2010-10-29
売り手も買い手も
恋愛商売、信じてナンボ。
ちょっと引っかかる話を聞いた。どうも最近、友達が行きつけのバーでは、彼女などできそうにもない変わりもん、クセもん、ひねくれもんの男に、気立てのいい彼女が現れ、難なくつきあうに至るケースが後を絶たないらしい。何が引っかかるのかというとその逆のケースはまずないからである。
たしかに男性の場合、多少屈折してひずみのある性格でも、それなりにややこしい過去や面倒な荷物があったとしても「おれなんか」と後ろに隠した手をぎゅっと握ってくれる救いの女性が現れる。しかもすんなり恋愛関係に発展し、取り立てて何も言うことはないふたりに仕上がっていく。なるほど、結構な流れである。何度もしつこく繰り返すと、わたしが知る限り、その逆はほとんどない。これはいったいどういうことなのか。
ここ数年、「いい人に出会えてよかったなぁ」と修まるところに収まった友人知人は、すべて男性。女性の友人知人から聞こえてくるのは、まったく何もないか、あっても何もないか、成るようになることがどういうことか見当もつかないか、とにかくどうとも言えない複雑な話ばかり。なぜ、男はそれなりに片が付くのに、女はその目処すらなかなか立たないのか。
どうもこの男女の逆転現象は、草食系とか肉食系といった表層的なトレンドではなく、深い川を挟んで立つ男と女の立ち位置そのものが逆転した関係性の大転換と見ていいのではないか。となると、風俗ヘルス的な意味ではなく、一般的にヘルシーな恋愛の場における買い手は、じつは男性ではなく女性の方だということ。それなのに、うっかり「売り」の気分でいたりするから、今日の女性陣は思わぬ苦戦を強いられているのではないか。わたしたちは若かりしときに、自分から積極的にアプローチなどしなくても、獲物を狙う狼が「どこ行くの?」と迫ってくる今が盛りの祭りの時期を知ってしまっている。その名残りで、中途半端な売れっ子意識が抜け切れないでいる。それゆえ、月日が流れ、時代が変わり、売り手から買い手へと自分の立ち位置が変わったことになかなか気づけない。わかっているつもりでも、わかっていないのかもしれない。そういう意識の問題も、うまくいかない原因のひとつにあげられるかも知れないが、重要なのは、売り手と買い手の違いを認識することである。
男が売り手で女が買い手。それはいったいどういうことなのか。
たとえば、ここに、リストラされた仲間数人と住宅リフォーム会社を経営することになった38歳の男性がいる。不景気の波にもまれまくって生きてきただけに、生き方そのものはネガティブで皮肉屋なところがあるが、それだけに屈折した視点から繰り出される持論や意見はなかなか鋭くユニークで、一緒にいて楽しいと思える貴重な存在である。おそらく男性の方も自分に好意を持ってくれている。そして、自分も好きである。それならつきあえばいいじゃないかといっても、これがなかなか一足飛びには進まない。なぜなら、男の気持ちが、売りたいのか、売りたくないのかわかりづらいからである。
「今はまだ取引先も定まらず、給料も前職の半分ほど。この先の会社をどう運営していけばいいのか、毎月の支払いや返済やら、今は仕事のことで頭がいっぱいでとても恋愛どころじゃない。きみのことは嫌いじゃないし、一緒にいて楽しいし、こんな自分のしんどいこと誰にでも言えるワケじゃない。でも今、僕とつきあってもきみもしんどくなるやろうし……」
そんな優柔不断で煮え切らない返しのどこが「売り」なのか。どこに売る気があるのかと、買い手の女性としては、わけがわからなくなるところである。が、それが実は「売り」なのである。
僕は何かとややこしいものを抱えているからやめておいた方がいいと思う。その言葉だけ見れば「やめとこか」となる。しかし、この後に「けど、どうします?」という無言の売りが隠されているとしたらどうだろう。
「お客さん、これが今の流行りですわ〜」じゃないけど、これが今の男たちの誠実な掛け値なしの売り方だとわたしは思う。
村上春樹の小説に出てくる主人公も、女性に対しても人生に対しても完全に受け身。ひと言でいえば、何も決めない、誰も拒まない、まったく無理をしない男である。
まちがっても「幸せにする」とか「一生不自由なく面倒を見る」とか、そんなできるかどうかわからない約束は絶対しない。正直に素直に今ある気持ちを見せた上で、最終的な判断は相手に委ねる。
何を訊ねても「それはもうお客さま自身がどうお使いになられるのかということでして・・・」とイライラするヤマダ電機の店員のごとく、根っからあなたまかせの商売人なのである。
そんな男性の「売り」を見て、「これにします」となるか「ちょっと色々見て考えます」なのか、そこは買い手の女性次第。いずれにしても、買い手の女が「どうしよう」と迷っていては、始まるものも始まらず、成るようにも成らないということである。
人の恋愛、心と心のつながりを売り買いにたとえるとは不謹慎だと思われるかもしれないが、わたしは、人と人との気持ちのやりとり、信頼関係の本質は「商い」にあると思っている。大阪商人は、何をもって取引を行ったか。それは「金」ではなく「信用」である。江戸時代、幕府公認の通貨は「金」であったが、大阪の商いはすべて「銀」で行われていたという。「金」であれば1枚、2枚と大判小判を数えれば済むが「銀」は、一粒、一粒秤にかけてその重さを量らねばならない。なぜ、大阪の商人たちはそんな面倒なことをしたのか。それは、いくらいくらと差し出した客の言葉を信じてお売りする、人を見る眼と人を信じる心が「商いの命」であると信じていたからである。
たとえ恋愛といえども、信じてなんぼの人間商売。
早い話が、贔屓にされるのは男の方、引き立てるのは女の方ということである。そう考えると、買い手の女がなぜここまで苦戦を強いられるのかも察しがつく。なんせ、自分が気に入る店を見つけるまでにひと苦労。そこからお金も時間も費やして、格別の信用を得るまでにもうひと苦労。
人と人との商いは、ほんまにえらい難儀なもんどす。
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