2011-08-14
善意の受難、送り火騒動。
祇園祭りと並ぶ京都の夏の風物詩として全国に名高い「五山の送り火」。
その起源は今以て定かではないそうだが、京の都に古くから伝わるしきたりであるといわれれば、それが何より由緒ゆかしき伝統を物語るものであり、誰がいつどこで何のために始めたとか、あの「大」の字にどんな意味があるとか、そんなことは京都を知らない「よそさん」には言うてみたところでわかるはずないのだから、知っていてもやんわりはぐらかすのが京都人のやさしさである。だから、京都観光協会などのHPに「五山の送り火の起源については未だ確かなことはわからず・・・」と書いてあったとしても、鵜呑みに油断できないのが奥深き京都のややこしさかと心得ている。
送り火そのものは、盆の翌日(盂蘭盆会)に行われる仏教的行事で、この世に戻ってこられた先祖の霊が無事冥府(死後の世界)にお帰りになるようかがり火をたいて送るという日本土着のお盆信仰になぞらえたもの。思うに、かがり火をたいて先祖の霊を送るにしても、松明掲げて提灯持ってぞろぞろ歩くのは、平民庶民のお盆スタイル。おそらく、それを見た平安貴族は「あの者たちのしていることを麻呂たちは麻呂たちのやり方でやってみたくおじゃる」か「やらせてたもれ」か、そのような貴族らしい雅やかな発心で、京の山を燃え立たせる大胆不敵なスケール感、まるでミステリーサークルのようにスペクタクルな妖しさ満開の火文字アートが完成・実現したのではなかろうかと、勝手に想像して見るもまたよし。
ということで、「五山の送り火」にまつわる今回の顛末、いや不始末である。騒動の流れはおよそご存知のことと思うが、ざっと振り返ってほじくり返してみることにする。
6月中旬:大分県の美術家さんから、東北被災地「高田松原」の松を送り火に使ってはどうかと発案が寄せられ、計画が持ち上がる。
7月:「せやけど念のために」と京都市が現地の松の放射性物質検査を行う。この時点では放射性物質は検出されなかったことから、被災松を五山の送り火として受け入れることが決定。
8月4日:それを知った市民から「京の都が放射能で汚染されたらどないしはりますの!」みたいなクレームの火の矢を浴びせられた大文字保存会。「人心の不安を消すようなことはできしません」と一転、中止を決める。
8月6日:保存会理事長が陸前高田を訪れ、謝罪。しかし、それではあまりに申し訳が立たないので、一本一本の薪に記された遺族たちの願いを撮影し、それとは別の薪500本に書き写し送り火で燃やすことで堪忍していただく。(被災者が慰霊の想いを書き記した薪は陸前高田で迎え火として燃やされた)
8月9〜11日:すると今度は、中止への抗議クレームが殺到。「被災者の心を踏みにじった」「京都市民として恥ずかしい」と非難の砲火が燃え盛る中、「燃やしたほうがええのんやないやろか、燃やさんほうがええのんやないやろか」、と約五時間におよぶ協議の末、被災松を受け入れ、中止の中止が決定。
8月12日:ところがまさかのどんでん返し。「送り火」で燃やすはずの高田松原の薪から、放射性セシウムが検出される。京都市長は「放射性物質が検出されないことを前提とした決定である以上、使用を断念せざるを得ない」と被災者並び関係者に深く謝罪。一度ならずも二度までも東北被災者の方々に悲しい思いをさせてしまったことに対して京都五山送り火連合会会長も「誠に申し訳なく言葉もない」とうなだれた。
というのが、高瀬川のしだれ柳のようにゆらゆらとしどけない京の送り火迷走劇の一部始終。保存会の方々が言葉もないのと同じく、傍で見る者も「何とも言えない」としか言いようがない。
「放射能に汚染されていないことが前提である以上、お断りするより他致し方ない」という京都市、保存会の判断については残念だが妥当と云わざ得ない。が、今回の申し入れが「放射能汚染の有無」が前提条件としてあるということを、果たして陸前高田市の人々は知っていたのだろうか。あるいは、本当にそれが前提条件として発端からあったのであれば、高田松原の薪をまずは全木検査して安全と認められた上で「送り火」の護摩木として使用するプロジェクトをスタートさせるのが商売でもビジネスでも至極当然の筋ではないだろうか。自分の方から強引に誘っておいて、こっちは予定を調整して準備してたのに「雨やし、やめとくわ」とか、普通の人間同士でも、それはない話である。
おそらく、「前提条件だった」というのは、京都の関係者各位がただ思い込んでいただけのことで、陸前高田市に前もってはっきり告げていたわけでもあるまい。もしそれが当初から前提条件としてあったのであれば、陸前高田市としては「そこまでして受け入れていただくのは申し訳ない」とお断りすることもできたかもしれない。というか、お断りしたのではないかと思う。なぜなら、自分がもし陸前高田市の立場なら、別にこちらが望んで頼んだわけでいのに「放射性物質が一切検出されないことを前提に」などと条件付きの承認めいたことを言われたら「何もわざわざ検査までしてうちの松を使ってもらわんでも結構です」と、アホかと断らせてもらう。
つまり、最初に発案した大分県の美術家も保存会の方々も京都市も、そんな失礼なこと思ったらあかん、思うもんやないえ〜と、ただただ善意の心でもって「放射能汚染」の可能性など思いも寄らなかったのだと思う。
そう、この度の一件は始まりから終わりまで、善意と思いやりに貫かれている。いわば、悲しいかな日本人にありがちな「善意の災厄」というものである。時として、よかれの善意というものがいかに客観的な視点を失わせ、的確な判断を狂わせ、引いては人の心を踏みにじる結果になるか。「善意とは何か」をことさら考えさせられる今だけに、なおさら「悪気の無さ」というものの始末の終えなさを見せられた気になってしまう。
さらに残念なのは、このドタバタ無様な迷走劇というより「ひとり芝居」の主役が京都であったということである。ありのままの善良さ、素朴な思いやり、まっすぐなやさしさという「わかりやすいヒューマニズム」に日本一厳しく冷ややかな眼を持ち、千年の歴史に研ぎ澄まされた底意地の悪い、いや、ソリッドな美意識を持つ京都人が、こともあろうに自分たちが何より嫌いな「垢抜けんこと」をやってしまったことが、返す返すも口惜しい。
犠牲者遺族の中には「旅行など行ったことなかった母が、京都で送ってもらえるんですね。母もきっと喜んでいることと思います」と、京都で亡母の浄土への旅を送れることに深い感慨と感謝を語る方もおられたという。それほどまで京都という土地には、日本人の誰しもが他のどの土地とも違う別格の風情を感じているのである。縁もゆかりもない京都で送られるということに多分にありがたみを感じるというのは、そういうことだと思う。
だからこそ、今こそ、京都の格というものを見せて欲しかった。「五山の送り火」で犠牲者の冥福を願うというならば、最初から新しい薪を持ち込んで放射能検査などせずにさらりと行うのが、格式と美を重んじる京の振る舞いではなかろうか。そこでひとこと、善意か悪意か、やさしいのかイケズなのかわからんようなイヤミのひとつも、はんなりかましていただきたかった。こんなときこそ。
「放射能? そらまあ心配やからこないして自分とこから持ってこさせてもうてますよって。こないに辛い悲しい思いした人の傷口あらためるようなこと、よそさんはどうしはるか知りまへんけど、うちらはようできしまへん」みたいな調子で。
しかし、これが自然災害による被災松ということだけであれば、決してこんな悲しい結末になるどころか、心温まる美談となり得たはずである。人が人を思い、手を差し伸べようにも、それが検出されたとあっては手を引くしかなくどうすることもできない。人間社会の営みがことあるごとに踏みにじられていく「目に見えない恐怖」の底知れなさに慄然とさせられる。
1件のコメント
そうどすなあ。
はじめから知らん顔して、大山崎辺りで焚き火にして、その灰を淀川に流して大阪の人に飲んでもろたらよろしかったわ。
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