salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-01-24
母になりたかったノダ

たとえ無理だと言われてもあきらめず自分の意志を貫き通す。どこまでも貪欲に己の欲するままに生きる。それは、ある人の場合には「信念のある生き方」に映り、ある人においては「自己中心的な人間」となる。その違いはいったい何なのか。先週金曜の晩、フジテレビ放送のドキュメンタリー「私は母になりたかった~野田聖子 愛するわが子との411日~」を見て以来、やけに考え込んでしまった。

野田聖子氏は、40代の10年間、14回の体外受精、流産1回という肉体的にも精神的にも経済的にも過酷な不妊治療に挑み、2010年、アメリカ人女性からの卵子提供によって、50歳で念願の妊娠を果たした。妊娠中の検査で、胎児には肝臓が外に飛び出している臍帯ヘルニアと重度の心臓疾患があることが判り、様々な内臓器官機能障害を併発する可能性を指摘されたが、生命の危険を覚悟の上で野田聖子氏は産むことを選択した。番組は、野田聖子氏とその息子・真輝くんの壮絶な闘病生活を追ったものである。

わたしは、この世に生まれ出た瞬間から大人でも危険な手術を何度も繰り返し、息も絶え絶えに赤黒くうっ血した小さな身体を何本ものチューブと機械につながれた生後まもない息子・真輝の痛ましい姿に、言葉がなかった。瀕死の苦しみに喘ぐわが子を目の当たりに「赤ちゃんの生命力ってすごいね」と感動し、「明日は手術だよ、頑張らなきゃ」「ママも負けないよ!」と爛々と瞳を輝かせ、さらなる闘志を燃やす野田聖子氏。気丈な母の強さとは到底思えないその狂気じみた執念に震撼した。そして、わが子にこれほどの生きる地獄を味あわせてまで「母親になりたかった」という自分をただの一度も省みることのない野田聖子氏が理解できなかった。

「ママがどんな思いで、どれほど苦労して、あなたを産んだか、わかるわよね。だから絶対生きなきゃだめ。ママの子なんだから、あなたもどんな苦しみにも耐えられるはずよね」とでも言うような母親の呪縛もまた「母」であるというのなら、確かに野田聖子氏は「母になった」といえるのかもしれない。

奇しくも、現在salitoteインタビュー連載中のカルーセル麻紀さんも、「女になりたかった」という自らの意志で、命の危険も世間の非難や中傷も顧みず、性転換手術を果たした。ということは、母になりたい一心で危険な出産を選択した野田聖子氏と「自らの意志を貫き通す」ことにおいては変わらないのではないか。
けれど、わたしは、カルーセル麻紀さんには心底共感し尊敬できても、野田聖子氏には共感できないどころか嫌悪すら抱く。それは、カルーセルさんは、術後の壮絶な苦痛も死の恐怖も自分自身が負っているからだ。

野田聖子氏は覚悟の上の出産だというが、覚悟というのは、その報いも咎も全て自分が負うという前提があって初めて成立するものではないか。母の覚悟のもと瀕死の苦しみに喘いでいるのは母自身ではない。息子である。

しかしながら、母である自分の意志は即、息子の意志といわんばかりの野田聖子氏の強烈な母子一体幻想は、いったい何なのか。わが子に凄惨な苦痛を与えても自分の腹から産みたかった自分自身について、野田聖子氏は自身のブログにこう綴っている。

—中略 ノダのエゴをあえて申せば、「障害」があり、「大変な治療」を受けることが分かっていたのに、彼をこの世に送り出したことです。これが良かったのか悪かったのかは、ムスコが判断するでしょう。親としては、そこまでムスコが育ち、かあちゃんのおかげで、オレは苦労するわ、と言う声が聞きたい、です。

はっきり言って、開き直りとしか思えない国会答弁である。これが良かったのか悪かったのか、自責の念に迷い、逡巡し、苦悩することなく、その判断すらムスコに委ねるというのか。自らの所業の責任は秘書に、生じる痛みは全て国民に、最も考えなければならない問題は先送り。この人の考えは、親のエゴというより、まるで政治家のそれだ。が、そうかと思えば、ヘンに夢見がちで飛躍的に前向きで突拍子もなく浅はかな希望を持ちだしてくる。そこだけは、おかん的なニオイがしないこともないが、それは「母性」というより、自分にいいようにいいように物事を縁起良くこじつけるおばはん特有の思考性といった方がいいかもしれない。

わたしはここで、野田聖子氏が、重い障害を抱えた子どもを産む決断をしたことを批判するつもりはない。なぜなら、もし真輝くんが普通に健康な赤ちゃんであっても、わたしは野田聖子氏の狂信的な母親願望に対して今と同じ反感を抱く。なぜなら、そこに女性の新たな活路や希望が見えないからだ。

自らの意志を貫くことが信念と映るか、エゴにしか見えないか。きっと、その違いは、その行いが個人の生き方の枠を超え、新しい物の見方、考え方、価値感、生き方として世に出ていくかどうか。そういうやり方も、そういう生き方もあったのかと、世の中の人々に別の道筋を指し示せるかどうかだと思う。

産みたくても産めない女性の苦しみを誰より知っているのであれば、そういう女性たちが今ある状況の中で自分の可能性を、自分なりの幸せを見出していける手本となり、策を練るのが、男性議員も恐れる決断力、行動力を誇る衆議院議員・野田聖子の本領ではないいか。野田聖子という1人の女性が何を欲し、何を求め、無限の可能性を信じて宇宙の果てまで突き進んでいこうと、最終的には個人の自由と眉をひそめ、小首を傾げて終わるだけのことである。けれど、それだけで済ませられないのは、野田聖子氏が国会議員という公職にある人間だからだ。

確かに、産みたいのに産めない苦しみを抱えた女性にとって、野田聖子氏の飽くなき闘いは一縷の光を与えるものなのかもしれない。が、産めない現実に絶望する女性たちの本当の希望は、不妊治療が保険適用化されること、代理母、卵子提供、精子バンクなど妊娠出産の選択肢を増やすことだけだろうか。

わたしは、それだけではないと思う。もちろん、そういう選択肢や方法は必要だと思う。でも、できることはすべてやってみたけれどダメな場合もあるだろうし、希望と絶望のジェットコースターのような不妊治療の明け暮れに身も心も夫婦関係も生活も崩れそうな現実を抱えている女性もいる。可能性にチャレンジすることは大切だが、どこかで踏ん切りやあきらめをつけられる自分でなければ、「なぜ」「どうして」の苦しみからは逃れられない。人生の救いなんてものは、技術や科学や医療の進歩だけであがなえるような、高度で高級な方法論でまかなえるようなものではないはずだ。だいたい、そんな選ばれた人だけが手にすることのできる救いなど、あってたまるかい!と思えることも救いなのだ。

多くの女性たちが、産む幸せ、母になる喜びを最良のものだと認めながらも、それが女の唯一最高の幸福であるという大げさな価値感にとらわれず、それが叶わないとしても、女性として、人として、生み育てる幸せや喜びはあると女性同士が思い合える社会になればいいのに。というのは、わたしの個人的な考えだが、でもその方がよっぽど日本女性のたおやかなフィーリングに合った希望の持ち方ではないかと、そう願っている。

野田聖子氏はその苦しみをわが身で知っている。だからこそ「こういう生き方もある」と、それこそ「ノダ」独自の選択の道を示すことができるはずだ。でも彼女が示すのは、「ここまで、やればできるのよ!」という、より険しく高く恐ろしい断崖絶壁である。そんな極限られた人間しかアプローチできない無謀なアタックを「決死の覚悟」と語られても、世の女性からしたら、そこまで上り詰めなければ満たされない欲望の深さに、ただただおののくばかりである。

しかし野田聖子氏は、いったいこのドキュメンタリーで、何を見せたかったのだろうか。産みたくても産めない多くの女性たちに「私もここまで頑張っているの。みなさんもあきらめないで!」というエールなのか、それとも「生命の大切さ」か「母と子のきずな」なのか。少なくともわたしは、野田聖子氏の闘いを通して、人の命、母と子の縁や結びつきという、人間の意志ではどうしようもないものがこの世にはあるということを深く思い至らされた。

妊娠・出産に限らず、どんなに望んでも叶えられない、誰もが当たり前に手にしているものが自分にはない、どんなに好きでも一緒になれない、どうやっても抗うことのできない宿命が人にはある。そして、どうも野田聖子氏の決意と行動には、有限を生きる人間の無力さ、はかなさ、むなしさに心鎮める情緒というものが決定的に欠けているように思う。

さらに付け加えれば、「産みたかった」「母になりたかった」という言葉も決断も親と子の闘いも、つねに彼女の主体は「ノダ」である。だから異様に不自然なのだ。女が子を産む、母になる。その前に、男がいて、夫婦になり、父と母になる。それが、この世に人が生まれ出る順序である。

共に不妊治療に取り組み、そして離婚した野田聖子氏の元夫の鶴保議員の「オレは種馬じゃない」という言葉から浮かび上がるのは、「妊娠・出産」に対しても、政治活動さながらに自ら考え自ら行動するリーダーシップを遺憾なく発揮する、ワンマンぶりだ。

わたしは基本母子家庭で育ったので、母親さえいれば幸せだと思って生きてきたし、親子の形や家族の形はそれぞれあるべきものだと思う。それでも、子どもにとって最良の幸せは何かと問われれば、普通に父が居て母がいることだと答える。自身のブログでも、ノダの出産、ノダのムスコと、やたらと「ノダ」主導を打ち出してくるが、普通そこは「ノダ」ではなく「わたしたち」となるべきことだろう。

ウルトラの父がいる、ウルトラの母がいる、そしてタロウがここにいる。わたしたちは皆、そういう巡り合わせがあって、ここにいる。それは地球のみならず宇宙の真理なのだ。そういうことを、ノダはちっともわかっていない。とにかくわたしは「わからんヤツだ」ということを、言いたかったのだ。長々と言い過ぎたかもしれない。が、これで、すっきり落ち着けた。ありがとう。

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2件のコメント

飽くなき執念は駄目ですね、みのもんた氏に登場してもらいたいですね。 『奥さん、子供を愛していますか、本当は自分を愛しているだけでしょう?』、午後は◯◯(今は、朝ズバッ)で切ってもらいたいですね。

by みかん野郎 - 2012/01/25 8:51 AM

言い切ってもらってこちらもスッキリしました。
あの番組を見ての怒りとなんとも言葉で表現できない
ようなモヤモヤ感、批判の多い中でも賛同?感動していらふ
方もいて私は自分がおかしいのか、と三日三晩熟睡できません
でしたが今日は眠れそうです。ありがとうございました。

by ラメールプラール - 2012/01/26 10:34 AM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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