salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-05-9
脱・婚活論

連休中、おんな友だちと飲みながら、大人の恋愛の難しさについてあれこれ語り合った帰り道、夜空にぽってり膨らんだ白い月を見上げながらふと考えた。

理想の男性(女性)、自分にぴったり合う人なんてものは、そもそもこの世には存在しないのではないかと。たぶん、今現在すでに存在している人間は、自分とは違う人間だけだ。自分に合うかどうかなんて、合わせるか、合わせたいか、合わせたるかの腹ひとつ。何しろ、人間同士は一緒に居るうち、合ってたものが合わなくなったり、合わない同士が合わないことに馴れ合ったり、合うも合わんも今さらどうでもよくなる生き物である。

わたしは過去の恋愛データが1件しかないから確かなことは言えないが、ひとつ、過去の恋愛を振り返って見てほしい。理想の人だったから好きになった、あるいは、別れた人が理想の人だっただろうか? おそらく「そうではなかった」という人が大半だろう。仮にそれが理想であったとしても、続いていないということは、理想の相手が必ずしも人生の伴侶となるわけではないことは自明の理。理想のパートナーという言葉自体の無意味さがよくわかるってなもんである。

自分が身近に知るカップル・夫婦を見ても、そもそも理想など抜きに、なんか知らんけど惹かれて、好きになって、付き合って、現在に至るわけで、お互い「理想の相手」だったから続いている2人など見たことも聞いたこともない。むしろ、結婚している彼女たちは口を揃えて「理想とはだいぶ違うけどな」といいながらも、まずまずいい具合に凸凹うまく噛み合わさっている。今のところは。

と考えると、自分の理想にピッタリ合う相手を探そうという婚活発想自体が、いかに木に縁りて魚を求むがごとき本末転倒な試みであるかということに気づかされる。中には、結婚相談所のデータマッチングやお見合いパーティ大作戦の末に「理想のパートナーに出会えました」という人もいるだろうが、そういう人は、勤務先や職業、収入、人柄、趣味など、明確に数値化・言語化できる項目で「理想の条件」が設定されているのではないだろうか。いわば、目標→手段→達成という正規ルートを着実に迅速に徹底して進んでいくキャリア志向の婚活路線は、それ相応に成功しそうな気がしないでもない。

おそらく最も成功率が低いのは、「婚活」という合理的な手段を選びながら、そこに非合理で曖昧な波長やノリやフィーリング、巡り会う奇跡や運命の出会いみたいなスピリチュアルなロマンスを求めている人ではないか。
口では「求めてない」と言いながら実は求めている中途ハンパな欲望が、何に付けても面倒くさい。たぶん、結婚相談所のアドバイザーたちが誰より一番そのあたりの痛い事情をよくわかっていることだろう。

ネットのリサーチによれば、最近の婚活女子(女子といっても30〜50代)がパートナーに望む理想の条件というのは、「信頼できる」「やさしい」「価値感が同じ」「頼りがいがある」「包容力がある」「積極的にリードしてくれる」「一緒にいて楽しい」・・・ということらしい。なるほど、何ら間違ったことは言っていない。信頼できて優しくて価値感が一緒で、頼りがいがあって、リードしてくれる。まあ至極真っ当、ごもっともな要望ではある。
が、こういうあたりまえのことをあたりまえにクチにしている時点で甘いと言わざる得ない。きっとまわりの既婚友だちから「色々大変なことはあるけど、でも、長く続いてるのは、やっぱり信頼できるからかな」みたいな話を聞いたか何かで読んで、「いいな、わたしも」と思っただけのことだろう。決して自分の体験から出た要望ではないはずだ。
なぜなら一度でも結婚、同棲、破局という実体験を経た女性であれば、条件ひとつにも、その人独自のこだわり、痛手、傷、恨み辛みが感じられるはずである。たとえば、「週に1度くらいは家族みんなでご飯を食べられる人」「毎日きっちり定時に帰ってこない人」「長男以外」「浮気はしてもよそで子どもは作らない人」など、その条件がいいか悪いかは別として、有無を言わさぬ説得力がある。やはり、女も30も半ばを過ぎれば、そんな通り一遍の理想ではなく、もっとこうわがの性根から引っ張り出したようなオリジナリティ溢れる「悲願」を掲げておきたいものである。

まずもって言いたいのは、まだ相手がいない段階で求めるべきは、相手の条件ではなく、自分は人とどんな風に絡みたいのか、つるみたいのか、やり合いたいかという自分自身の人間に対する飢えと渇望であるべきだとわたしは思う。

そこで、おすすめしたいのが’81年放送の山田太一名作ドラマ「想い出づくり」である。田中裕子、古手川祐子、森昌子演じる3人の独身女性が、「この人なら」と思える相手を探し求め、悪戦苦闘を繰り広げるストーリーは、今なら「婚活ドラマ」と言えるのかも知れない。が、そこには「婚活」みたいな気の抜けたビールみたいな言葉では埋められない切迫感、現実味、性の匂い、人間臭いコクと味わいがしっかり事細かに描き込まれているので、40代以上のわたしたちには見応え十分、かなり身につまされる。

時代舞台は「女の幸せは結婚相手で決まる」と固く信じられていた1981年、東京。25歳も過ぎて結婚もせず、相手もおらず、手に職もなく、とくにやりたい仕事や目標があるわけではない独身女性3人が、結婚までに「強烈な想い出が欲しい!」と一致団結、それぞれが自分の生き方を右往左往模索しながら、落ち着くところに落ち着くという、いわばSATCの日本版、昭和50年バージョンである。
「結婚だけが女の人生じゃない!」と時代社会に反旗を翻し、「わたしは私の結婚がしたいの!」と革命の狼煙を上げる3人娘のバイタリティは大したものだが、そもそも彼女たちは結婚したいのか、したくないのか、自立したいのか、何がしたいのかは混沌としたまま、その時その時、精一杯がむしゃらな行動に出る。その著しく論理性を欠いた矛盾だらけのスローガン、後先考えない発作的な行動力、コロコロ変わる本気の多さが実にアホらしく、可愛らしく、女らしいのだ。

さらに三者三様の抗い方、男選びの方向性、甲乙付けがたい男運のレベルも痛快だったが、彼女たちを取り巻く実家のごたつき具合、価値感や性格などまったく噛み合っていないのに何十年も連れ添っている両親夫婦の絶妙に惰性的なコンビネーション、口が裂けても「理想の女性は母親」とは言えない母親、さらには、佐藤慶、前田武彦、児玉清が扮する仕事一筋昭和親父の頑固さ、不器用さ、物わかりの悪さ、哀愁、切なさ、ふとした弾みで露わになるダサさ、セコさ、頼りなさなどが混然一体となって「そうそう、これこれ」と肉薄するリアリティを放っているのである。

そして何より、わたしが強く共感したのは、上司や親からはことあるごとに結婚しろと迫られ、さらには「おまえみたいに高望みばかりして行き遅れた女の末路は悲惨なもんだよ」と、自分は好きで結婚したわけじゃないけれど、まあまあ幸せになってますわよと言わんばかりに同性として勝ち誇ったようなことを言う母親に対して、田中裕子がカーッと怒鳴り散らしたこのセリフ。

「なんかこう気持ちの底からカーッとやり合えるような、そういう人と結婚したいのよ!それのどこが高望みなのよ!」

カーッと。そうそう、カーッとやり合う、な。それ以外、人に求めることなど何もない。他に何があるかと、まさにわが意を得たりの心境であった。そんな自分はといえば、「やり合う」というよりむしろ「やり込めさせてくれる」、あるいは、打ち込める、たたき込める、もっと言えば、仕込んでも仕込んでもまだまだ「そうじゃねえだろ、てめえ、何度言ったらわかんだよ」とカーッとやり込んでやりてぇ職人肌だ。だから、理想の条件はと訊かれたら「仕込み甲斐のある坊主」というしかない。

詰まるところ、どこかにある、どこかにいると追い求めて探しているものは何でも自分の足もとにあるように、理想のパートナーというのもまた、自分は人に何をしてやりたいのか、どういう人間とどんな風にとことんやり合いたいのか、我のみぞ知るところだ。

と、長々書き終えたところに、宮沢りえさん離婚のニュースが。

「結婚生活の中で少しずつ生まれた調和することの出来ない考え方の違いが重なった」

ふ〜ん・・・なんだろう、この日々すれ違う2人の時を静かに見送ってまいりました、みたいな自然で穏やかな言い草は。

まあ言い方はともかく、そうそう、考え方や価値感なんか、土台調和することなんかあるかいな。でも、考え方も生き方もやることなすことズレズレでも続く2人もいれば、やっぱり終わる2人もいる。もっと言えば、続いていても終わってるケースもあれば、終わっているけど続いているケースもあったりするから、こればっかりは自分のやりたいように、とことんカーッとやり込めていくしかないわ!

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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