salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-03-28
無と幻想の同窓会。

ときどき友人知人の話題にのぼる同窓会。なぜか自分は、生まれてこの方一度もそういう席に呼ばれたことも出たこともない。そもそも、学生時代から現在も付き合いのある友人は1人もいない。幼稚園から中学までいつも一緒のコンビを組んでいた親友とも音信不通で、すでに20年以上、昔の友だちとは誰とも会っていない。

会わないと決めたわけでも、会えない理由もない。過去は過去、大事なのは「今でしょ?」みたいにクールにかぶれたこだわりがあるわけでもなく、自然に気づけば、なくなっていた。それだけのことである。何しろ、昔から大の学校好きだったわたしである。学校や勉強が嫌いだったとか、クラスや同級生たちに違和感を感じていたとか、不本意なイジメに遭ったとか、校則にしばられた不自由な学生生活に反抗心を抱いていたとか、学校に対して反発、嫌悪、恨みを抱いたことなど一度もない。小中高大学と一貫して、わたしにとって学校は、テレビ・マンガ・お笑い・お菓子に匹敵する享楽の友であり、これなくしては生きていけないと思うほど自分を燃やせる場所だった。そこに行けば、家のゴタゴタやグチャグチャなどすべて忘れ、友だちと声が枯れるほどしゃべりまくれる。毎日毎日「ノド痛い、ノド痛いわ〜」と駄菓子屋で買った20円のチューチューで喉をうるおしながら完全燃焼で家路につき、後はご飯食べて風呂入って寝るだけで、背も伸び知恵もつき進級し成長できる楽園の日々・・・と、アホらしいほど学校に夢中にエンジョイしていたわたしだが、なぜかその頃の思い出でつながり合う「同窓会」にはさっぱり縁がない。

恋愛もしたし、つねに恋人はいたし、結婚しないと決めていたわけでもなく、いつかそうなるだろうと思っていたし、もちろん結婚はしたい。が、なぜかそうはならない話はざらにある。動機も自白も証拠もあるのに死体がないというような不思議で不条理な因果というものがこの世には結構あるのである。

「あるべき条件は揃っていてもそうはならない。ってことは、何がないんやろ・・・」と自らに問いかけながら、何の脈絡もなくYoutubeで日本の社会学者である故小室直樹氏の講演「資本主義とは何か」をふむふむと聴いていた。すると、まさにわたしの問いに答えてくれているではないか。
そこで語られた話によれば、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーいわく、資本主義というのはそこそこの資本があり、ほどほどに商業が発達し、結構な生産技術があれば、起こりうるはずだと考えられていたと。しかし、資本・商業・技術が揃っていても資本主義が起こらない、そうはならない国はたくさんある。これはどうしたことかとウェーバーが出した結論。
それは、そこに資本主義の精神がなかったからだ。
資本主義の精神とは、働くことそのものを美徳とする真面目で勤勉で正直な気質。さらに「時は金なり」と地道に働きコツコツ蓄える地に足の付いた堅実な生き方を良しとする人々の通念・価値感こそが、資本主義の道徳倫理の根源らしい。

だから、いかに資本・商業・技術・市場が拡大・発展したとしても、資本主義が起こるわけでも、なれるわけではない。なぜなら、「その精神がないからだ」。わたしは、そういう異論も反論も挟む余地のない「犯人はお前だ!」みたいな結論付け、身もフタもない、とりつく島もない言われ方がやけに気に入った。そうか、なるほど中国は中国、わたしは私、カモメはカモメなのだ。と、思いがけず、同窓会が起こりうる精神がないと、積年の謎が解けてすっきりしたわたしだが、すると当然、それが起こりうる精神とは何ぞやという問題がわいてくる。そこで、自分のまわりの同窓会経験者、学生時代の友人と現在も付き合いが続いている人の共通点を探ってみると、いうまでもなく、そういう人は人付き合いがいい。何かとアクティブでフットワークが軽く、色んな集まりや会合に出かけ、そこに集う人々の雰囲気や好む話題に合わせてひとときを楽しむことができる柔軟で平和でニュートラルな精神の持ち主である。どうひいき目に見ても、自分にはそういういい感じの精神があまりないというか、ほとんどないような気がする。

何しろ高校・大学時代も、自分だけ知らされていないイベントやコンパや友だち同士の集まりというのが多々あり、後から「わたしも呼んでくれたらよかったのに」と文句をいうと、「あんた、どうせ興味ないやろ」「あんた、そういうの嫌いやろ?」「たぶんあんた合わへんで」と端っから除外されるケースが多かった。で、よくよくどうだったか話を聞くと、「はぁ〜、どうでもええわ」「うわ、嫌いやわ」「あ〜そういうの腹立つわ」となるわけで、そうなると友だちも「せやろ?」と得意げに、わたしも「せやわ」と深く納得するのが常だった。だから、もしかしたら、わたしの知らないところで同窓会が開かれていたり、同級生同士のつきあいは続いているのかもしれないが、きっと昔と同じ思いやりで、あえて呼ばずに置いてくれているのだと思うようにしている。

そんなこんな42年間一度も同窓会経験がないだけに、それがいかに良いものか、どれほど人生の味わいを豊かに増すものか、前進・上昇・ステップアップ一直線の都会生活に疲れた心のよすがとなるものかはわからないが、わたしが「同窓会」という響きに喚起されるイメージは、同じふるさと、同じ根を持つ人間同士の分かちがたき連帯、それこそ絆というものである。

というのは、わたしの中で「同窓会」というと、島根県・隠岐の島出身の母親が毎年嬉嬉として出かけていた「隠岐人会」がまっさきに思い浮かぶからだ。母親は、島で唯一の高校を卒業し、大阪の都会に出てOLとして働き、結婚し、子どもを産み、大阪のおばちゃんになり、54歳の生涯を終えるまで、隠岐に帰郷したのは2度だけだった。その間、ずっと母親が心のふるさととしていたのが関西在住の隠岐の島出身者が集う「隠岐人会」であり、隠岐の友だちと方言丸出しで偉そうに話しているときの母と、大阪の友だちと大阪弁で偉そうにしゃべっているとき母では、やたら偉そうなのは一緒でも隠岐の友だちには何を言っても許される絶対の甘えがあるような気がした。

そんな母親たちの同窓会「隠岐人会」に、わたしも1度だけ参加したことがある。それは年に1度、大阪ミナミの宴会レジャービル「美園」で行われ、2次会は天神橋筋2丁目の商店街にある隠岐の島出身の友人ママの店、その名も「スナック・隠岐路」に流れ込むのがお決まりだった。

わたしは、カウンターの隅っこに座り、ここぞと歌い、踊り、大騒ぎするお母ちゃん、おっちゃん、おばちゃんたちのはしゃぎっぷりを眺めながら、その祭りのように力強く響き合う盛り上がりの凄まじさに圧倒された。そして、学年も年齢も性格タイプも仕事も生きている場所もまったく違うのに、「出身地が同じ」というだけで、ここまで強烈に結びつき、熱烈にじゃれ合えるものかと、親兄弟の血縁より濃い同郷の根の深さに驚きおののくばかりだった。
生まれも育ちも大阪の自分は、別段、大阪を故郷と意識したこともなく、もはや実家もないので「帰るところがあるじゃなし」と渡り鳥気分でいたりする。若い頃は、いよいよの窮地に陥ったら帰る田舎がある、戻る実家がある人をうらやましくねたむ心も少なからずあった。が、この年齢になってくると、たとえ田舎はあっても、実家はあっても、帰るべき自分の場所は自分でつくるしかない人間の宿命は、誰もが同じだと思えるようになった。

自分には、母親のように死ぬまで想い焦がれるような故郷はないけれど、「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」啄木の歌、「ふるさとは遠きにありて想ふもの、そして悲しく歌ふもの〜」室生犀星の句にある「ふるさと」というものは、自分の心の底に確かにある。
それは、段々畑に野の花が揺れるのどかな里、青く広い海、そびえ立つ山々、きらめき降るような星空という風景ではなく、今も昔もずっと自分はそうだったと思い出すあの頃の自分、あの頃の友だち、あの頃の日々すべてが帰りたくても帰れないわたしだけのふるさと。良く言えば「わたしだけの十字架」みたいな、そんな感じか。

今では、同窓会といえば、同郷の連帯を深め合うのみならず、昔なじみの手近な出会いの場、不倫の温床みたいな向きもあるようで、時代、所、人が変われば「同窓会」の意味も様々に広がりを見せているらしい。焼けぼっくりに火が付く会だろうと、再燃ラブの出会い系だろうと、それはそれで「あの頃の自分に帰れる」同窓会の醍醐味といえるのかもしれない。いかんせん、そういう場に縁のないわたしは、ひとり自分の記憶をたどる旅の途中、帰りたい、帰れない思い出川を行ったり来たりするのみである。

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1件のコメント

まるで私かと思いました。。とても納得というか、解決しました。犯人は私でした。何というか…ありがとうございました。

by 四国人 - 2014/03/27 8:49 AM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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