2015-02-4
ごまめの眼で見た、フランスの自由、日本の自己責任。
先月、イスラム過激派と見られる犯人によってフランスの新聞社が襲撃され、17名が犠牲となったシャルリーエブド事件に続き、またしてもイスラム過激派組織・ISILに拘束されていた日本人の人質が殺害された。自分が暮らすフランス、そして自分の国である日本で起きたこの2つの事件を通して、自分の国の信念、誇り、同朋というかけがえのないものが脅かされ踏みにじられたときに出てくる怒りの矛先、世論の方向性の違いに、個人主義の西欧と集団主義の日本という絶対的に異質な価値感の間で、わたしはひどく葛藤した。
テロの危険にさらされても、他国に平和を脅かされても、守るべきは「個の自由」とするフランス人と、テロの危険にさらされ、みんなの平和を脅かす「個の自由」は控えるべきとする日本人。こういう真逆な考え方の違いにぶち当たる度、世界で一番大好きな日本に、今まで感じたことのない遥かな距離を感じてしまうわたしである。
新年早々、フランスで起きたシャルリー・エブド襲撃事件では、イスラム原理主義と見られる実行犯によってパリの風刺新聞社が襲われ、編集長や画家、警官、一般市民17名の命が奪われた。逃走し人質を取り立てこもった犯人は特殊部隊との銃撃戦の末、射殺。まるで海外ドラマを観ているような衝撃の展開は、フランス国民のみならず世界を揺るがす歴史的事件となった。さらに事件発生直後からフランス全土に湧き起こり、瞬く間にヨーロッパ中、そして世界中を駆けめぐった表現の自由を叫ぶスローガン「JE SUIS CHARLIE」。わたしがこの事件を通して見せつけられたのは、ここぞのときに凄まじく発揮されるフランス人の結束力である。それこそ、人種、国、宗教、百人いれば百人それぞれルーツの違う多民族移民国家であり、普段は「一致団結」などありえない、ひとりひとり好き勝手バラバラな個人主義が甚だしく、心ひとつにまとまるということなどあり得ないようなフランス人だが、ひとたび彼らの精神といえる「自由」が侵されたとなるや瞬間着火で炸裂し発起する、自由の国フランスの団結力は見事だった。
個の主張と行動が国全体を突き動かしていく、まさに民主主義の何たるかを体現するような民衆の力を目の当たりにしたのは、事件後の週末に行われたデモ行進である。おそらく日本のニュースなどでも目にしたと思うが、パリではテロとの共闘精神を同じくするヨーロッパ諸国の首脳陣が集結し、史上最大規模といわれるマニフェスト(デモ行進)が行われ、370万人もの群衆が参加した。メトロ(地下鉄)は無料となり、車内は今からデモに行く人々で混み合いつつも、あの人もこの人も同じ目的に向かって進む、さながら初詣列車のような雰囲気であった。小さな子どもたちが色とりどりのクレヨンで描いた“JE SUIS CHARLIE”のメッセージボードを手にする姿、ベビーカーで眠る何も知らない赤ちゃんや人々が連れ歩く犬たちまでも、思い思いに“JE SUIS CHARLIE”を身に付け掲げながら通りを行き交う光景は、デモというより祭りのような雰囲気もあり、けれども往来の脇には機関銃を手にした防弾チョッキ姿のポリスが目を光らせている。緊張と緩和が混ざり合う中、新たな決意を持って進んでいく「われら、フランス」の瞬間がそこにあったことだけは、確かである。
この事件は、個々の宗教や倫理、政治思想、移民に対する考え方など、下手に口にすると「差別」や「偏見」を問われかねない危ない要素を含んでいるが、そういう事柄に対しても、フランスの人々は自分の意志や決意を表に出すことに何の躊躇も気兼ねもしないし、マスコミやメディアの自主規制や自粛といった風潮もない。たとえばこれが日本なら、どうだろうか。
「あの人、シャルリーの新聞なんか読んでへんくせに」とか「表現の自由って、あの人、別にアーティストでもなんでもないやん」と意見や考えとは別の次元でとやかくいわれたり、「自分の気持ち的には“JE SUIS CHARLIE”やけど、知り合いにモスリムの人もいるし、あそこのケバブ屋の人はええ人やし、難しいとこやわ」と黙ってやり過ごすのが賢明みたいな風潮があったりする。あるいは、たとえば事件の日に行われるはずのパーティやライブやイベントは自粛のため中止になるのは致し方なく、キャーキャー騒いでる人を見れば「こんな時に不謹慎な!」「亡くなった犠牲者、家族の気持ちを考えろ」と、個人の楽しみを許さないのが、わたしの知る「世間」というものである。震災の時や原発の問題にしてもそうだ。発言するのも行動するのもつねに他人の眼を気にして、他人を思いやり、他人に迷惑をかけないように言葉を選び、配慮に配慮を重ね過ぎたあげく、誰もが分かりきった善いことしか思えない、当たり障りのないきれいごとしか言えない、うっとうしさ。
しかし、ここにきて感じたのは、日本のそれとはまったく異質な連帯感である。自由と革命のシンボルであるリピュブリック広場からバスティーユまでの道を、わたしも大勢の群衆にまじり、歩きながら、自分の目で耳で肌で見て感じたパリの“世間”。それは、人種も宗教もイデオロギーもナショナリズムも階級も職業も貧富の差も関係なく、それぞれがそれぞれの「自由」を胸に進んでいく、たくましい人間たちの姿であった。
質の違いといえば、事件後にパリ市から届いたデモ参加呼びかけのメールも、そうである。件名はもちろん「JE SUIS CHARLIE」。そしてその文面は、戦意剥きだしにテロとの闘いを煽るものでも、名誉と誇りにゴリゴリに凝り固まったナショナリズムを匂わせるものでもなく、それでいて、ありきたりな役所臭さもない。「事件の犠牲者と共に、表現の自由に挑み続けたシャルリー・エブドと共に、静かな連帯のときを持ちましょう」とさりげなく毅然と呼びかける知性と気品あふれる文体。いちいち自分の狭すぎる世界観を持ち出してしまって申し訳ないが、「チカン、あかん」「火の始末、知りまへんではあきまへん」みたいな浪花風味の文体に慣れきった大阪人としては、「文化」という名のハリセンでどつかれた衝撃であった。しかも心憎いのは、文末にしたためられた何ともエレガントでしたたかなフランスらしい言い回し。
” nous soyons plus fort que la barbarie.”
(自由な精神で結ばれた)わたしたちは、野蛮な者たち(テロリズム)より強い。
国の指針の一等大事な「自由」が踏みにじられた今この時に、普通の庶民の心情と決意を代弁するような文句が政府の口からさらっと出てくることだけで、「そらもう年季の入りが違いますなぁ」と、自由と民主主義の名人芸を見せられた思いである。
フランスでも昨年、自国の登山ガイドがイスラム国に拘束され斬首によって殺害される事件が起きている。そして、今回のシャルリー・エブド襲撃事件もそうだが、まずもってして、こちらでは、危険地帯に行った人間の責任を問うような意見が出てくることもなければ、度々イスラム教の過激派による火炎瓶攻撃や襲撃を受けながら、それでも自分たちの意志で「モハンマドの風刺画」を描くことをやめなかったシャルリー・エブドを自業自得というような声はまずもって聞こえてこない。しかし、今回の人質殺害事件をめぐって日本の中からやっぱり聞こえてくるのは「自己責任」、そして「安倍政権の責任」。結果的に2人の日本人を救えなかったのだから政府の対応を追求し非難するのは当然あって然りであるが、自国の人間が殺されたという事態に、「安倍が悪かった」とか「安倍のせいでテロの標的になった」という残忍非道なテロ集団の「殺害理由」と同じメッセージを掲げたデモが行われるのか。なぜ、人質家族が、「どうか助けてほしい」と泣き叫ぶことも出来ず、自国の人々に「迷惑をかけて申し訳ない」と頭を下げなければならないのか。なぜ、こうした日本固有の考え方が生まれてくるのか、自分の胸に手を当て、「なんで、こうなるのか」と考え込む。
隣にいる西欧人のルイジにも、こういう海外人質事件が起こると出てくる日本人の「自己責任」についてどう思うか訊いてみたところ、それは「selfish」自己中心的、利己的な考えだと言われてしまった。なぜなら、英語圏でいう「self-responsibility(自己責任)」とは、個人が他者や社会に対して負う“個としての責任”という意味らしい。つまり、あなたがあなたの思うように行動する自由、あなたがあなたの生活を保持する権利は、共に社会を構成するわたしの責任であるということらしい。やつの意見をふんふん、「yeah yeah」聞きながら思い至ったのが、フランスの哲学者、文学者・ヴォルテールの有名な言葉。
「わたしは君の意見に反対だ。だが、君がそれを主張する権利は命をかけて守る」
これは個人の自由と社会の幸福を追求する民主主義の根幹を成す精神を表した言葉といわれるが、この考え方を人質事件にあてはめると、「わたしはあなたのように危険と知りつつ危険な場所に行くことには反対だ。けれど、それでも行くというあなたの自由と権利をわたしは尊重する」ということになるのではないか。個人の自由と権利を何より重んじる西洋の観点から見れば、その人がそこに行くのはその人の自由であり、わたしもまたそういう自由と意志を持ちあわせた人である限り、そこで、彼が不幸にも捕らえられ命の危険にさらされたとしたら、わたしたちは命をかけて守るべきだ。それが人と共にある社会に生きるひとり一人の自己責任だという考えになるだろう。
シャルリー・エブド事件のときにも、日本のメディアやネットでは「テロ行為は絶対に許されない」が、他人の信仰を踏みにじっておいて、自分がやられたら『自由、自由』と主張するのは西洋社会の傲慢ではないか」という意見が多く見られた。それは、やった方は悪いがやられた方にもその「因」をつくった非はあるのではないか、という日本独特の因果応報の考え方かもしれない。わたしも、自分は何も悪くない、相手だけが悪いみたいなルイジの自分を正当化することに長けた言語・英語の論理的な自己主張を聞くたび、「せやけど、それもこれもあんたが撒いた種やろう」、「おまえらは因果応報、あんたらはおのれを省みるということを知らんのか!」と戦い挑んでは、「本気で知らんみたいや…」と途方もない無力感と忸怩たる思いを噛みしめる日本人である。
けれども、わたしは、シャルリー事件を「行き過ぎた表現による自業自得」とは思わない。なぜなら、たとえ彼らがその「因」を自ら生み出したものだとしても、彼らが思うように思ったことを表現し続けた自由への挑戦は、人として生きてある限り、自分もそうありたいと追い求める生き方だからである。
たとえば、このシャルリー・エブドみたいに、「ええ加減、やめとけ」というような風刺画を連発し、右翼か暴力団かに度々火炎瓶を投げられてもやめない新聞社があったとして、ついに彼らが命を奪われたとしたらどうだろう。おそらく「殺されたのはかわいそうだが、そんなものを描いたらこうなることはわかっていることだろう。人間、やり過ぎるとろくなことがない。ことなかれ、ああ、ことなかれ」みたいな自業自得の自己責任論が語られるのではないか。
間違っても、あなたのその自由過ぎる表現によってわたしが攻撃されることがあっても、どんな迷惑をかけられても、私もまたそうした自由を求める人間のひとりだという意思表明「JE SUIS CHARLIE」が吹き荒れることは、日本ではないような気がする。あるとしたら、シャルリー自身が、関係者や取引先、家族や親戚、隣近所や世間に対する「迷惑」を鑑みて、謝罪の上、やむを得ず自らペンを折るという、何とも後味の悪いうやむやな結末だろう。
わたしは、この「JE SUIS CHARLIE」的な連帯と意思統一の方法が絶対こうあるべきものだとも思わないし、日本には日本の意志の表し方があり、心を同じくする連帯のあり方があっていいと思う。私自身、なにかに付けて「アメリカでは」「デンマークでは」「フランスでは」と国際的な視点から日本のことをとやかく言われると、「日本には日本の事情があるんや!」と腹が立ってかなわない。ただ、そこにある「違い」は何なのかをしゃべりたいだけなのだ。
日本人の自己責任論をめぐり、「利己主義」と言い放つルイジに対して「そうではない」と、震災のときに見られた助け合いの精神を例に反論するも、ではなぜそういう非常事態において無条件に発せられる日本人の精神が他国で拘束された同朋には向けられないのか。なぜそこで、そこに行ったのはあなたの責任だという利己的な言葉が出るのかと問われると、くやしいが言葉に窮する。
もしかしたら、わたしたち日本人は、地震災害や不慮の事故で命を落とした人に対して抱く人としての思いの深さを、好きに自由に生きた果ての個人の不幸や逆境に向けることを何かしら不公平と思う帰来が強いのではないか。なぜなら、みんなそれなりにやりたくないことを我慢して、やりたいこともまあまああきらめて、人に迷惑をかけないように、国の世話にはならないように、互いに折り合い付けながら生きていくのが社会であるというのが世間の共通認識であり、そこからハミ出る生き方を選ぶということは、それはもう、どこでどんな目にあおうと野垂れ死のうと「おめえの責任だ」というのが、日本人の「自己責任」なのだろう。つまり、この「自己責任論」の根底には、自分は人に迷惑を掛けないようにまっとうに我慢して辛抱して自分を殺して生きている自負とともに、けれども、できることなら自分も何かに挑戦したい、自由に自分を生きてみたいが、そうはできないあきらめとひがみ根性、ジェラシーという、日本人と日本社会特有のジレンマそのものではないか。もっと言えば、この「自己責任論」とは、わたしたち日本人の美徳ともいえる、つねに「我が身を省みる」謙虚と謙遜の精神が孕んだ鬼子といえるかもしれない。
自由を与えてくれるものは神でもなく、宗教でも政治でもない。ひとりの人間が何を思い、何を考え、何を謳い、何を描き、何を見せるかという「生」の表現の中にこそ自由がある。だからこそ思索と表現の土俵においては、誰もが自由であり、平等であり、そこに制限や限度はない。あるのは、行き過ぎた表現に反論し訴える他者の権利と自由、そのための法、そして、そうした自らの表現によって脅かされ失われる平穏があるだけだ。それを良しとするか、避けられるものなら避けるべきと考えるか。どちらが正しいか正しくないかということより、わたしは、わたしが物思う自由だけは失いたくないということだ。
何度もイスラム教徒からの脅迫や攻撃を受けながらも、決して自分が信じる自由を捨てず、銃弾に倒れたシャルリー・エブドの編集長は、自らの結末を覚悟していたような言葉を残している。
「私は報復を恐れない。子供もいないし、妻もいないし、車もなければローンもないから。少し大袈裟な言い方だけど、ひれ伏しながら生きるより堂々と死ぬほうがいい」
並の人間が「何もそこまでやらんでもええやないか」というところまでやらずには気が済まない飽くなき自由への渇望と挑戦。それこそが、フランス人が何より大事に思う、生きる喜び「Joie de Vivre」なのかもしれない。
わたしはこのシャルリー・エブド事件という間違いなくフランスの歴史に刻まれるであろう、フランスの喪失と連帯の瞬間を共にしながら、日本人にとって、これだけは譲れないと立ち上がる「生きる喜び」とは何なのかということを問わずにはいられなかった。その答えを自分自身でつかみ、いつか「自由とは何か」という勝っ手な持論を日本に持ち帰れるようになるまでは、この自由の国の「libérté リベルテ」魂というものにしばらくは打たれながら、時にひれ伏し、時にくちびるを噛みしめながら、生きていくのも悪くない気がしている。
最後に、わたし自身が、ひとりの個として、社会、世界に対してどう向き合うべきかを考えるときに教訓としている文章がある。
フランスの社交界サロンで生き抜くためのルールを綴った、その名も「優雅な生活」というフランスらしいタイトルの本からの抜粋だが、肌触りの違う世間、自分の価値感とは違う世界、自分とは考え方の違う他人との隔たりにどう処するべきかを考えるとき、わたしはいつもこの文章を思い浮かべる。
“ 誰も自分というものの権威や存在が認められていない世界で、どのようにして自分の立ち位置を見定めればいいのか。これはまず、社交界(世界)の多様性を認めてかからねばならない。様々な階級、業界、権力、これらが対立して肩を組み合ったりしているその事実、複雑な絡み合いを面白がって理解できなければならない。そこで物思う自分を発揮できなければ、疎外感と劣等感に苛まれる以外、自分にできることは何一つない。
1件のコメント
自由への妬み僻みが日本人の自己責任。
自分だけの自由が犯されたら一致団結するのがフランス。
僕はそうはおもいません。
個人の自由を尊重するからこその自己責任だし、
相手の自由も尊重するならば、自由主義なんてどうでもよく、単に暴力(テロ)に対する抗議であるのが本当のはずです。
震災と拘束事件の対応の差をおっしゃいますが、
では多川さんは、助け合いの精神が他国で拘束された同胞に向けられたとき、どうするべきだとお考えなんでしょうか。
責任の所在論は二の次として交渉を政府に委ね、人質の解放を祈るのは、フランスでは越えがたい壁を感じるほどの行動だったのでしょうか。
デモ行進して日本人の怒りをテロ組織に伝え彼らを刺激するほうがお好みでしたか。
2億ドルではなく、2億人の署名だったら世界中で署名運動をする篤志家も居たとおもうんですけどね(笑)
たとえ既に死んでいる可能性が高くとも。
フランスの殺人事件と日本人拘束事件、個人主義と自由主義と民主主義、
内容の違うものをごちゃまぜにして見ていませんか。
他人の自由を犯すジャイアニズム的自由についてどう思いますか。
俺が殴りたいから殴ったといった類の自由です。または精神的な暴力について。
「並の人間が「何もそこまでやらんでもええやないか」というところまでやらずには気が済まない飽くなき自由への渇望と挑戦」というやつです。
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