salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2010-09-15
「水木しげる」と
「わたしの妖怪アルバム」。

いつ会っても、そのとき自分が話したいことを話せる。
そんな東京の友が、秋の異動で実家のある神戸に戻ることになった。
先日、創業七十有余年のシニアだらけの居酒屋で
「さよなら2人会」を開いたのだが、そこで盛り上がったテーマが
今話題のゲゲゲの水木しげる先生である。

漫画家としての才能は言うまでもなく、すべてにおいて
「生きる天才」としか言いようのない水木先生だが、
とくにわたしがおののかされるのは
あれほど悲惨で残酷な戦争体験、地獄の軍隊生活を味わっても
「ラブ&ピース」と反戦を唱えるでも、
ゴリゴリの国粋論に固まるでもなく、
世の思想やイデオロギーなど「飯の種にならないもの」には
まったくなびかずいられるところである。
どんなに理不尽で不条理な現実に陥っても
「なぜだ!」「どうしてなんだ!」と「絶対の正義」「絶対の善」
「絶対の価値」を求めるようなところが微塵もない。
水木先生はどんな「地獄」を見ても自由でお茶目な想像力を失わない。
たとえ翼をもがれても、しかたなく空を飛べる人なのだ。

テレビの特集で、水木先生がかぶっていた野球帽に
思いっきり「U S A」の文字が入っているのを見て、
ほんまに自由な人とはこういう人のことをいうのだと
心底恐れ入った。

御年88歳の現在も「日本で一番忙しい漫画家」であり、
唯一無二の妖怪漫画の大家である水木先生。
にもかかわらず、今でも編集者が仕事の依頼に伺うと開口一番
「その仕事、いくらになるの?」とカネの話に始まり、
「これこれいくら」と提示すると、
その場でちゃちゃっと印税計算をなさるのだとか。
諸行無常の仏の悟りとはまた違う
無いと食えないつらさが骨身にしみた「無」の境地なのだろうか。
どれほどの地位にあろうとも、セコく、がめつく、あさましい
俗世の念を捨てないどころか、あたりまえに「どうぞ」と差し出す
気負いなさが、もう、たまらなくビビビの水木男なのである。

そんな水木先生についてひとしきり笑い合いながら、
2人して「そういえば」と気づかされた。
それは、水木漫画に登場する妖怪みたいな年寄りたちが、
自分たちの子ども時分にはまわりにうようよいたこと。
そして、いつのまにかそんな年寄り妖怪を見なくなったこと。
水木先生も、何かのインタビューで絶滅の危機に貧した妖怪の現状を、
「国連か何かが保護してやらねば」と真顔で心配されていた。

今も自分の記憶の中に生き続けている、年寄り妖怪たち。
やつらは、棺桶に片脚突っ込むどころか墓場をねぐらにしていても
不思議じゃない、あの世とこの世を行ったり来たり暮らしてるような
完全に社会の枠からはみ出した者たちだった。
それぞれ微妙に方向性やスタイルは異なるが、大別するとジジイは偏屈、
ババアは強欲だったように思う。

わたしの家の前には、庭の植木を宝物のように眺めては朝から晩まで
いじくり回している「神田のジジイ」という小うるさい爺さんがいた。
その爺さん、子ども連中でその葉っぱをむしったりすると、
家の中でどうやって感づいたか「誰や!」と玄関から飛び出してきて、
十手ぼうきを振り回し追いかけてくる  “ガーデニング 妖怪” であった。

さらには、冬場の早朝も乾布摩擦を欠かさず、線路脇の雑草を煎じて飲み、
「これが長生きの秘訣」と石の下からナメクジをひょいとつまんで
コクッと丸呑みする“健康ジジィ”もいた。
わたしと弟もそれを真似してナメクジをオブラートに包み服用し、
おかげでギョウ虫検査で連続ヒットを飛ばしたというこぼれ話も。

ほかにも、当たりクジが絶対に出ない“駄菓子屋のババァ”、
いつ行っても銭湯の電気風呂に浸かっている“うなぎのババァ”、
「おーよしよし」と愛犬のマルチーズを赤ちゃん抱っこしながら、
自分の家の前で他人の犬が糞をしないか1日中見張っている
“紫のババァ(白髪ヘアに紫のメッシュ入り)”  など、
町内どこを見渡しても、殺しても死なないような妖怪だらけだった。

しかし何と言っても、思い出の妖怪アルバムNO.1ヒットは
「ババのババァ」である。
「ババ」というのは、中学生の頃に通い詰めていた近所の
お好み焼き屋の店名で、たぶん婆さんの名字だと思う。
店といってものれんも看板もなく、ベニヤ板にトタン屋根を
くっつけただけのボッロボロの掘っ立て小屋。
当然、まともな大人の客など1人も寄りつかず、
店内はいつもヤンキーの高校生、アホな中学生で満杯なのである。
で、その店主「ババのババァ」のつくるお好み焼きというのが
これがまた、この世のものとは思えぬ美味しさで
土曜日の昼になると、無性に食べたくて食べたくて
友達2〜3人で毎週のように「ババ」に通っていた。
思いっきり取り憑かれていたのだと思う。

この世のものと思えないのは「ババのババァ」も同じで、
こっちは「ブタ玉250円」と頼んだのに
「はいミックス玉玉(卵2個入り)400円」と
店一番の高額メニューをボケたふりして持ってくるなど、
注文はしょっちゅう間違えるのに
金勘定だけは1度も間違えたことがない。
しかも天井から吊した洗面器みたいな釣り銭箱を
引っ張るときだけ、ミーアキャットみたいに
曲がった腰がシュッと伸びるのである。

そんなこんなで「銭が好き!」なこと以外、
すべてが謎な「ババァ」だけに、
「ババの近所の猫が次々にいなくなる」
「夜中に裏の墓場でバケツに何か入れてるのを見た」
「ポリタンクに溜めた雨水を使っている」など、
周辺ではさまざまな怪奇談が囁かれたりしたが
それを突き止めることも恐ろしいと思わせる何かがあった。
とにかく、そのお好み焼きの得体の知れない
美味しさだけは、間違いなく妖怪のしわざだと今も信じて疑わない。

ただこういう妖怪ババア、妖怪ジジィたちと交わりながら、
「ほんまに怖いものはぜんぶ人間の中にある」ということを
その姿形、言うことなす事とんでもない有り様に
無意識のレベルで感じ取っていたのかもしれないと、
今になって思ったりする。

もしかしたら年寄り妖怪とは、親や先生やまわりにいる大人とは
違う次元で、世の中や人間のほんとうの姿を「恐ろしさ」とともに
知らしめてくれる存在だったのかもしれない。

少なくともわたしは 、一心不乱にキャベツを刻む小さく痩せこけた後ろ姿、
骨と皮だけのシミだらけの震える手にコテをにぎり、せっせとお好み焼きを
焼いてる姿を見て、一度もかわいそうだと思わなかった。
何というか、生きるということはこういうことだと、
哀れだろうが惨めだろうが、死ぬまで生きる。
何とも言えないその迫力に「恐い」と思っただけだった。

何がどうなってそうなったのか、今でもわけのわからぬ思い出だけを残し、
この世から姿を消した妖怪ジジィ、妖怪ババアたち。

「消えた老人」ではないが、これもまた日本が抱える
「消えゆく老人問題」なのか…。

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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