salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2010-09-13
人の顔に、とやかく言わせて。

「美しければ出世する(かも)」8/13付けヤフー!ニュースより
ハンサムな男性は収入が高く、女性はセクシーな服装が有利──
就職も転職も昇進も収入も美男美女の方がそうじゃない男女より好ましい結
果を手にするという今さらな事実が、テキサス大学の調査チームによって明らかになった。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100909-00000303-newsweek-bus_all

「人間、見た目がすべて」とはいわないが、容姿の優劣が人生の待遇を
左右するなどということは、物心ついた4歳くらいで誰かに教えられずとも
薄々勘づきイヤでも覚える世の習い。
中身が大切なことぐらい、だれもが重々わかっている。
けれども実際は「カワイイ」、「キレイ」、「カッコイイ」ものが好かれ、愛され、得をする。

そんな不条理な真実など、ジャーナリズムのジャの字も知らない女子アナが
ちやほやもてはやされるテレビを観れば一目瞭然、百も承知のことである。
一流企業の営業セールス、広報プレス、プロモーションなど、
表に出て会社・商品のブランドイメージをアピールする部門や部署でも、
「容姿」が重要視されることは当然だろうし、
だからと言って不公平といきり立つことでもあるまいし。
考えてみれば、この世の中、美しくなければなれない仕事より
そうでなくても人柄、技術、能力、経験、努力でどうにでもなる
仕事や職業の方が断然多いわけである。

だから、自分に向いた仕事、場所、世界で、自分なりの輝きを
切磋琢磨すればいい話で、キレイだけが人生でない救いの道も
ちゃんと用意されているのだ。
が、ここが肝心なところで、厳しく自らと向き合い、叩き上げ、
磨き上げた輝きと、愛されオーラ満開のモテる輝きは
また別の次元の問題であるということを
女性はとくに肝に命じて置かなければならない。
最近の谷亮子議員を見て、そんなことを痛く自らに念じた私である。

ただ、そういうルックス的な美醜うんぬんを問う前に、
人には持って生まれた“おのれの顔”というものがある。
そこをまず直視して、運命に従うか、逆らうか、どうするか。
大事なのはそれを自分で感知して見極められるかどうか。

というのも、こんなことを言うと今の世の中、
差別だ何だと叩かれてしまうのだが、人にはその土地の特産名産
としか言えない「ならではの顔立ち」があったりする。
わたしも時々、「山陰顔」とか言われたりする。
そんなことを言ってくるのは大抵、銭湯やサウナに来ている
海千山千の人波をかいくぐってきたような婆さんなのだが、
「私は大阪ですが母が島根で」というと
「やっぱりな、その眉毛は山陰や。気も強いし、我も強い、
男が立たん(立たない)顔や」とか、ほっといてくれよの
人相見を勝手にされてしまうのだ。

けれど、そういう節は自分にもある。どこがどうとは言えないけれど、
眉毛の太さ、額の出っ張り、目・鼻・唇の形、小鼻の肉付き、
皮膚の色味や質感など、顔のデザイン、テイスト、ディテール
ひとつひとつにお国柄が感じられる人に
「もしかして九州ですか?」と訊ね、
「えっ、わかります?」みたいな返しがあると
そこでお互いくったくなく笑えたりもする。
そんな風に土地柄が顔に出るのと同じく、先祖代々受け継いできた何かが
顔に出るというのは、差別もへったくれもなく、
あたりまえのことでいいじゃないかと、私は思う。

最近、足繁く通っている鶏料理屋の店長が、まさにそういう
“宿命の顔” を持つ人物で、それこそ彫りが深く目尻がほどよく
垂れた愛嬌のある二枚目。見るからに「ぃらっしゃい!何しましょ?」
の千客万来な顔立ちで、生まれたときから中ジョッキで母乳を呑んで
育ったような天性の「飲食顔」であるのが、すばらしく気持ちいい。
カウンターで1組のカップル相手に談笑しながらも、
全身これ眼球とばかりに店内中の客の気配、動きを粒差にキャッチして
目の前の客との会話を途切れさせず、瞬時にスタッフに指令を送る。
その俊敏な機転と絶妙な客あしらいを見るたび、
「人間やっぱり顔やな」と、深い意味で納得させられたり。

自分がまだ子どもだった昭和の頃は、
人の顔をとやかく言うことを誰も何とも思わない風潮だったせいか
(大阪だけかもしれないが)

「ほんまあの子は愛想のいい、商売顔やわ」
「まあお父さんによう似た職人顔やねぇ」
「そんな勉強できん(できない)顔して、塾通ってんのか」

などと、まわりの大人たちは自分の子だろうが他人の子だろうが
好き勝手に言いたい放題、可笑しそうにクククク笑っていた。
大人同士の話でも、四角四面で融通がきかん(利かない)
役人顔の旦那のグチや、宝塚歌劇にハマッてる女房のことを
「福笑いみたいな顔して、何が宝塚や」とぼやいてみたり、
とにかく何につけても「あの顔で?」「そう、あの顔でや」
「しゃあないなぁ〜」とコケ落とすのが会話の常だったり。
そんな下世話な環境で育ったせいか、自分も何かと
「さすがエリート顔だけに、言うことが違う」とか
「あの手は浮気する顔やで」と、品のないことを口走るクセがある。

ただ、それぞれの顔には、その人にしかない色、趣、風味があり
「キレイ」「カワイイ」「カッコイイ」だけでは表現し尽くせないほど
千差万別、魑魅魍魎。そんな百花繚乱&複雑怪奇なアートを前に
どうして何も思わずいられましょうか。

無論、顔についてとやかく言うのは、はしたないことではあるが、
人を見る眼というのは、一個の人間の天性の器量をその顔立ちに
伺い知る眼であって、とやかく言えるだけの判断基準は
自分の中に持って置いて損はないのではというのが、
いいわけがましい私の勝手な持論であります!

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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