salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2011-12-13
街角のVISIONARY

増税、年金、TPP、基地問題、原発問題などなど、様々に困難な課題を抱えている日本だが、その手の討論番組で「そもそも・・・」と誰かが指摘し全員一致で「そうだ」と嘆息する泣き所は、「ヴィジョンがない」ことである。

ヴィジョン:vision  英語の意味は視力・資格・洞察力、夢想・幻想・想像。が、「ヴィジョンがあるよね」「ヴィジョンがわかりにくいよね」などと、普段わたしたちがことあるごとにさも知った風にそのフレーズをクチにする場合、それは尋常じゃない意志・信念・覚悟に満ち満ちた「でっかい夢」というイメージが近い。とはいえ、そこでたとえば「万人の幸福と世界平和のために 創価学会」とか「元気な日本を復活させる!(by菅直人)」みたいなジャンボな夢を掲げられても、苦笑いしながら通り過ぎるのが精いっぱいだ。

思うに「ヴィジョン」というのは、最初にそれを聞かされた人間が「まさか、できるはずがない」「そうなったら、すごい」と信じられないけど信じたくなるような予感を掻き立てるものであり、漠然とでも潜在的に誰の心にもあった「願い」を誰かが言葉にしたときに、人はその言葉に思い思いの夢を「視る」のだと思う。
たとえば、寒さ厳しい冬の夜、日本人が思い描く幸福は何かといえば、やっぱり「鍋」だ。けれど、「今夜は鍋!」というのは「ヴィジョン」といえるだろうか?

そう、それは、ああしたい・こうしたい、ああなりたい・こうなりたい世俗的な欲望・願望・夢よりもっと高みにある希望、理想であるはずだ。その理想をカタチにしたものが「鍋」といえば「鍋」なのだが、その前に「鍋」を知らない人でも「イメージ」を抱ける言葉でなければ、それは「ヴィジョン」とはいえないのではないか。「鍋」とあっさり言ってしまうより、もっと大きくぼんやりと「ひとつの幸せをみんなで分け合うあたたかさ」と言った方が「イメージの広がり」が持てる。つまり「ヴィジョン」というのは、人それぞれが独自の感性でとらえるべき福音のようなもので、そこに具体性や方法論などなくても、自分で想像すればいいだけの話である。
それこそ松下幸之助の水道哲学も、「水道の水の如く、物資を供給し、人生に幸福をもたらし〜」と、具体的に何をどうするかなどは語ってはいない。大阪道頓堀の名物食堂「くいだおれ」創業者が、戦後間もない大阪で「やったるで!」と掲げたヴィジョンも「おとうさん、おかあさん、坊っちゃん、嬢ちゃん、家族みんなで食事が楽しめる店」という何となくのイメージである。ポテトチップスでおなじみのカルビー創業者とて、最初に掲げたビジョンは「じゃがいもをまるごと使ったお菓子を作りたい」。そう考えると「ヴィジョン」とは、漠然とでも切なる願いなのかもしれない。

ところが先日、鬼気迫るほど具体的な「オレのヴィジョン」を熱弁する男性に遭遇した。

その男性は、見たところわたしと同じ40歳前後、あるいはちょっと年下か、ひと言で言えば東京ではあまり見かけない、大阪ではよく見かけるハングリー精神モロ出しの営業マンである。訪問セールス系のちょっとした胡散くささ、常に人の顔色を窺うような疑り深いまなざし、誰も何も責めてないのに「現にオレはこれで数字上げてるからな!」と言わんばかりに血道上げた自信。そんなこんなのややこしいコンプレックスの裏返しが混然一体となって、東洋医学では虚弱で神経質とおぼしき胃下垂のボディを包み込んでいる、そんな感じの男である。その手前には、部下と思われるとくにこれといって見どころのなさそうなつるっとした顔の入社1〜2年目の若造くんが座り、男の話に「ふんふん」頷いている。

2人の話によれば、どうやら今日は給与査定の社長面談の日だったらしく、よく吠える胃下垂の男が自分のときはああだったこうだったと体験談&アドバイスをしている様子である。と、いきなりその男、声の調子を落とし意味ありげに問いかけた。

「おまえ給料、正味、なんぼ欲しいねん」

すかさずその部下、「100(万)ですね」と臆することなく答えるではないか。しかし、そこは数字を出せば歩合も上がる営業マンの世界。わたしなど「そんなペーペーの新人が月100万て、アホちゃうか!?」としか思えないが、胃下垂の上司は納得したような素振りでさらに続けて問う。「なんで100や。おまえは、何のために、100なんや」

わたしの感覚からすると目上の人に「なぜおまえはそう思うのか」と問われた瞬間、「なにか間違ったことを言ったか」あるいは「この人は何を言わせたいのか」と真意を量り計りかねて戸惑うものである。が、最近の若い人は、どこで覚えたのかもっともらしい答えを、いけしゃあしゃあと抜かし上げることができるようだ。

「実際、今の自分の値打ちは50万がマックスやと思うんですよ。でも、実質50稼ごうと思ったら、目標は100に設定しないと、50は稼げないでしょ。100目標で本気で走って、出せるのが50なんですよ」はぁ〜ん、小利口な計算しよってから。だが上司の男は、まだ手の内を明かさず、さらにこう続ける。
「50でも100でもええわ。おれが訊いてるのは、おまえが100欲しいののはなんのためや、っちゅうことよ。なんで、100欲しいねん」
またもやすかさず迷うことなく答える部下。
「自立したいからです!正直、まだ実家で親の世話になってますし、やっぱ自立してやっていかんと責任が持てないと思うんですよぉ」

と、その「自立」という言葉に、やっとその胡散臭そうで疑り深そうでコンプレックスの裏返しみたいな迷惑な自信いっぱいの胃下垂の上司が着火した。「おまえの自立ってなんや!ええか、おまえにはヴィジョンがないんや!『自立』とかそんな漠然とあいまいなこと言うてる人間が、100稼げる思うか。なんでオレが4期連続売上トップか、結果出せてるか、言うたろか」と、なぜ自分がこんなにもトップセールスマンとして最前線を走り続けられるのか、その具体的な「ヴィジョン」とやらを語り始めたのだが、ざっと聞くところによるとこんな「ヴィジョン」である。

・工務店を経営していたときの借金の返済がある
・家のローンがある
・別れた嫁さんに、子どもの養育費を払わなければならない
・水道光熱費、食費、生活費etc 毎月逃げられない支払いがある

その支払いのどこが「ヴィジョン」なのか、わたしには皆目見当がつかないどころか、あそこまで息巻いて出てきた「男のヴィジョン」が家計簿レベルとは、思いも寄らなかった。が、部下の方はハトみたいに首を動かし「はぁ、ですよね」。そこからは、その男の演説会。結果を出すヤツ・出せないヤツの違いとばかりに「おまえとオレとの違い」を「言うたろか」「言うたろか」って、言うたらええがな。

「おまえは実家やろ。『自立したい』ゆうのはおまえの願望や。仮にや、『自立』せんでも、50万なくても、追い出されることはない。でも、オレは違う。オレは毎月、家のローンになんぼ、子どもになんぼ、水道代になんぼ払わなあかんのか具体的に全部言える。そこまで、自分に必要な数字が言えて初めて、なんぼ給料欲しいか、自分の額が言えるんちゃうか。そういう『ヴィジョン』がないと、100万、200万、300万、なんぼ欲しい言うても、それは絵に描いたモチや」

?????? いやいやいやいや、絵に描いたモチとか、そんな諺はいいとして、「ヴィジョン」の使い方、思いっきり間違ってないか?  月に家賃がいくら、光熱費がいくら、電話代がいくらというのは「必要経費」ではないのか。けれど、ヤツはそれをそうだと、それがあるかないかがオレとおまえの違いだとコーヒーをおかわりしながら語り聞かせていた。黙って聞くしかない部下に、熱く、しつこく、自慢げに、「ヴィジョン」「ヴィジョン」とデカい声で。しかもまあ、ミスタードーナツで。

現実を脱ぎ捨てた上っ面の理想論も、現実を笠に着たお手盛りの観念論も、「語る私」を出ない持論は退屈で窮屈で聞いてるだけで肩が凝る。たぶん「ヴィジョン」というのは、自分がああだこうだというより、そういう自我や私心とは遠く離れたところで見る誰かの夢、誰かの希望であり、言葉にならない誰かの声なのではないか。普通は離れられない私を超えるから、きっと現実を超える飛距離が出せるのだと、わたしは思う。

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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