salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-07-22
14歳のわたしへ。
ー 人生は、慣れよ ー

いかんせん、身の程知らずのつま先立ちで東京山手の閑静な高級住宅街に紛れ込んで暮らしているだけに、日々、自転車で流し見る近隣の小中学校、すれ違う生徒らの表情・様子・服装・持ち物・会話の内容をかいつまんでみても、当然ながら物心ともに豊かに恵まれたハイソな教育環境であることがありありと伺える。「さすが、毛並みの良さが違うなぁ」と感心しつつ、「せやけど」と苦し紛れに「こんな何の問題もない豊かな環境からおもろい子が育つんかなぁ」と難癖つけるのがせいいっぱいだ。
先日も、夜道をぷらぷら歩きながら近所の中学校の前を通りかかると、月明かりに照らされた校庭の緑の中に佇むアールデコ風の窓が何ともおしゃれな校舎が実に羨ましくいい感じで、「今はもう学校の塀の上に有刺鉄線とかないねんなぁ」と、遠い昔に自分が通った大阪のヤンキー中学との落差に情けなくニヤついてしまった。

ここ連日、大津のいじめ自殺がニュース報道で伝えられているのを受けて、わたしも地域住民の1人として、普段より注意深く付近の小中学校や生徒たちの様子を疑いのまなざしで舐め回してみるが、学園ドラマのワンシーンかと見まごうばかりに明朗闊達な光景からは、報道ニュースで伝えられるような陰湿で悲惨ないじめ問題があるとはどうにも思えないのが実感である。
とはいえ実際のところ、今の子どもらの本当の実情など外から窺い知れるものではない。それこそ何事もスマートに冷静に効率よく処理する能力に長けたデジタル世代の十代が、一瞥してそれと分かる体当たりな暴力や単細胞ないじめ方はしないだろうし、「あんた、いじめられたんか?」と隣のおばはんでも一発で気づくあからさまな落ち込み方、うなだれ方はまずしないのかもしれない。

ただ、「いじめ」を苦に自殺する子どもが増えている現在、「いじめ」の根絶は不可能に等しくとも、それによって失われる若い命を救うことは大人の責務だ。今、誰にも言えず思い詰めている君へ手をさしのべようと、様々なメッセージがネットやTwitterなどでも発せられている。

「行きたくなければ学校など行かなくていい」
「逃げることも勇気だ」
「生きていればきっといいことがある」
「人生は長い、世界は広い。今の苦しみは、振り返ってみればわずかなものだ。ずっと続くわけじゃない」

その通りだと思う。生きてさえいれば、きっといいことがある。なぜなら、ひとはみな幸せになるために生まれてきたのだから・・・

しかしながら、わたしがもし中学生なら、そんなやさしく真っ当な言葉に「そうか」と納得するだろうか。おそらく、14歳といえども42歳の今とさして変わらぬ生来の性格を発揮して「じゃあ今、こんな酷い目に遭わされて、死ぬ以外逃れる道はないところまで追いつめられて、それでもわたしが生きなければならない意味はどこにあるのか教えてくれ」と、激しく突っかかるに違いない。

わたしが今、そういう大人たちの正統な考えを聞いてそうだと思えるのは42年生きながらえて来られたからであり、いいことも悪いことも、幸福も不幸も、喜びも悲しみも、延々続くものではない諸行無常の水物だということを身をもって経験してきたからそう思えるだけなのではないか。
死なずに生きていれば、生きてきてよかったと思える人にも出会えるし、そんな自分を好きになってくれる人も1人くらい現れたりする。今まで知らなかった世界、見たこともない風景に生きている喜び、ありがたさを実感することもあるだろう。これからの長い人生を思い至れば、今ここで死ぬなんてもったいない・・・・。相手が子どもと見ると大人としてはどうしても陽当り良く見晴らしのいい方の人生論を語ってしまいそうになる。が、死にたいと思い詰めている人間を思いとどまらせるのに、相手が大人だから、子どもだからと、いったいそんな年齢など関係あるのだろうか。
相手目線の言葉、教育、会話、コミュニケーションが、死を前にした人間にとってどれほどの効力を持つのかわからないが、少なくとも自分は、勘弁してほしいと思ってしまう。どこまでいってもわたしの目線はわたしのもので、あんたはあんたの目線で今のわたしを見て、あんたのその眼で向き合ってほしいからだ。

生きていればいいこともある。確かにある。けれど、それ以上に悪いこともある。正直、子どもの頃よりよっぽどしんどい経済的な苦労、複雑に込み入った人間関係、どんなにイヤだろうが辛かろうがやめられない、動けない切羽詰まった事情が増える。子どもの頃にはそれを失うことなど思いもしなかった大切な人、かけがえのない愛するものを失っていく。
自分を信じてあきらめず努力して生きていても、何のために頑張ってきたのかわからなくなるような不遇な目に遭うことだってある。人生は長い。まさに、この先何十年、家賃とローンを払い続けられるか、いつまで仕事して働けるのか考えたら途方に暮れるほど人生は長い。世界は広い、とはいえ、世間は狭い。今の苦しみが延々続くわけではなく、地獄だと思える日々も過ぎてみれば一時のこと。それも一理ある。けれど、それは今にして振り返ればの話だ。
あのときの地獄の日々が、果てしない苦しみが、終わらない悲しみが、死んでしまいたいと思った別れがあったからこそ今の自分がある幸せを感じられるのは、その人がそういう風に生きてきたからだ。つまり、生きていればいいことがあるか、生きていてよかったと思えるかどうかは、おまえ次第やと言うほかない。

はっきり言って、いいことがあるから生きるのでも、必ずや幸せが待っているから死なないのでも、命が大切だから生きたいのでもない。ただ、そう思わないと生きられないから、みんなそう思って生きている。じゃあ、なぜそうまでして生きるのか。それはだんだん年齢をとるほど、生きること、生きている自分、生きている世界に慣れるから。死ぬのが辛いのは、慣れたこの世と、慣れた自分と、慣れたあなたとさよならするのが狂おしく、耐えがたく、なごり惜しいからだ。そう、だから、人生なんでも「慣れ」なのだ。

そもそも、その子が今この試練を乗り越えたとして、それで人生の苦しみはこれで終わりだとは、わたしは言い兼ねる。この先、きみの行く道はさらに険しく暗くどん詰まりかもしれないが、それもまた人生だ。もちろん、そんな夢のない話を子どもにするのは好ましくはないだろう。これからの未来を生きる小中生に、そんな酷な話をするのは不適切なことかもしれない。が、「ほんまのこと」というのは、土台、酷なもんだ。自然に好ましいも好ましくないも、適切も不適切もないように、ほんまのことを思い知るのに大人も子どもも、酷いもへったくれもないのである。

だからもし、いじめを苦に自殺を考えている14歳の自分に何か言えるとしたら、42歳になっても正直、何のために生きるのか、人生の意味なんかいよいよわからんようになっている現実の自分のしょぼさ、いったい50歳、60歳まで仕事があるのか、将来というより半年先を思うだけで蒼ざめるばかりという恥ずかしい現実を切々と語り聞かせる。なぜなら、生きる意味などわからずともこうして生きている自分しか、人に語れる人生などないからだ。

生きていれば、幸せやなぁと思った矢先に不幸のどん底に突き落とされることもざらにあるし、出会いがあれば別れもあり、楽は苦の種・苦は楽の種、喜びは悲しみの泉というのは本当にその通りだと思うことしきりである。しかも、幸せと不幸は背中合わせというが、それとて等しく誰もがそうと当てはまるわけではない。どうも現実の世の中というのは、自分が考える以上に不公平に不条理にできているように思う。さして艱難辛苦をなめずとも豊かで幸せな生活を送れる人もいるし、塗炭の苦労を味わったからといって必ずしも幸せになれるわけでもなく、努力したからといって報われるわけでもない。正直者が泣きをみることもあれば、才能があるから売れるのかというとそうでもなく、美人やったら愛されるのかというとそうとも限らず、真面目にコツコツ汗水流して一生懸命働いても生活は楽になるどころか、長引く不況と不景気で予算は削られ、ねぎられ、叩かれ、首切られ、どうしようもない人生の憂き目に遭わされることも、ままある。だからといって、そんな誰も彼もが自殺するわけではない。それはなぜか。それでも生きていれば、いいことがあると思えるからか?違う。それは、ここまで生きてきて「またこれか」と、ひとえにそんな自分にどうしようもなく慣れ親しんでいるからだ。

子どもが「逃げ道がない」と思ってしまうのは、世界が狭いからでも知識や経験が乏しいだけではない。一番大きいのは、酒を飲むことができないからだ。そこは本当につらいだろうと同情する。それこそ、空の雲に憎い奴らの顔を重ね、一服憎悪の白煙を吐き出すこともできなければ、やり場のない感情にまかせ好きでもない女を掻き抱くことも、どうにでもなれとどうでもいい男に身をまかせる慰みもなければ、パチンコや競輪競馬でなけなしのしのぎを削りささやかに燃える愉しみもない。どうにも紛れない、吐き出せない、散らせない、酔えないとなると、大人でも辛い。けれどそこは中学生のきみの正念場だ。あとしばらく辛抱してほしい。
そして、どうか想像してほしい。大人になれば、死なないまでもどうにか生きながらえる抜け道がちょっとちょっと意外にあるということを。酒を飲めば浮き世の憂さを一瞬だけ晴らすこともできるし、本気で死ななくとも死んだように自分を忘れることもできる。さらには同じ辛さをわかりあえる友と酒飲んで話すだけでどんなに救われるか。そういう友がひとりいるだけで、どれほど生きてて良かったと泣けてくるか。それはもう大人になるまで生きてこそ味わえる生き甲斐、歓喜、やすらぎだ。

きみは、人にいじめられる苦しみ、痛み、孤独と絶望を誰より深く知っている。いつの日か、そんな自分自身を打ち明けられる友や大切な人ができたとき、そしてその人もまた自分と同じように心に深い傷を抱えて生きてきたと知ったとき、絶対に「生きていて良かった」と思う。それだけは保証する。だから、そこまで、とりあえず生きてみて、30歳過ぎても今と同じように死にたかったら、そのときは死んだらいい。まあ、そういうわけで、今のきみが思っているほど、そこまで人生は悪くない。ただ、世間で言われるほど美しく素晴らしいとも、思わへんけどな。

以上が、わたしみたいにひねたタイプの14歳に贈る「生きろ!」。
いや、騙されたと思って「生きとけ!」だ。

人生には、生きてこその喜び、生きてみての希望もあれば、生きたところでの空しさ、生きている限り生きるしかない途方もない悲しさがある。そこはいい面も悪い面もひっくるめて言わないから、子どもの方も親や大人に対して「いいこと」しか言えなくなるんじゃないだろうか。いじめられていることが恥ずかしく誰にも言えない子どもたちに「何でも話せ」と言う前に、自分ら大人がまず恥さらせよと、きっと自分が14歳なら間違いなくそこを突く。

ただまあ自分のように性根猛々しいタイプは、「自殺」より「復讐」を考えるだろうから、「なぜ、人を恨んではいけないのか」をこってり教え諭した方がいいのかもしれない。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

4件のコメント

多川さんの今まで書かれたものの中でも秀逸だと思いました。本当に人が生きるということは大変なことです。
私も、今月末で独立するためにあくせくしています。
多川さんの文章で、元気付けられました。
こういう人の言葉に出会うだけでも、生きていてよかったのかもしれません。
やはり、こういう中身のときは、大阪弁風というのは素敵ですね。

by 株彦 - 2012/07/24 2:49 PM

今半身浴しながら本日二回目ゆっくりっ読み返しました。汗と一緒に涙出た…

by シゲ - 2012/08/03 12:24 AM

今更ながら…でも、この手の話は 泣くわ〜(^^)
今の 一般的な子供達は 夢か武器 が無いでな〜(⌒-⌒; )
何でも 責任 責任って(゚o゚

そーやなー(−_−;)
なんやろ…
追い詰められた子供に、聞いて欲しい事

どーせ死ぬんなら 死ぬ前に、とことんやったれや!

かな〜

多分 最低の答えやな〜(−_−;)

でも、死ぬのは その後やわ(^^)

勝ち逃げや〜(^^)

by 秀虎 - 2012/09/29 7:00 PM

涙が出ました。なんにもないこんな自分でもとりあえず生きてみようと思えました。

by ひ - 2013/09/27 1:06 AM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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