2011-07-8
レディ・ガガと美空ひばり
人を食ったような奇想天外なファッションと心洗われるような誠実な人柄で、日本のわたしたちを丸抱えに虜にしたレディ・ガガ。音楽もダンスも映像も何もかもがエキサイティングでドラマティックで魅力的な上に、さらに輪をかけて育ちがいい、性格がいい、人間が出来ているからたまらない。「これこそ最新のノブレス・オブリージュ(高貴なるも者の義務)やわ〜」とベタに感嘆しまくり、レディ・ガガ特集を見るため早速ケーブルTVに加入した。
レディ・ガガ。本名、ステファニー・ジョアン・アンジョリーナ・ジャーマノッタ。NY生まれで裕福な家庭に育ち、パリス・ヒルトン姉妹も通ったマンハッタンの名門カトリック系お嬢様学校卒というハイソな経歴はよく知られたところ。そんなガガが、なぜにストリッパーの世界に入り、ランジェリー姿で唄い踊るセクシーな暴挙に出たのか。MTV「レディ・ガガ ヒストリー」によると、こういうことらしい。高校時代、ガガは同級生たちに「鼻が大きい」だの「体型がヘン」だの、人のコンプレックスを悪気もなく嘲笑する女子高生にありがちなイジメにあう。特権階級のおごり昂ぶった名門学校の空気にも、名門セレブの同級生にもなじめなかったガガは、ただ自分に集中するために勉強した。そのため成績はいつもトップだったという。仕方なく大人しく真面目な優等生だったガガが、ぶっちぎりの変貌を遂げるのは大学に入ってからのこと。規律や規則や常識に縛られず思うまま行動する自由を手にしたガガは、どんどん個性的に、がんがんアグレッシブにスリリングに自己破壊と創造を繰り返し、自分の才能をこれでもかと磨き上げていく。もしかしたら、ガガにとっての「ストリップ」は、本来の自分へ生まれ変わる脱皮の儀式だったのかもしれない。
ガガは言う。「人間に必要なのは現実逃避。自分を縛りつけるものからは逃げ出すべき」だと。
私の自由を抑圧し、私という個性を縛るものを「ぶっ壊せ!」「たたきつぶせ!」と拳を突き上げるのではなく、「逃げ出すべき」とさらりと言ってのけるところが、やはり「金持ちケンカせず」の育ちの良さ。生粋のエレガンスである。
しかも「現実逃避」と言いながら、ガガの成功はファンタジックでもミラクルでもなく、非常に現実的な努力と賢明なビジネス観に裏打ちされている。プロデューサーを選ぶのもレコドーレーベルへの営業も、決して人任せにはせず、自分のことは自分でやる。でなければ、思わぬところで足をすくわれることを、ガガは下積みの苦い経験の中で学んでいた。さらに、あのアンビリーバブルな仰天ファッションを手がける「ハウス・オブ・ガガ」は、昔からの友人スタイリストやデザイナーという身内の信頼できる人間によるチームである。それは、スターとなった人間に対して、多くの人は本当のことが言えないから。「ダサイものはダサイ」「似合わないものは似合わない」「あんた最近、勘違いしてんじゃない?」と本音でズケズケ物を言ってくれる人間がそばにいないことで、見失ってしまう「自分」があることをガガは知っているのである。
何不自由なく恵まれて育ったお嬢様でありながら、それこそパリス・ヒルトンのような金持ち娘のゴージャスな体たらくに陥らないまでも、何故それほど地に足の付いた労働観、下働きの苦労を舐めて育ったような芯のある真っ当な人間観、人生観が持てるのか。それは、やはり親の育て方が、世界的ホテル王・ヒルトンの最高級スィートな溺愛ぶりとは違う、というのが大きい。ガガの両親は裸一貫NYで叩き上げ、ゼロから財を成した苦労人。ガガは、小さい頃から両親に言われ続けた。「自分で稼げるようになりなさい」と。親の地位や財力など自分のパーソナリティには何の関係もない。自分の人生は自分で築き上げなければならないという人としてあたりまえのことを、ガガはあたりまえに徹底して貫いているだけなのだ。今や、そんな普通にあたりまえのことなど特別免除されても誰も文句を言わない、バチも当たらないくらい突き抜けたスターの座にあっても、人に対する儀礼と謙虚さをわきまえているところがレディ・ガガの普通ではないセンスの良さなのである。
「わたしの目的は有名になることではなく、スターであり続けること」。
ガガは、スターというものはファンの光なくしては輝けないことを知っている。自分を慕い、愛し、熱狂し支えてくれるファンを「わたしのモンスター」と敬愛を込め呼び、まるで昭和の演歌歌手か韓流スターさながらに、ファンをこよなく大切にするガガ。スターほどファンに愛される人間もいなければ、その恐ろしさを知る人間もいない。ファンとは、愛すべきものの振る舞いや言動に逐一厳格な人たちである。普通なら「忙しいから仕方ないよね」と許されるような些細な無礼も、ファンにとっては決して許されない裏切りとなる。ファンほどありがたいものもなければ、ファンほどあなどれない存在はないのである。つまりスターというのは、つねにファンの生き霊と共にある存在なのである。ファンの望むこと、思うこと、考えることが手に取るようにわかってしまうシャーマン的な神がかった感受性と神経の持ち主でなければ、120%の顧客満足をどこまでも刺激的に、感動的に与え続けることはできないのである。
「わたしのファンは世界中にいる。一般の人に何を思われても、嫌われてもどうでもいいわ。ファンが喜んでくれれば」
そんなガガのファンに対する真摯な言動や振る舞いを見るにつけ、わたしの心に浮かぶのはマドンナではなく、やっぱり日本の女王・美空ひばりなのである。ひばり最後の公演となった東京ドームでの不死鳥コンサート。舞台裏にはベッドと点滴が用意され、立っていることも奇跡に近い激痛に耐えながら、「わたしのファンに、ひと目、歩くひばりを見せたい」と100mの花道を行くひばりの姿を思い出すだけで泣けてくる。あの神々しさはまさに「女王」の威光、「女王」ゆえの威厳に満ちた慈悲深さとしか言いようがない。
単に「いい人」だとか「気さくでやさしい」という好感だけでは言い足りない、もっと毅然と屹立した何かを、ガガとひばりには感じてしまう。それは、ファンなくして存在し得ないスターの性(さが)を全うする覚悟、あるいはそうあることが自分の使命という、自らを高める信仰のようなものかもしれない。
美空ひばりは、敗戦で打ちひしがれた日本人にとって、ひと筋の希望だった。ひばり23回忌の月命日に当たる6月、奇しくも、震災後の日本を元気づけるため日本の安全を世界にアピールするために、わざわざ遠路はるばる来日してくれたレディ・ガガ。そんなガガの誠意あふれる行動を見ながら、あらためて感慨深く思わされた。
ああ、日本にはもう、国民みなが希望を抱けるスターも、戦後間もない映像に付き物の「りんごの唄」のように、誰もが「どっこい、がんばろう!」と口ずさむ復興ソングもなければ、みんなが揃って夢見て進む明日はないのだと。だからこそ、ひとり一人が自分のスターを、自分の希望を見出さなければならない時代なのだ。それは、与えられるものでも、見るものでも、熱狂するものでもなく、「希望とは何か」「自分にとって何が希望なのか?」とイチから問い直すしか見出せない。おそらくガガとひばりなら、きっと「わたしの希望は、ファンです」と答えるだろう。その数が何万だろうとたった1人だろうと、喜んでくれる人をもっと喜ばせたい、信じてくれている人のためにここでやめるわけにはいかないというイメージが持てるかどうかが、ひとり一人の希望の持ち方なのだろう。
人には、一人くらい喜んでくれると思える希望がある。肉のダイリキの広告コピー「人には肉を食べる幸せがある」じゃないけども。
1件のコメント
りっちゃんナイス!
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