salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2012-12-12
極私的 あの選挙は何だったのか・・・

今年も光陰矢のごとく、あっという間に過ぎ去った時の速さに、ここにきて寝耳に水とのけぞりおののく師走の候。とくに今年は総選挙が控えているせいか、いつになく年の瀬の感に乏しい。そろそろお開きにしましょうかという段から、「さあ、飲むぞ!」と本格的に勢いづく間の悪いヤツがいるが、つくづく政治家のやることというのは、かくも世間の人々の心情とはズレたものなのかもしれない。

何しろこの寒い寒い冬の最中、厳しい朝の冷え込みも人々の冷たい視線ももろともせず辻立ち演説やらビラ配りやら、足早に通り過ぎる人々に「どうか、どうか」と哀願懇願の限りを尽くす候補者の姿を見るにつけ、いい意味でも悪い意味でも「えらいなぁ」と感心させられる。というか、政治家議員という仕事には、そこまでしても余りある魅力とうま味があるのかと勘ぐらずにはいられない。でもまあ、普通の人間が「何をそこまで・・・」と理解できないダイナミックな思想信条、エキセントリックな思考根性があればこその政治家なのだろう。でなければ、一般の感覚とかけ離れた政治などできようもない。

とはいえ今週末は、いよいよ日本の新年を占う総選挙の投票日。こうなったらどこがマシか、我慢できるか、もしあかんかったとしても痛手が少ないか、許せるか、考えれば考えるほど途方に暮れる究極の選択を前に、今回お届けするのは、それより何より次元の低さが目に余る、我が一族の衆愚丸出し選挙戦物語。37年前の、あの選挙は何だったのかー。

そう、あれは確か、わたしがまだ幼稚園の年長で5歳か6歳の頃。突然、母方の長女の叔母が市会議員に立候補することになり、何のことかわけがわからないまま一家総出の選挙ウォーズに巻き込まれたわたしと弟は、選挙が始まるや母親に連れられ、叔母の家で寝泊まりすることになった。その頃はまだ両親は離婚しておらず父親も居たのだが、この父親というのが6畳・4畳半2間の長屋の家の6畳の大広間を「パパの部屋」と独占するほど、個の空間・時間を重んじる人だったので、うるさい女房子どものいないひとり暮らしが満喫できることがよほど嬉しかったのだろう。自然に機嫌よく送り出された覚えがある。

その叔母の家には、わたしと同齢の長男と14歳年上の長女・京子ちゃんがおり、京子ちゃんは重度の知的障害児だったので、つねに家には「京子の子守り」としてシフト体制で面倒を見ている叔母の子分的なおばちゃんたちが2〜3人住み込んでいた。それに加え、選挙中ともなると後援会の人やら選挙応援のスタッフやら、見知らぬ大人が四六時中大勢ガヤガヤ家の中を動き回り、連日泊まり込む人もいたりして、つねに「この人誰? これ誰や?」の疑問が渦巻く生活だった。

わたしたち子ども部隊は、ポスターの束やビラの山を四隅に寄せた6畳間の真ん中にふとんを敷いて寝るのだが、毎晩隣の部屋から聞こえてくる大人たちの悪そうなヒソヒソ話、時折起こる爆笑の声に意味も分からず興味津々、興奮して眠れなかった。すると突然、パッとふすまが開き、
「すっかり寝たな」
「うん、寝た」
「起きとるがな」ギャハハハハ
というベタなやりとりも気に入って、毎晩夜更かししては幼稚園もずる休みしていた。が、別に誰にも叱られず、ほったらかし。子どものことなど構ってられない大人たちの戦況は、子どもにとってはそれはそれで自由な楽園でもあった。

そんな中、目を見張る変貌と活躍を見せていたのは、ウグイス嬢に扮した母親である。選挙はもちろん、選挙カーに乗るのも、町中を走り回って鳴いて聞かせるウグイス嬢など生まれて初めての母親だが、生まれつきその気になりやすい性質が、人前でマイクを握った瞬間、ここぞとスパークしたのだろう。候補者の叔母もさることながら、その鬼気迫る闘志とやる気は日に日に高まり、選挙運動の方針にまでガンガン口を挟む勢いで、選挙カーの中では叔母と母親の壮絶な姉妹バトルが「今ここで?」というタイミングで繰り広げられていたらしい。

実際、母親のウグイス嬢ぶりは、選挙後、自民党からスカウトが来たほど好評だったようだが、肝心の選挙の結果は落選だった。ボクシングの勝者と敗者じゃないが、当選者と落選者の光と影のコントラストもそれに近いものがある。選挙で当選すれば万歳三唱、だるまの目入れに樽酒の鏡割りと祝杯ムードいっぱいのめでたさだが、落選した候補者のあの重苦しくみすぼらしく情けない敗北感だけは二度と味わいたくないものだろう。5歳の自分には落選の意味は分からなかったが、その「笑われへん」事態の重さ、まずさは、子どもといえどもイヤでも分かるものである。

落選後のあの暗く沈んだ空気。京子ちゃんの子守りのおばちゃんたちの鈍い動きに炸裂する叔母の凄まじい八つ当たり。そんな不穏な家の空気を誰より敏感に察し、大好きな沢田研二・ジュリーのレコードを大音量でかけながらワーワー暴れまくる京子ちゃん。そんな京子ちゃんを怒鳴りつける平素は寡黙で無口で影の薄い叔父を「京子を叱るな!」と怒鳴りつける叔母。さらに荒々しく逆巻く波の間に間に勃発する叔母VS母、女の戦い大一番。何が何だかグチャグチャな感情のぶつかり合いに、2週間の選挙戦で見事に荒れ果てた部屋の汚さが相まった情景は、さすがに小さい頭では受け止めきれずショートしたのだろう。風邪でもないのに突然発熱し、「姉ちゃん、帰らせてもらうわ!」という母親におぶられ、やっと家に帰れたことを憶えている。

母親が生きていた頃は、総選挙の開票をテレビで見ながら、あのときの選挙についてああだったこうだったと「自分たちの話」で盛り上がったものである。母親が言うには、選挙というのは、一度やったらやみつきになる魔物のような魅力があるらしい。「選挙はな、選挙カーで回るのが一番楽しいんよ。手を振って応えてくれる人、応援してくれる声に、自分でも信じられないような力が湧いてくるあの感じ、あれは舞台に立つような興奮やわ。1回味わったらやめられへん」と、舞台など立ったこともないくせに、立ったことがあるようなしたり顔で、あげくに「代議士の妻になりたい」などと、どこまでも意欲的に見果てぬ夢を語っていた。

片や当人の叔母は、その後も色んな政党や組合団体から立候補の引き合いがあったようだが「うちはもう選挙なんか2度と出えへん!」と、物凄い剣幕で懲りていたようだ。とはいえ、この叔母という人は、恐ろしくプライドが高く、あからさまに自己顕示欲の強い曲者だったので、分不相応な選挙になど出てしまった「自分」に対する後悔や自己嫌悪からではなく、単に「落ちた」という事実が気に食わなかったのだろう。その後もずっと亡くなるまで「政治絡み」の人脈活動を生業に、お金の流れが全く見えない派手な暮らしを続けていたところを見ると、懲りない人は死ぬまで懲りないものだと、つくづく痛感させられる。だから、これがまかり間違って当選などしていたら、どんな金と権力のバケモノになっていることかと、叔母をよく知る身内や身近な人々は口を揃えて「落ちてよかった」というのが、わが一族の「あの選挙は何だったのか」の総括である。

後々、聞いた話によると、叔母はいわゆる「刺客候補」で、自民党の大物衆議院議員が自分の秘書を市会に送り込むために、有力候補のライバルの“票を割る”目的で、頼み込まれての出馬だったそうだ。ただ、なぜ、そんな衆議院議員から「刺客」に指命されることになったのか、何かにつけて「うちゃあ(うちは)、その日は会があるから」と言っていた「会」とは、いったい何の会だったのか、叔母も母もすでに鬼籍に入った今では、すべては謎のままである。
今でも、総選挙投開票日の特番で、落胆する間もなく引きずり出される落選候補者のこの時ばかりは疑う余地のない沈痛と憔悴の面持ち、そして誰も居なくなった事務所の白々しさ、選挙応援の垂れ幕やビラ、ポスターが空しく散らばった光景を見ると、あのときの選挙の記憶がよみがえる。そして「ああ、この人の家も、今からこれからが修羅場やな」と、なぜかほくそ笑んでしまうわたしである。

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1件のコメント

申し訳ありません。前の、コメントは削除してください。誤字や脱字だらけで、変換間違いもありますし、物書きの隅っこにいるものとしては、とても恥ずかしいです。
久しぶりの多川さんのコラムにいささか興奮していたのかもしれません。
よろしくお願い申し上げます。

選挙は難しいです。彼ら、彼女らの「就職活動」の必死さはわかるのですが、政治には「熟練」と「技術」が、必要だと思うのです。
「意欲」や「勢い」だけでは、国民としてはなんだかな、と思うところです。

by 株彦 - 2012/12/13 11:32 AM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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