2011-03-21
大震災から10日が過ぎて
大震災から10日。仕事をしていてもどうもザワザワと落ち着かない。コラムの更新も滞っていた。書くには書いた。でも書き上げては直しの繰り返し。震災2日目のコラムでは、自分に何ができるのかを思い詰めた内容。震災3日目のコラムは、ツイッターに溢れる人々の思いを取り込み過ぎてしんどくなった自分について。その後は、絶望に屈しない日本という国を信じたいというようなことを書いたりしたが、翌朝読み直すたび「だから、なんやねん」とムカついた。自分は今何を思い、何に迷い、何を見つめているとか、今こんなときにおまえの気持ちなんかどーでもええわ!と張り倒したくなるようなことを真顔で真剣に書き綴っていたのである。深刻なことを深刻に、胸が痛むことを痛むままに、あたりまえのことを大層な顔で出す。自分がもっとも嫌いなことをどさくさに紛れてうっかりやってしまうとは… 。それほど平常心を失っていたということだ。TVの見過ぎは、確かに頭がおかしくなる。
誰もがおかしいと感じているといえば、ガソリンや食料品の買いだめだが、あれはおかしいというかあさましい。買いだめの心理は不安や心配の解消のようだが、売れている物にこぞって群がる日本人特有の食べるラー油的な集団心理もあるように感じる。みんなが買っているからわたしも!と買いに走るのは、正月2日にデパートの開店前から行列して福袋めがけて突進する、質流れブランド品大放出セールに遠方から張り切って駆け付ける、あるいは花畑牧場のソフトキャラメルなど今流行りのおいしいモノを食べるためなら長蛇の列もいとわない、悪い意味で苦労を苦労と思わない人々だったりするんじゃないかと、睨んでいる。
さらにもっと奥の方には、したくはないけどそうせざる得ない人もいるのではないか。万一、非常事態が起こっても誰にも頼れない。すぐさま寄り合い、助け合える人がいない都会の単身生活者や核家族であれば、自分のことは自分で守るしかない。適度な距離感を保ちながらプライバシーには踏み込まない都会的な人付き合いは確かに心地よく快適である。でもそれは平穏無事な日常があるからであって、いざ何か事が起これば、人は一人では耐えきれない。今まで感じたことのない孤立感もまた、人を「買い」に走らせるのかもしれない。
わたしは、「買い」には走らなかったが、「しゃべり」に走った。なぜなら、何がどうなるかわからない非常事態で通常の自分を保つには、人との会話が不可欠だ。Twitterのつぶやきで共感することはできても、それで気が紛れることはないし、声を出して笑うこともできない。自分の中に、ただならぬ不安や不穏な思いが充満してくるとき、それを誰とも話さず溜め込んだまま、頭の中でぐるぐるめぐらせ、1日、2日と処理できないまま過ごせばよほど特殊な訓練を受けた人間でない限り「いつもの自分」ではなくなるに決まっている。非常事態というのは、通常レベルをはるかに超える相当量の感情・思考・気持ちが一気に自分の中に充満してくるわけなので、これらを何とかクチに出して外に出してやらなければならない。そうしないと、起こっている現実以上に、ただひたすら深刻な自分になってしまう。
戦後最大の国難と言うべき今回の震災は、見方を転じれば、日本の誰もが深く心を寄せる関心事といえる。これほど皆が思い、案じ、話せる共通の現実を持ち得たのは先の大戦以来のことではないか。初対面の人でも、ちょっと苦手な同僚でも、何を考えているのかわからない取引先の担当者でも、誰とでも話せる話題があるというのは、今は「話すこと」に意味がある時期なのではないか。ということは、募金・節電以外に、毎日できることといえばトークだ。
今日も帰りのコンビニでレジの店員に軽くしゃべりかけた。
「商品の棚も元通りに戻ってきたみたいですねえ」
「そうなんです、昨日ぐらいから。それほど買う人も少なくなってきたので・・・」すると後ろに並んでたおっちゃんが「商品は普通に入荷してるんでしょ?」と割って入ってきて、わたしが店を出るときもまだ店員の女の子と話し続けていた。そう、誰でもみんな話したい。こういうときは、そういうもんよ。
2件のコメント
自分は、出来る事だけ、精一杯する!
東北人!ガッツ出して、頑張れ!
人生いろいろある!今までも、これからも!
少〜しずつでも、結果 前に歩ければ、それでいいと思う!
この場を借りて、応援させてもらいました…
秀虎さん
コメントありがとうございます。
応援のことばに、私まで励まされました。
コラム仲間のuomiより。
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