salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-01-4
新年、終わらない時の始まり。

新年すっかり明け切りましての初更新。正月三箇日は元気いっぱいこたつに入り、年末から録り溜めた漫才お笑い番組に興じるのが、生まれてこの方42年、骨の髄まで染みついた多川家の風習なので、ひたすらダラダラだらしなく新年を迎えられることに、新春の手応えがあると固く信じて疑わない。唯一、自分の中に疑問が生じるといえば、大晦日。紅白が終わりいよいよカウントダウンの段にチャンネルをどこに合わせるか。これは1年を締めくくる、重要な悩みどころだ。

NHK「ゆく年・くる年」の除夜の鐘を聞きながら、しんみり厳かに年を越すのもよし、「CDTV」で「何がいいのか」まったくわからない人気アイドルたちの歌に引きずられ無意味にやり過ごすのもまた人生である。そう考えると、見る番組は関係ない。大事なのは自分の心ひとつだと悟ったわたしは、敢えて自分を追い込むという意味で、あるいはこの瞬間を棒に振る勢いで、サンテレビ「阪神タイガース年越しスペシャル〜古風荘からおめでとう」にチャンネルを合わせてみた。もちろん、わたしは阪神ファンでも野球ファンでも何でもない。言ってみれば、ただの好奇心だけでどこまで耐えられるか、つき合えるかの実験でしかない。結果、3分と耐え切れず、なんぼなんでもこれはないと逃げるようにチャンネルを替えた。扉を開けた瞬間、シケシケの場末のスナックの淀んだ空気に圧され、カウンターでおもんなさそうに酒を飲んでる目つきの悪いおっさんたちに一斉に振り向かれたときの「うわっ」と扉を閉めて「アカン、違う!」と笑いこけるあの感じ。そのグダグダな世界観を一人でも多くの方に伝えたくて、参考までに番組内容をHPから抜粋紹介させていただく。

普段と変わらずタイガースへのぼやき声が響いていた昭和の香り漂うアパート“古風荘”。そこに隣人・矢野燿大(プロ野球解説者)がやってくる。昔からの古風荘住人のおっさん2人(池山心/吉本漫才師・木内亮/サンテレビアナウンサー)と新生タイガース談義を交わすうちに、3人のおっさんたちは、2012年の阪神優勝を確信する!

どうだろう。この腹の底から沸き上がる「どーでもいい」親近感。華もなければ旬もない、「見どころがないところが見どころ」としか言いようがないこんな番組でもやるしかない、やらないよりマシという降伏感。お分かりいただけるだろうか?  どうもわたしは、この手の運気の巡りが悪そうなヒト・モノ・コトに異様に引かれる帰来がある。そんな貧乏性を今年こそ「やめよう」と、「こんな番組で年越したら、しょぼい1年になってしまうわ」とぼやきながら、チャンネルを替えただけで何か厄払いしたような晴れ晴れとした面持ちになり、2012年の飛躍を確信してしまった。もはや、りっぱな古風荘の住人のひとりである。

と、どーでもいい古風荘の話はさておき、2012年は良くも悪くも2011年の続きということを、年頭のコラムの念頭に自戒も含め書いておこうと思う。新しい年に変わっても、目の前の厳しい現状や山積する問題が解決するわけでも、心の傷が消えるわけでも、心の荷物が軽くなるわけでも、背負っている借金が帳消しになるわけでも何でもない。けれど、年が改まれば、ここからが始まりという気運が一気に高まるものである。現実には、あれやこれやと頭の痛い日常は変わらずとも、それもこれも過去の話とケリをつけたい、去年までの自分にケジメをつけたい気持ちになるのが新年の節目というやつだ。

そんな、何かとケジメをつけたくなる新年の訪れに脅されたのか、17年越しの落とし前を付けに来た男がいる。暮れも押し迫った2011年の大晦日、指名手配中のオウム信者・平田信(まこと)容疑者が長い逃亡生活の果てに、自ら出頭した。12月にはオウム真理教事件の一連の裁判が結審し、麻原以下元幹部の死刑が確定。一応の終結が見られた今、なぜ? という驚きで、わたしはそのニュースを見つめた。平田容疑者は警察の取り調べに対し「一区切りつけたかった」、「罪のない多くの命が犠牲になったのに、罪を犯した自分が生き延びていくことが理不尽だと思った」と、自首に至った心境を述べているという。

不謹慎な感慨かも知れないが、わたしはこの平田容疑者の供述に、「今こんなときに、自分は何をしているのか」と震災後多くの日本人が苛まれた罪悪感、無力感、良心の呵責と同形のものを感じた。さらに言えば、自ら犯した罪の重さを自覚する「最後の良心」を失っていない者にとっては、生きるべき人間の命が奪われ、死んで償うべき自分が生き続けている「今この瞬間」こそが、死刑以上に耐え難いものだったのかもしれない。

しかしながら、やはり「なぜ?」と首を傾げてしまう。多くの人々が1年の災厄を払い、2011年という忘れがたい凶年に一応の区切りを付け、新年はどうかいい年でありますようにと願う大晦日の晩に、なぜ「オウム」の記憶を呼び起こす平田容疑者が出てくるのか。おそらくこれはきっと「何も終わってないぞ」と、「心してかかれ」ということだ。わたしには、そうとしか思えない。何しろ、東電幹部とオウム幹部、上九一色村と原子力ムラ、教団施設サティアンと福島原子力発電所の禍々しい風景、誰もがおかしい、間違っていると気づきながらも「やるしかない」と盲信していた「麻原神話」と「安全神話」・・・。ざっとキーワードを思い浮かべただけで、不気味なほど、その歪な精神性が酷似しているオウムと原発。
2011年は終わっても、オウムも原発も終わっていない。まさか未曾有の無差別テロ・サリン事件を引き起こしたオウムの生き残りに、この1年を締めくくられるとは皮肉が過ぎる思いがするが、ほんとのことだ。終わりがあるから始まりがあるというが、終わらない始まりもある。あらためて、いつ何が起こるか分からない危機感も新たに、引き続き、とりあえず、去年の仕事をひとつ、ひとつ終わらせる事始め。
わたしの2011年も、何ひとつ終わっちゃいない。

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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