salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-06-14
誰でもよかった 誰もいなかった
大阪通り魔事件

確か小学6年か中学1年の頃に読んだ水上勉の童話小説「ブンナよ、木から下りてこい」。繰り返し何度も読んだとはいえ今は手元にないので、そのストーリーはわたしの中で勝手に脚色・ねつ造され、原作と食い違う点も多々あるかと思われるが、この数日しきりにこの物語を思い返し、いざというときに露見する人間の本性について煩悶しきりである。

主人公のブンナは、意気高い志で仲間たちを引っ張るリーダー的カエルだ。こんなちっぽけな池のまわりをぴょこぴょこ飛び回っていても、広い世界は見えやしない。新たな明日を切り開き、輝く未来へ飛翔すべく、土の中で冬眠する従来のカエルの慣習を打ち破り、椎の木の上で冬を越すという決死のチャレンジに打って出る。椎の木の頂上に上り詰めたブンナは、そこで、トンビの巣に餌食として運ばれてきたモズやスズメやネズミやヘビに出会う。彼らはトンビの巣の中で、もはや座して死を待つしかない弱きものたちである。そして、この弱きものたちは、弱さを盾に「だってしょうがないじゃない」と醜態をさらす。もっとも卑劣なのは「わたしなんて食べるよりカエルの方がおいしいですよ」と、さっきまで仲良く話していたブンナを平気で裏切るスズメである。ビジネス社会で多々見られる“必殺手の平返し”の達人だ。とはいえ、見苦しいのは何もスズメだけではない。
ヘビ、ウシガエル、つぐみ、どいつもこいつも逃れられないわが身を嘆き、明日をも知れぬ仲間同士、何とか一緒に生き延びようと誓い合うのだが、トンビが巣に舞い戻ってきた瞬間、さっきまでの美しい友情、涙はどこへやら、誰も彼もが、他の者を見殺しにしても自分だけは生き延びようと本性丸出しの悪あがきを見せる。

しかしそこに、死に花咲かせる男一匹、待ってましたのネズミが一匹。
潔く腹をくくって「とんびは死んだ獲物は食わない」と自ら死に臨む。ネズミはブンナの目を見つめて言い遺す。「おいらが死んだら、この腹の中からウジが這いでてくるからよ、そいつを食べてお前は生きな。死ぬんじゃないぜ」ケンカで負けて勝負に勝つ。ネズミは、最後まで負けなかったのだ。

そしてブンナは、知るのである。生きとし生けるものたちの弱さと悲しみ、他の生き物を食らって生きる「生命」の残酷さ、尊さ、美しさ、傷つきながら血を流す瀕死の生きものそれぞれの生き様、死に様、覚悟の違いを。

そんな「ブンナ」の物語を、なぜ今頃、語りたくなったのか。それは、先週末、大阪心斎橋で発生した通り魔事件に屈服しがたい救いの無さを感じたからだ。

「誰でもよかった。人を殺せば死刑になると思ってやった」

死ぬ理由も殺す理由も何ひとつ自分で見つけられぬ腹いせか、手当たり次第に人を殺めてそうつぶやくことで、初めて自分という者の存在価値を世に知らしめる機を得るような人間の供述に、わたしは特別、何か重要な意味があるとは思わないし、仮にあったとしても、その内面を深く掘り下げて考えてやるのは弁護士の仕事だろう。ただ、人間は社会的動物、環境の動物と言われるように信じられないほど素晴らしい人物も、信じられないほど卑劣で残虐な犯罪者も、元をたどれば同じ土壌から生まれることは確かである。
「すごい〜、つながってるよねぇ」と、どこかで誰かとつながっている社会の不思議を感じるのなら、こんなやつでもどんなやつでも決して自分とは無関係の存在ではないということも感じなくてはならない。だから、「誰でもよかった」と人を殺すようなこいつも、自分たちの社会が産み落とした鬼子であるということは承知すべきだ。と、こいつに対して今、自分が思えることは、それくらいしかない。

わたしがこの事件に対してどうにも釈然としないわだかまりを覚えるのは、それこそ「誰でもよかった」という犯人の心理を裏付けるように、助けようと必死に動く人間が「誰もいなかった」という事実がどうしても解せないからだ。

犯人は最初の犠牲となった男性に馬乗りになって頭上に刃を振り上げ、振り下ろしていたという。さらに1人目の男性を刺した後、うつろな目でふらふらと通りを歩き、次の獲物を探していた。そこへ自転車に乗ったおばちゃんが犯人の方へ向かってやってきた。目撃者の会社員男性が「おばちゃん、通り魔や!逃げろ」と声を上げると、おばちゃんは「えっ?」とあわてて方向転換して逃げたものの、追いかけてきた犯人に背中を刺され犠牲となった。

無論、これらはニュースの記事なので、実際とは違う部分もあるのかもしれないが、わたしが解せないのは以下の部分だ。
・男性に馬乗りになって、つまりは背中を向けて犯行に及んでいる。
・男性を刺した後、ふらふらと歩いている。
・50mも走っておばちゃんを追いかけている。

これが事実なら、どうにかできたのではないかという疑いは拭い去れない。しかも、おばちゃんを追いかけて刺した後、犯人は再び男性のところに戻ってきている。ということは、その間、誰も瀕死の男性を救出しかくまおうとしなかったことになる。おそらく、現場を取材した記者たちも、同じ疑念を抱いたのではないだろうか。ニュース記事の見出し、文章の端々にやけにとげのある引っかかりを感じるのは、気のせいか。

付近にいた人たちは悲鳴を上げながら一斉に逃げて行った。【毎日jp】
付近には大勢が通行していたが、一斉に逃げ出した。【YOMIURI】
「助けてください」「逃げなあかん!」【朝日新聞】

目撃者の男性は、犯人に追い回されながらも「おばちゃん逃げろ」と叫ぶなど、現場を離れようとはしていなかった。つまり、何とか助けたい気持ちはあったはずだ。ただ1人ではどうすることもできなかったのではないか。
もしその場に数人いれば、何かしらの行動に出られたのかも知れないし、何人かの男性が先陣切って動いている姿に近所の店員や通行人たちも同調し、被害者の救出にあたっていたかもしれない。
実際、池袋の通り魔事件では、刃物と金槌を手にした犯人を通行人男性らが格闘の末、取り押さえるに至っている。秋葉原の事件では、発生当初からすでに警官が出動していたので通行人がどうこうということはなかったが、刺されて倒れた被害者を介抱する通行人・外国人観光客の姿があったことはニュース映像にも残っている。

そらもう狂ったおっさんが刃物を振り回しこっちに走ってきたら恐い。
一瞬、逃げて隠れるかもしれない。でも、わたしはもう目の前で殺されかけている人間を見てしまった。このままここから逃げたらあの人はこのキ○ガイに殺されるだけやということを知ってしまっている。となった以上、もう逃げられないとあきらめるしかないではないか。

走って逃げる間があれば、とにかくギャーギャー叫んで人を呼ぶ。愛車のチャリンコに乗っていたなら、思いっきり自転車投げるなり、全速力で漕いだ自転車から飛び降りて“自走チャリンコ爆弾”を仕掛けるなり、飲み屋の看板やのぼりのパイプで後ろからボコボコに殴りかかるか、まわりの飲食店に飛び込んで、うどん屋の熱湯かトンカツ屋の煮えたぎった油をぶっかけるか、馬乗りになってるそいつの背中に油かけて火ぃつけて燃やすくらいのことはやろうと思えばできたはずではないか。

なぜなら、そこでわたしが息せき切らして命からがら逃げられたとしても、それを見たわたしはただ逃げたとはもう言えない。見捨てて、見殺しにして自分だけ逃げたのだ。結局は、その場の恐ろしさかその後のやましさか、どっちが耐えられないかということだ。

逃げるも助けるも、いざとなったら自分はどうするかなんて、その時になってみないとは誰も分からない。その人間の行動原理は、日々、口にしていること、思っていること、考えていることの積み重ねだ。だから、自分はどうするか決めること、そのつもりだと言っておくことが重要なのだ。
はっと倒れている人を見た瞬間「大丈夫か!」と駆け寄る。
突然聞こえた女の悲鳴にとっさに鍋やフライパン、傘に箒、農家であれば鋤、鍬を手に外へ飛び出す。
あっとホームに人が落ちた、川に子どもが流されている。誰かが誰かに殴られている。
そういうただならぬ場面に遭遇した瞬間、救出のアクションに出られるかどうかは、常日頃から「自分はそうする」とイヤでも決めていないと、そういう想像力を働かせていないと、いきなりパッと決断できるわけがない。

そうした最近の日本人の危機意識の乏しさについては、日本のラストサムライ・藤岡弘も大いに嘆き、身をもって警鐘を鳴らしているところである。藤岡弘は、渋谷のセンター街を歩いているときでも、頭上の看板から毒蛇が落ちてこないか、足もとにヒルが吸い付いていないか、背後に聞こえるキャーという女の声は何だっ、人食い族か!? という具合に、そこが仮にジャングルとは程遠い雰囲気を醸す青山表参道、はたまた伊勢丹メンズ館であったとしてもだ。クェークェーと鳥か獣か、不気味ないななきが響き渡る、一寸先に何が現れてもおかしくない密林の奥地へ分け入っている自分を想定しながら、ショッピングを楽しむ。
そういうどこか逸脱した、世間が考えるそれとはかけ離れた、おかしいんじゃないかみたいな思考やイメージを日常的に繰り返すことで、狂った日常に出くわしたときでも「来たか!」と起動する何かが自分の中に養われるものではないだろうか。

その場になったら恐くて動けないかも。自分が殺されたらイヤだし。誰も死にたくなんかないし、やっぱ逃げるのがあたりまえでしょ?知らない人のために巻き沿いになるのは御免だよね。ケンカの仲裁なんかして、自分が死んだら元も子もないし・・・・

というようなごくごく自然な心の振る舞いを許した時点で、自分などおしまいだとわたしは思う。「そんな自分の弱さも受け入れて、抱きしめてあげましょう」みたいな腑抜けた自然体の平和主義者は、目の前の人間ひとり、犬猫一匹守れず、ただ恐くて逃げてしまった自分すら抱きしめろというのか。

椎の木の上で生と死を見つめたブンナは、父をトンビに母をヘビに食われひとりぽっちで泣いていた幼い日、長老蛙の爺さんに言われた言葉をあらためて思い出し、心に刻む。
「この世は弱肉強食だ。蛙はヘビやトンビやネズミの餌食になる生きものだ。だからお前は蛙として、蛙らしく、いつヘビやトンビにつかまっても
見苦しくないように連れて行かれる心ができていなければならない。
ブンナよ、覚悟を持て」

自分がいる今この場所で、人が刺されている。それは蛙がヘビに睨まれたら動けないように、自分も逃れられない何かにつかまったと覚悟する他ないではないか。そこで逃げるということは、天に向かって命乞いしているも同然だ。見苦しいスズメやヘビと同じになる。しかし彼ら生き物は、仲間が連れ去られても助けることはできない。でも人間はできる。手が使える、道具が使える、協力して立ち向かえる。

あの場で、あんな狂気と恐怖の現場を見たら足がすくんで逃げるのが精一杯。下手に助けに行って殺されたらどうするのだというのがわかりきった世の現実だというのなら、いったいどこに人間がいるというのか。わたしは、わからない。

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2件のコメント

(何度も送信できなかったので、お試しコメントです。)
かつて黒澤明監督の「七人の侍」という映画のなかで、侍たちの首領がこう言います。「今この時代にあって侍とは何なのか?」もはや役立たずの存在。

by kantakiho - 2012/06/24 3:10 PM

これ、すごく難しい問題だと思う。そういうシーンに出くわした場合、究極の選択を迫られる。
つまり、危険を承知で目の前の人を助けるか、命からがら逃げてしまうかだ。
もちろん理屈の上では助けるべきだ。10人居れば10人共にそう思うだろう。
だけど、その場になった場合、果たして何人の人が助ける行動を取れるだろう?
甚だ疑問だ。これはやはり藤岡さんのように常日頃から、そうした状況をシミュレーションしながら行動していないと、とっさの判断ができないのかも知れない。
「誰でも良かった」という大量殺人鬼のコメントが珍しくなくなりつつある昨今、明日は、いや今日は我が身に降りかかってくる可能性かあるのだ。
一歩外に出たら何が起こるか分からないということを肝に命じて常に危機意識を持ち続けるほかに方法がないのかも知れない。
僕の言っているのは、殺人鬼に立ち向かう方法であり、殺人鬼の餌食になっている(なりかけている)被害者の救助方法ですよ。
街中には至るところにAED設置のステッカーがあるから、常に把握しておくのも大事でしょうね。
あの…君子危うきに近寄らずの例え通り 一目散に逃げましょうということではありませんのでお間違えなきよう。く難しい問題だと思う。そういうシーンに出くわした場合、究極の選択を迫られる。 つまり、危険を承知で目の前の人を助けるか、命からがら逃げてしまうかだ。 もちろん理屈の上では助けるべきだ。10人居れば10人共にそう思うだろう。 だけど、その場になった場合、果たして何人の人が助ける行動を取れるだろう? 甚だ疑問だ。これはやはり藤岡さんのように常日頃から、そうした状況をシミュレーションしながら行動していないと、とっさの判断ができないのかも知れない。 「誰でも良かった」という大量殺人鬼のコメントが珍しくなくなりつつある昨今、明日は、いや今日は我が身に降りかかってくる可能性かあるのだ。 一歩外に出たら何が起こるか分からないということを肝に命じて常に危機意識を持ち続けるほかに方法がないのかも知れない。 僕の言っているのは、殺人鬼に立ち向かう方法であり、殺人鬼の餌食になっている(なりかけている)被害者の救助方法ですよ。 街中には至るところにAE

by Kサン - 2015/01/04 3:56 PM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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