salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2010-11-8
今さら、今こそ、家族の絆。

年間どれくらいの本数を観れば「映画好き」といえるのかわからないが、自分の頻度、量、動機を考えると、好きは好きでも今すぐ押し倒したい(されたい)というほどではない友達以上恋人未満、医者で言えば「様子を見る」みたいな大したことないレベルである。

基本的に「映画を観る」のはもっぱらレンタルDVD、映画館に足を運ぶのは2〜3年に1度のご無沙汰野郎。だから、わたしが映画館に行くということは、よほどの衝動にかられたというときに他ならない。「DVDでいいか」と頭では理解できても、この体が黙っちゃいない!そんなときである。しかもその焦点は、つねに3つのジャンルに絞り込まれている。1つは、凄まじい爆発、破壊、暴力を全身で浴びずにいられない戦争アクション物、2つ目は救いなき絶望に打ちひしがれる残酷で悲惨な現実、冷酷非情な人間ドラマ。そして3つ目は氷壁、絶壁、遭難、生還、人間の極限に挑む山岳物。

近年、自分が映画館で観た作品を振り返っても、そのブレのない方向性が見て取れる。古い順に「男たちの大和(’05年)」、「闇の子供たち(’08年)」、「剣岳 点の記(’09年)」…
ひとことで言えば「やぶれかぶれ」「やりきれない」「やったるで」。
わたしの生き方、どうか? 三本立てである。

とまあ、どう高く見積もっても「映画」を語るような感性や知識があるとはいえないわたしではあるが、毎月、ある会報誌の仕事で「映画紹介」を書かせていただいている。とくに批評や感想を求められるわけではなく、あらすじ紹介だけなので、どうにか事なきを得ているわけであるが、この半年間、洋画邦画も含め、とくに目立つのが「家族の絆」をテーマにした作品の多さ。いったいこれはどういうことなのか。映画だけではなく、小説、ドラマ、CM、広告、雑誌、そして24時間テレビなども、ことさら「家族」「絆」の大切さが語られ、叫ばれる時代とはどんな時代なんやと、はたと考えさせられるわけである。

家族とか、絆とか、人が人としてあたりまえに感じて生きられるはずのものを、ことさら「大切」に見つめ直さずにはいられないというのはどういうことなのか・・・。というようなことを、ぽつりとツイッターでつぶやいたところ、こんなお返しが。

「組織として一番小さい単位が家族だからかなと…。嫌いでも切れないし。小津、向田作品はだいたい家族がうるさい位にテーマです。昔、大阪の万博に行く家族の映画ありましたよね。あれいいです。暗くて」

ほんとに、そうだと思う。人が生まれて「人を知る」のは親であり、家族である。生きて在る根っこは親子、家族。わたし自身もそうである。あらゆる自分の感情、大切に思うこと、人の好き嫌い、人に求めるもの、人にしてしまうこと、何を失ってもこれさえあればいいと思えるすべて、何からきているかといえば、遠い記憶の中にある母子3人の生活でしかない。それはもう自分が自分であるルーツであり、切っても切れない、捨てようにも捨てられない、死ぬまで自分の中にあり続けるものだと思う。
小津作品、向田作品はもとより、古今東西「人とは何か」を静かに深く問い直す文学作品の多くは家族の物語であることは確かにそう。が、それらが物語る「家族」は、現代の人々が求めてやまない「家族の絆」とは、何か方向性が逆に思えるのである。

家族をテーマにした小説、映画の中で、自分がこれまで深く揺さぶられた作品で描かれていたのは、決して、幸せや救い、帰る場所としての家族ではなかった。時の流れ、時代の変化、子どもの成長によって変容し乖離していく親と子の姿、親の思いに応えられない子どもの葛藤、今の自分の生活を守らざる得ない兄弟姉妹のエゴ、血の繋がった肉親ゆえの愛憎入り混じった悲哀と孤独。
それはいつか出て行く場所、二度と戻れない時間の象徴であり、どれほど愛し愛されたとしても、いかに血の繋がった者同士でも、互いの心はわかりあえない絶対の宿命を痛切に物語るのが「家族の絆」だったと思う。
どうしようもない、あきらめるしかない、でも思い出すと涙が出る。けれど、しかたがない。

「家族」という言葉にわたしが思うのは、どうやっても抜きがたい、まさに血と骨である。

だからこそ、それを抜きたい、そこから出たい、そんなものに縛られて自分の人生を失いたくないと、外へ、外へ、自分の居場所を求め続けてきたのだと思う。それはわたしだけではなく、それこそ親の世代を見ても、昭和の日本人はみなそうやって、親の苦労や貧乏臭さ、親戚兄弟の煩わしさ、狭苦しさを忌み嫌い、自分はそんなちっぽけな人生はごめんだと、ここまで来たのではないだろうか。
自分は自分の人生を自由に生きたい。自分以外の何かの犠牲になるような生き方だけはしたくないと。でも、自分の人生なんてどこにある? 今の自分の生活のどこに自由があるのか?

わたしは今にして痛切に思わされる。親の姿にそうはなりたくないと思った自分の浅はかさ。人生半ばを過ぎても尚、我がことだけで精一杯な自分の不甲斐なさ。自分の親が「自分」などないも同然に必死で働き、必死で子どもを育て、決して余裕やゆとりがあるわけではない毎日の中でも、他人のことを心配してあれやこれやと世話を焼き、身近な者同士、肩寄せ合って生きていたあのときの親たちの生活。そこに確かにあった人間同士の絆というものを。

だからこそ、「メガネ、メガネ」じゃないが、「キズナ、キズナ」と見えない何かを探し回るのか。一度は要らないと捨て去ったくせに、結局、自分はそれなくしては生きられない者として。

辛いのは、苦しいのは自分だけじゃないと思える居場所は、人と人との間にしか生まれ得ない。「ひとりではない」と信じられる人、場所、時間、それこそが家族であり、人が人として生きられる確かなものは人にしか得られない。けれどわたしは、確かな家族の絆は、戸籍上の家族であることが前提ではないと思っている。その人間が生まれ育って生きてきたある一時期の運命共同体が、家族といえば家族であり、それは血がつながっていようがいまいが関係なく、人の心に根ざすものでしかない。
そういう自分の考えもまた自分が生まれ育った環境に根ざしたものであるが、家族の幸せ、大切さ、それこそ母になる喜び、産む幸せなどという生物的な血のつながりを前提にした幸福イメージの訴求には、甚だ不快なものを感じてならない。それがどうだと言うわけではなく、人としてあたりまえのことを、さも重大な発見みたいに騒ぎ立てるなと言いたいのだ。人間の絆なんて、そんなもんじゃないという怒りを込めて。

腹を痛めたわが子でなくても、自分を産んだ親でなくても、血を分けた兄弟姉妹でなくとも、息子、娘、オヤジ、アニキ、おかあちゃん、姐さんと呼び、守り育て、慕い従えるのが人間の心であり、人間の絆であるとわたしは信じて疑わない。人が人を求める限り、いくつになっても、自分で産めなくても親になれるし、共に暮らす生活と時間によって、そこに居る人間たちは家族になれる。大切に見つめるべきは、見ようとしなければ見えない方の「絆」であって、わが子の可愛さ、家族の楽しさ、帰るべき家族などというあたりまえのことではないはずだと、結婚もせず子どももいない自分が何を言ってもひがみ妬みにしか聞こえないかもしれないが、どう思われてもどうでもいい。ただ、わたしはそう思うのである。

たぶん、今の若者は、すでにそちらの方向に向かっているのかもしれない。なんせ見知らぬ者同士で住居をシェアし、お金もモノも、みんなで出し合い分け合って生きて行けたらそれでいいというのが今の20代の幸せの価値感だという。あと何十年後、それこそ自分が80歳か、この世を去った時分には、身近な夫婦所帯が何組か集まって住まい、互いの稼ぎを分配し、助け合って暮らす、新世紀「村」社会ができあがってるのかもしれない。まあそうしないと生きていけない日本になっているのかもしれないが・・・。

でも今、世の中が「家族の絆」をことさら「救い」のように唱えるのは、だんだんそういう時代になっていくぞ・・・という時代の予兆。あるいは、結婚なんて家族なんて邪魔なだけ、もっと高く、もっと遠くへ、もっと豊かにと枝を伸ばし、葉を生い茂らせてきた季節の果てに、枯葉が根っこに帰る自然の心持ちか。どっちも、そういうことやろな、たぶん。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

1件のコメント

家族といるときの自分がもっとも傲慢で、そんな自分の「素」がいやだったりもして。だからひとりなのか…。うーん、いろいろ考えさせられるなあ…

by 魚見幸代 - 2010/12/10 10:56 PM

コメントする ※すべて必須項目です。投稿されたコメントは運営者の承認後に公開されます。


コメント


Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

そのほかのコンテンツ