salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2018-04-16
男と女をあぶり出す、不倫の火

ここ数年、通算何発、数え切れない北朝鮮のミサイルなみに、定期的に発射される週刊文春発、不倫騒動。去年の夏、試しに受けた人間ドックにひっかかり、精密検査のためこっそり帰国していたときも、朝昼延々深夜まで、テレビは芸能人の不倫報道一色だった。古くは、その好感度の高さゆえにひとたび醜聞が漏れると化けの皮が剥がれたといわんばかりに叩かれた優等生タレント。そこから出るわ、出るわ、元アイドル議員、ミュージシャン、芸人、俳優、さらには、’90年の日本の音楽業界を席巻したTKサウンド・プロデューサーから、やられる前に自ら発火の小泉今日子に至る現在まで、聖火リレーかというくらい次から次へ手渡される不倫の火。

不倫。それはともかく、世間を騒がす芸能人の不倫騒動にわたしがどうにも解せないのは、そこで繰り広げられるワイドショーのやたら真摯にまじめぶった態度である。テレビの司会者、コメンテーターらがさも深刻そうな表情で全方位に配慮した無難な意見を述べ、その罪の深さを問いただす、学級会レベルのディスカッション。そして、ちょっとでも不倫擁護みたいな意見が出ようものなら、「妻の立場」「奥さんの気持ち」「ご家族の心境」という槍や刀や鋤や鍬で一斉にこっぱ微塵に「なきもの」にされる場の空気。
懐かしの缶チューハイと好物じゃがりこをボリボリかじりながら、テレビ画面をにらみつけ、「それは、ちゃうわ」とタバコの煙をくゆらしながら「なにがちゃうか(違うか)」をひとりまんじりこねくり回し、しみじみ味わう日本の平和。まあ、なにが一番違うといえば、そもそも、そんな日本が染みついて離れない自分がなぜパリなどにいるかという話だが、まあそれはまた今度あらためて。

ということで、今回、久々に書きまくりたいお題は、不倫。そして、わたしは、「不倫、あかん!」という善良市民真っ当派ではなく、「あかん!」ゆうても「あるがな、不倫!」と苦笑いで肯定するやさぐれ庶民人情派の一員である。
なので、ここからは、わたしのムチャクチャ私的な不倫観を一挙に書きなぐるようなことになるので、善良市民真っ当派の方はむかつきながら最後までお付き合い願えればと。

まずもって、日本の不倫騒動の何が違うか。それは、芸能人の浮気、愛人、不倫について、そこまで真剣に、これは正しい、これは理解できる、これは許せない、これは言語道断と目くじら立てて有罪無罪をなぜ考えなければならないのかと。その重大さがまったくもって解せないからだ。
言ってしまえば、そもそも、不倫って、そこまであらゆる視点から、ふたりの関係の深さを探り、なぜつき合うに至ったかの経緯を洗い、連日、新たに出てくる証言・事実と照らし合わせ話し合わなければ隠れた真実が、解決の糸口が見えてこないような事件だろうか?

いやいや、それは、ただただ、わかっちゃいるけどどうしようもない人類の営み。それ以外にどんな意味があるというのか。いいも悪いも、許すも許さないも、人を好ましく欲する心を持つ人間がこの世にある限り、今日もどこかで誰かと誰かがひそかにこっそり営んでいる夢一夜。それがいかに信じがたくありえない裏切りであろうと、刑法には触れない、民法でもせいぜい慰謝料に色がつく程度のお仕置きレベル。いわば、不倫というのは、たとえどんなに許せなくても、誰も裁けない、捕まえられない、止められない治外法権・恋愛特区の麦畑というしかない。

自分も確かに、思い起こせばおかあちゃんも、そしてまわりに見てきた大人たち、近しい友だちひっくるめ、誰もがみんなあらゆる人生の場面で、そんなことを自分がするなんて信じられないことをやってのけてきた過去はある。
自分は絶対そんなことはしない、したくない、ありえないと思っていたのに、そんなとき、そんな相手と、そうなったら、そうなってしまうのがその人間の「らしさ」であり、ひとの一生には、大なり小なり、思ってもいないことをやってしまう魔の刻がある。もちろん、そんな刻など全然ないひともいるし、なんでもいいから過ちの一度や二度あったほうがよいのでは?と邪推ながら思ってしまうひともいる。一方、もうこりごりよと言いながら、みずから飽くなき魔の刻を追求する禁断の匠としか思えないひともいる。
ひとくちに不倫といっても、20代の独身女性が尊敬と信頼のまなざしから仕事のできる上司と関係を持つ恋愛の延長上にある「好きになった人に妻子がいた」若気の不倫。あるいは、ヒマと欲求を持て余した主婦がひととき刺激を得る官能不倫など、それはもう年齢、環境、不満の種類によって人それぞれ、男と女の数だけ不倫の因はそこら中にある。それはもう、コンビニの数ほど。

中でも、わたしが近頃の不倫騒動を見るにつけ、そうなることもやぶさかではないと同じ穴のムジナ感を禁じ得ないのは、結婚生活の果て、夫婦生活の末に、そうなるのは致し方ない、むしろ、この世に不倫がなかったらその人自身どうやって自分の気持ちに折り合いをつけ、心のバランスを保てるのかという、いわゆる、今、自分が話したいことを話せない、心通わす術を失った妻を裏切るしかなかった小室哲哉に見るケースである。

結婚、夫婦、家庭というのは、いわずもがな、その人の現実である。夫婦2人の現実が、つねに自分の心の向きと足並み揃え一直線に進んでいければそれに越したことはない。
けれど、長年一緒にいればいるほど、こういうときに自分がこう言えば、相手から返ってくる言葉はきっとこうだ。そんなことは言わずともわかっている、だからあえて何も言わない。もしかしたらわかってくれるかと期待して話した自分が間違いだったと、どうにも噛み合わない憎々しい失望を日々、互いにやりくりしなければ持たない夫婦がそれでも夫婦であり続けるため、内ではできない話ができる相手を外につくる。
夫とは別に、妻とは別に、自分を隠すことも抑えることも偽ることもあきらめることもなく、あたりまえに自然に話せる相手が他にいるから、子どもの将来、家のローン、老後の年金以外、共にめざすものは何もないあなたともおまえとも、ここまで一緒に来た以上これからずっと墓場までと、通わず別れず一緒にいられる夫婦というのもそれはもう例を上げずともそこら中、世界中にある話だ。嫌いなわけでも憎いわけでもない。
むしろ、これまで苦労をかけてきて申し訳ない、家のこと、子どものこと、親のこと、全部まかせっきりで、頭が下がるほどありがたい。けれども、それほどかけがえのない大切な存在であることを誰よりわかっていながらも、何より大事なおまえと一緒にいる時間が、どうにもこうにも、おもしろくも楽しくもくつろげない。とはいえ、そんな本音をくちにすれば、さらに100倍面倒くさいことになるから、そこはもう気づかないよう思わないよう騙し騙しに慣らしてきた自分のマインドコントロールがふっと解けるような返し、言葉、反応を与えてくれる相手が目の前に現れたら。それはもう、超えるしかない一線が手招きして迎えているようなものではないか。
現実には埋めようもない心の隙間を一時でも埋めてくれる存在に遭遇してしまったら、あとはどうあれ「いいから、先生、抜いてください」と引っこ抜く永久歯のごとく、今まで堪えてきた自分の膿を抜き去りたい衝動を、いったい誰が止められるというだろう。それはもう、精神力の一本ヤリで敵機B29を打ち払わんというくらい無茶な話だ。

何より仕事が大切、子どもなど欲しくないといっていたキャリア女性が、子が生まれたらこんな可愛いものがこの世にあるかと仕事も出世も自分などどうでもいいと思える子どもの存在を人生のギフトのように語り上げるような信じられない自分に出会う奇跡。それが結婚、出産、めでたいことなら素敵な美談にあがめられ、思いもよらない運命の信じがたさは同じでも、それが浮気、愛人、不倫とならばタコ殴りに袋だたきの刑に処せられる。わたしは、どうも、それは不公平に思えてならない。
もちろん、自分が自分の思いのままにそうすることで、傷つく人がいる。そういう行為は許されるべきではない道理はわかる。けれど、人それぞれ、それ相応に、間違い、つまづき、悔やみながら生きてきた人生を持つものであれば、自分にそんなつもりがあろうがなかろうが、自分が幸せに包まれている一方には、選ばれなかった者の失意、なぜわたしでなくあなたなのかの悔しさ、痛み、運命の残酷さに打ちのめされる人がいる不条理が世の常であることを余りあるほど知っているはずだろう。それゆえ、ひとは歳をとるほど、ありがとう、ありがとうが口グセになるのである。

祖母がいつも言っていた「楽は苦の種、苦は楽の種」。わたしはずっと、幸せの後には苦しみが、苦しみの後には幸せが、と解釈していたが、この歳になってそこにあるもうひとつの意味に気づかされる。おまえが幸せなときには苦しむひとが、おまえが苦しいときには幸せなひとがいることを忘れるなということを。幸せとは、愛とは、美しいものであると同時にどれほど残酷なものか。けれども、だからこそ、思う。ひとり一人が、思うように自分の人生を生きることが、人として生まれた限り、わたしたちが持って生まれた責任なのだと。

なんというか、自分が50歳を目の前に切実に痛感するのは、これからの将来や未来というより、これまで生きてきた自分を以てして残り少ない人生をどう生きるか、そのためには今、何をすべきか、何を捨てるべきか、何を決断すべきかという自分の始末のつけ方だ。そして、そこには、一度しかない一生を、誰と一緒に生きたいかという命題がついてくる。
天下の小泉今日子の心境とただの50歳前の自分を同じ線上で語るのはおこがましいにも程があるが、「自分自身のケジメ」として、みずから不倫関係を明らかに示した小泉今日子の決意を読むと、わたしがわたしで在る限り、わたしはわたしの人生を生きさせてもらいますというひとりの女性の意思表明だと、同じ年代の女性のひとりとしてうなづけるものがあった。

これは、わたしの憶測に過ぎないが、もし、小泉今日子という女性の覚悟が本物であるなら、おそらくそれは、交際相手の妻である女性とも直接話し合い、妻にとっては夫であり父親、そして私にとっては、芸能界ならではの古い慣習を打ち破る新しい舞台表現の場を創っていきたい志を共にするパートナー。そういう双方の立場から、家庭はあっても役者であり舞台人であるこの男の人生をさらに大きなものにするために、私たちはそれぞれにそれぞれの役目を果たしましょうという女同士の密約があったのではなかろうか。

もし仮に万が一、妻でも愛人でも、自分がいずれかの立場になれば、是が非でも相手の女性に話をつけに行くだろう。それがいかに「おまえが言うな」のとち狂った論理でも、ぶち破らねば出てこない女と女の本音、分かち合いがあるからだ。まあ、それも、相手によるかもしれないが、何はどうあれ白黒はっきりつけたい欲の強さは、女の方が凄まじい。
浮気、不倫、愛人、妾、なんでもいい。その発端は大抵、男、かもしれないが、それを始末するのは絶対に、女である。つまり、不倫というのは、絶対の権利と家庭という牙城を持つ妻と、なんの身分も権利もないが彼の本当の幸せはわたしにありと信じる女がどう決着つけるかという、女同士の倫理なき闘いなのだ。
不倫という修羅場舞台においては、たとえその種をまいたのは男であっても、蛇にも鬼にも菩薩にも変幻自在に立ち回れる主役は女。そこに、男の出る幕はないのである。阿鼻叫喚の出産におろおろ脇を固めるしかない夫のごとく。

そして、そんな夫婦の、男と女のどうしようもなさを、他人事の極みである芸能人を主人公に、わいわい面白がらせて見せるのがワイドショーの本分で、出歯ガメ視聴者の楽しみで、それ以上、深い意味がどこにあるのか。
他人の男女の惚れた腫れたの色恋不倫に。
そんなものは、言わば、さんざんしゃべり尽くし食べ尽くした飲みの場の終盤あたりに誰かがふっと物足りなさに「すいませ〜ん」と追加する「バターコーン」か「フライドポテト」、「チーズとちくわの天ぷら」。
「そういえば、ほら、渡辺謙も」
「それにしても、なぁ、小泉今日子」
そんな誰かのかけ声に、全員一致で「おっ、今、わたしもそれ!」とついでに酎ハイおかわりするように「そうそう、わたしもそれしゃべりたかったんよ」と何の説明も解説も抜きにその場にいる誰もがみな口々に知った風に下世話に盛り上がれるジャンクなつまみ。それが、芸能スキャンダルの醍醐味だ。

なにしろ、生まれてこの方、芸能ワイドの産湯に浸かり、愛憎渦巻く略奪愛、痴情の果ての逃亡愛、ドロ沼の三角関係というおどろおどろしい筆文字で下世話にしたたるタイトル・テロップに胸躍らせ、時にはインターホン越しに、時には局のデスクの電話から、さも親身に心配しているくちぶりで芸能人のプライバシーを暴き出す芸能レポーターのやりくちに「ようやるわ」と感心しながら、子ども心に「愛とは何か」をワイドに学んで大人になったものだけに、芸能ネタやゴシップを「くだらない」と吐き捨てる高尚な教養センスなどあろうはずもない俗なやからだ。

倫理や道徳、プライバシーなどという概念が笑うほどなかった子どもの時代のワイドは、今よりずっと節操なく、もっとえげつなかった。けれども、それをどう思うか、どう見るかは「あなた次第です」という自由はあったように思う。無責任かもしれないが、それはもうあなたまかせ、視聴者まかせに見せ放題の投げ放題。ゆえに、タイトルもその通り、「3時のあなた」「3時に逢いましょう」。実に、受け止めやすい時代であった。
それがいつの頃からか、こっちがどう思うより先に、メインの司会者が、居並ぶコメンテーターが、まるで世間の声、わたしの意見を代弁しているかのように、切々とした表情とさも正しく聞こえる言葉でことの善悪を述べ、テレビのこっち側では、どのひとのどのコメントが自分の考えに近いかを選択する流れに変わった。これは、ある意味、芸能ワイドの「ゆとり化」ではないかと、何よりどうでもいいことを危惧してやまないわたしである。

そして、最後にこれだけは言っておきたいことがある。こういう不倫騒ぎにもっともらしく出てくる「子どもがかわいそう」という言葉ほど、子どもにとってかわいそうな言葉はないということを。

親の不和、諍い、浮気、離婚。父や母に、自分たちを捨てても大切なものがあると思い知らされ、そんな親父のせい、母親のせいで、オレはこうするしかなかった。わたしは、こんなに傷ついた。ひとの弱さも、ひとの狡さも、ひとのアホさも、自分の人生を振り返って考えられるほど多くの時を持たない子どもにとっては、そういう親の過ちは、一生消えない傷になる。
けれど、子どもの頃に受けた痛み、喪失、欠落、言葉にならない孤独というのは同時に、一生かけて追い求めるに値する、なんのために生きるのか、生きるべきかを問い続ける、わたしだけの十字架、わたしだけのテーマをくれる。

小泉今日子の不倫宣言に絡んで出てくる真っ当なコメント。
父親の不倫を公表することで、どれほど子どもが傷つくか。そういうことを考えず、自分に対するケジメといわれても、それは違うのではないか。
いいや、別に何も違うことはないだろう。なぜなら、その子にとっては、自分の父親がどういう人間かということをこれからの自分の人生をかけて辿っていくことがその子に与えられた人生であり、あなたの父の「お父さん」だけではない役者として、男としての人生を共にしているのはこの私ですと公言した小泉今日子は、「子どもがかわいそう」という通り一遍の同情より、子どもと言えども人を信じる厳しい情を持って、そう明かしたのだと、わたしは思う。

なぜなら、自分自身、「あの子、かわいそうな家の子やから」と言われる悔しさを噛みしめた記憶があるだけに、ことさら、「子どもがかわいそう」という言葉に、過敏に過剰に、そこにあるのは優しさか冷たさかを探ってしまうのだ。
あれもひとつのお母ちゃんの魔の刻としかいいようのない男と暮らしたときの頃。近所のひとは、「あの家、いつも子どもしかいてないで」「毎日、夜中に夫婦かなんかわからんもんが帰ってくるわ。かわいそうに。」と、毎朝、愛犬ルルちゃんを散歩させてるわたしにわざと聞こえるように冷ややかにヒソヒソ話すおばはんたちの声。一緒に学校に行こうと、近所の友だちの家に誘いに行った朝、奧から聞こえたその子のお母さんの何気ないひとこと。
「あの子、なんかややこし(訳ありの)家の子やからな。まあ、かわいそうやから一緒に学校行くのはええけど、あんまり仲良うせんときや」
一瞬、誰のことを言っているのだろう、と戸惑う間もなく、わたしの中に込み上げてきた怒りの塊。
「誰がかわいそうやねん!」。
わたしをかわいそうと思えるのは、わたしだけや。なんも知らん他人のあんたなんかに言われたくない。
たとえ8歳の子どもでも、人としてのプライドはいっぱしにある。だから、腹が立つのだ。見も知りもしない子どものことを、状況証拠だけで「かわいそう」と知ったかぶりに上から憐れむ他人の言葉が。

言いたいことがありすぎて、不倫そのものから逸れてしまったが、そう、つまり、不倫というのは、男と女、夫と妻、子ども、家庭あっての「不」であって、そんなことはないに越したことはないけれど、まかり間違ってあったときに越えるべきものは、何かといえば、結局は自分自身でしかないことを、読む度思わされる一冊がある。日本を代表する女流川柳作家・時実新子の「有夫恋 — 夫ある女の恋」。

十七歳で顔も知らぬ夫に嫁ぎ、旧家の嫁の辛酸をなめ、二人の子を産み、夫の酒乱、暴力に耐えながら、自分の内に燃える火を、五・七・五の音に刻んだ川柳作家・時実新子。夫ある身でありながら、共に川柳表現の世界に生きる編集者との恋、不倫愛に悶え苦しみながらも、新子が追い求めたのは男であっても男ではない、どこまでも自分自身を生ききることに他ならない女の業、人間の性。そして、夫に対しても、不倫相手に対しても、「愛」というやさしさだけでは理解出来ない男と女の無様なまでの別れがたさが常にそこにあるのである。

終章、新子に恋人がいることはとうの昔に知っていた夫が、新子におまえはもう自由に羽ばたけと、離縁を切り出すときの夫の言葉が、わたしの知らない夫婦とは何かを、突きつける。そんなもん知らんくせに、なぜか胸が詰まる。

「あんたはおれを嫌いやのに今日まで辛抱してくれてすまんかった。嫌いなもんと一緒におることがどないに辛いか、おれにもわかる。その点なぁ、おれはしあわせやった。おれはあんたを好きやったもんなぁ」

死んでも涙も出ないと思うほど疎ましい夫との30年。他の男を心に棲まわせ、妻ある男に燃えさかる愛を詠み続けた新子と同じ愛の句を、夫はなんら表現する術もなく、力まかせに殴る、蹴る、狂気の底に乞い続けていたのだろうか。
わたしにも未だ、おそらく誰にも、永遠にわからぬ男と女、夫婦とは何かをあぶり出すのは、皮肉にも、不倫という裏切りの炎なのである。

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1件のコメント

所詮は他人事で長々の文章やな

by カリメロ - 2018/04/20 9:33 PM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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