salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2014-03-10
転んでも立ち直る人生を
見せてくれた浅田真央

日本列島が稀に見る大雪に見舞われた先月15日、どっさり雪が降り積もった白い東京に、よりによって、半年ぶりに戻ってきた。よりによっただけに、いざ空港から都内のホテルへ向かおうにも、降雪の影響で成田エキスプレスは運行休止。どうしようと思案するまでもなく、23kgの重量制限ギリギリに詰め込まれたスーツケース5つを引きずって在来線に乗るのは、ハタ迷惑だ。荷物だけ宅急便で送ってといっても、それはそれで1万円以上はかかる。となると「2〜3回飲みに行ってタクシーで帰った」と思えばそんなもんやと割り切るのがいちばんラクに思え、成田から新宿までタクシーで向かうことにした。
ところが空港のタクシー乗り場には、これまた雪のせいかタクシーは1台しか見当たらず、しかもそれは見るからに大きな荷物をいくつも載せるには不似合いな小型のセダン。後ろのトランクに無理矢理スーツケース2つを押し込み、「ほな、あとは助手席と後部座席に」となぜかこちらが先陣切ってドアを開ければ、スーパーの袋やチラシ、飲みかけのドリンク缶が無造作に散らばっているアットホームに腰砕けな車内。
思えば、スーツケースを載せる段から腰の引けた気弱さが目についたが、そのココロは、べらぼうに長距離の上客に当たったことよりも、さらなる雪に見舞われて帰れなくなることが恐いということだろう。
「どこからですか?」と愛想を振る余裕もなく、ほとんど無言で高速をひた走りながら、口を開けば、「都内はもっとひどいみたいだから....」だから、行きたくないのか、帰りたいのか、ここいらで降りて欲しいのか。
こちらがホテルに至る道を指示しても、「そこは通れないかもだねぇ」
それなら明治通りから逆回りに入ってくれと頼んでも「これ以上は無理だねぇ」と終始一貫、及び腰。
けれど、これが不思議なもので、日本を離れて久々に見ると、そんなリスクを恐れたへっぴり腰も、なんと新鮮なうっとうしさか。
おそらく、これがパリのタクシーなら、自分が行きたくないのなら最初から客を乗せないだろうし、「帰れなくなる」心配があるのなら、まずもって運転業務には出ないだろう。

それが、このタクシーの運転手のように、いやいやでも行くところまで行かないと断れない小心さ。逃げ腰でも一応前進してみせる律儀なケツの穴の小ささは、ここパリではなかなかお目にかかれない。
そう、そんな腹立つものにすらことさら感慨を抱けるのは、言うまでもなく、遠く離れてたまに見るからである。それこそ、喫茶店に入った瞬間、さっとおしぼりと水が運ばれ「ご注文が決まりましたらお声かけ下さい」といわれただけで「ああ」とほだされ、スーパーの5本入りパックのちくわ1本かじるだけでも「ああ、これこれ」とホロリとくる。そこに居たなら何とも思わないあたりまえのものを、この目と耳と舌で思う存分味わうために、帰ってきたジャポンなのだ。

そんな2週間の滞在中は、しゃべりたい友としゃべりたいことをしゃべるため、寸暇を惜しんで飲み歩き、楽しい、嬉しい、懐かしい、バラ色の幸せいっぱいに後から来る疲れを溜め込む日々であった。さらに何と言っても、今回の帰国中、胸に刻み込まれた忘れ得ない感動といえば、浅田真央選手のスケート人生を物語る、最後の涙と笑顔である。わたしはもはや「これを観るために帰ってきた」といわんばかりに、飲み続きの疲れと襲い来る眠気と闘いながら、女子フィギュアの試合放送を固唾を飲んで見守った。

誰もが、そのあり得ない失敗に打ちひしがれた前日のショート。
冒頭のトリプルアクセルの転倒から、全ジャンプにミスが続き、何が起きたのかわからないまま、結果は、誰もが想像だにしなかった16位スタート。
「取り返しの付かないことをしてしまいました」。
試合後のインタビューで浅田選手がまず口にしたこの言葉ほど、このときの失意と絶望を物語るものはない。

「気持ちを切り替えて」と言葉にするのはたやすいが、舞台は4年に1度、これが最後と決め、4年間ただこの瞬間のために全てを懸けて臨んだオリンピック。そこで、今まで積み重ねてきた自分を出し切るどころか、悔やんでも悔やみきれない悪夢のような最悪の結果。それは、いわば、自分のすべてを賭けて築き上げてきた会社、仕事、これが自分の人生だと信じて生きてきたもの、大切な人を失ったときの喪失感といっても大袈裟ではないのではないか。けれど、それほど立ち直れない窮地から浅田選手はたった1日で立ち直った。

浅田真央選手は、どんなに失意の底にあっても自分があきらめない限り、終わりではない人生を見せてくれた。
「取り返しの付かないことをしてしまった」崖っぷちに追い込まれても、取り返せる自分があることを教えてくれた。
このままでは終われない、終わってたまるか、終わるはずがない。そう信じて、やるしかない。どんなに転んでも、わたしは跳ぶ。翼は折れても、わたしは跳べる。そんな真央ちゃんの気迫と勇気と覚悟の演技に日本中、世界中が涙したのは、「生きる」とはそういうことだからだ。

銀メダルに輝いても悔し涙を流したバンクーバーから4年—。
一からスケーティングを見直す、いわば「できている」ことを「できなくする」途轍もない我慢と根気が必要な決断、無意味にすら思える練習を積み重ね、選手として最も辛く苦しい時期にいつもそばで支えてくれていた最愛の母を失うという悲しみを押し殺し、ここまできたソチ五輪。みずからのスケート人生、挑戦と闘いの軌跡を刻みつけるかのように力強く、伸びやかに氷上を舞い、果敢に跳ぶその姿を見つめながら、自分の中で様々な想いが駆けめぐった。4年前、バンクーバー五輪のときには、一気に燃え上がったフィギュア熱で代々木体育館におーちゅんと「世界フィギュア大会」を観に行ったこと。それから4年後のソチ五輪では、フランス人の相方が隣で寝ているベッドの上で、ひとり起きてテレビを観ている自分がいること。そんな信じられない未来を連れてくる「4年」という歳月を噛みしめながら考えた。4年前のバンクーバー五輪では、完全に舞台はキム・ヨナと浅田真央の金メダル対決であった。そして誰もが、次のソチでは、今度は浅田真央が金メダルというストーリーを描いていただろう。けれど、今回の女子フィギュアのハイレベルな争いを見れば、変わるのは自分だけではなく、自分を取り巻く状況も情勢もどう変わるかわからない。世の評価や社会の価値感、他人から見た幸せみたいな「外」のものに照準を合わせるのではなく、自分自身のめざすものをめざせ、というのは、そういうことだ。結果は後から付いてくるというが、その結果を連れてくるのは、その間、何をやり続けてきたか、積み重ねた時間、自分自身に刻みつけたものでかしかない。そして、信じて努力し続けた未来が自分がめざした金メダルであってもなくても、これが自分だと思える未来のために今、できることをやるしかない。

「できると思ってやって、これが自分がやろうと思っていた構成」

氷上に叩きつけられ砕け散った自分自身を一日にして拾い集め、フィギュアスケーター浅田真央の骨頂を見せつけたフリーの演技。天を仰いで肘を突き上げるポーズのまま、全てを出し切った真央ちゃんの涙、そして笑顔にむせび泣きながら、「わたしも」と厚かましくも自分に引き寄せ、またしても心新たに決意した。

「4年間はフランスで生きていこう。真央ちゃんが一からスケーティングを見直したように、自分の言葉としゃべりを叩き直す日々の果てに、今の自分には想像できない、フランス語をしゃべっている自分がおるかもしれん」と。
そして、やると決めたら「これ以上無理や」などと前出の千葉の運転手みたいにやるのではなく、真央ちゃんのように「できる」と思ってやろうと、できれば「この4年は何だったのか」ではない方の未来を信じて、柄にもなく前を向いて見る気になったわたしだった。

が、いつになく前向きな決意をしたからかどうか、パリに戻ってくるなりルイジとまたもや大衝突。ここ3日はお互い口も聞かないまま険悪な終末の鐘が鳴り響いている。事の次第をざっと言うと、「sorry」に関する東洋と西洋の意味と解釈の違いで口論の末、いよいよ激怒したわたしが言ってはいけないことを言ったからだ。

「取り返しの付かないことをした後、何をすべきか」を真央ちゃんに学んだわたしは今、言ってはいけないことを言った後に、何ができるかを考えている。そこは悪かったと謝るか、そこまで言わせるあんたも悪いと出て行くか、どっちかしかない。

さあ、どうしよか、どうなるかの続きは、次回の講釈で。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

2件のコメント

月並みですが、頑張ってください!!

by 株彦 - 2014/03/11 5:07 PM

私も、あの後お決まりのノリちゃんと喧嘩して、3日間口きかんまま、いろんなことに飛び火して傷口が広がった結果、なんで腹が立つのか考えたら、全部八つ当たりに近いというか、結局の所、ほぼ自分の問題やなと思って、謝ったわ~。
謝った上で、でもコレだけは、言わせて!とまたケンカふっかけたけど。

by トモンセ - 2014/03/11 7:02 PM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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