてしまうものなのだ。だからこそ、嘘をつかれた方は傷つくのである。
どんな人も、決してそんな風に扱われたくはない。嘘はつかれたくないのである。

物事を中立に見、自分の感情や意見を率直に正直に表現し、相手に伝える。
本人のいないところで不満や不平を言わず、必要なら本人に伝える。それによって自分が好かれるか嫌われるかは気にしない。
そんな人を目の前にしたとき、人は自身も正直にならずにはいられないのではないだろうか?
最初はその率直さ加減に戸惑うかもしれないが、少なくとも私ならこのフェアな態度に対して、嘘やごまかしで対応することは難しい。あまりにも居心地が悪くなるだろう。
そして、陰で何かを言われる心配がないためストレスは軽減し、きっとその人に好感を持つだろう。

クライトンから見たショーン・コネリーは、恐らくそういう人だったのだ。
確かに、そのような人は、正直なかなか出会うことは難しい。
すべての人間が日常生活でそれほどの勇気や公平性を発揮できるとも思えない。
けれども、正直で率直であろうとする人間が増えることは、非常に生きやすい世の中に繋がっていく気がするのである。
私自身100%は無理でも、そう心がけようとすることは可能である。
ちょっと想像してみて欲しい。皆が互いを信頼しあって、空気なんて読まず、率直で正直なコミュニケーションでやり取り出来たら…。
考えるだけで、心が楽になり気持ちが軽くなる!のは、私だけ?!(汗)

「嘘」が人を傷つけ、素直なコミュニケーションを遠ざけるものなら、「信頼」は人を勇気づけ、結びつけ合うものだ。
だから、「嘘をつくこと」の究極の反対語は、「信じること」と言えるかもしれない。

(だから東電さん。もう少し日本の国民を信じて、正直に率直にいきませんかね?(^_^;))

文庫版。ハードカバーの表紙が凄くステキなのだが残念ながら絶版です。個人的には頑固なサボテンの話が泣ける!(>_<)

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1件のコメント

さっそく 読んでみま~す!
クライトンがもう亡くなってたとは知らなかったわ・・・。

素敵な親子関係が土台にあるって 人生を生きる上で大切なことだなあ。

by kiki - 2011/05/08 12:29 AM

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アラキ ランプ
アラキ ランプ

東京在住。映画と文学と旅行が好きな典型的文化系社会人。不思議なものと面白いものに目がなく、暇があってもなくてもゆるゆると街を歩いている。そのせいか3日に1度は他人に道を聞かれる。夢は、地球縦一周と横一周。苦手なものは生モノと蚊。スナフキンとプラトンを深く尊敬している。

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