2011-06-26
「カワイイ!」の真髄とは・・・
このところなぜか女子の魂「カワイイ」の真髄を煎じ詰める仕事が続いている。そういえば以前、カワイイ暮らし系通販誌の仕事で、ファンシーな動物柄の便座カバーにファンタジックなお花模様のゴミ袋、ロマンティックな小鳥型の布団ばさみなど、三千世界の「カワイイ」にのたうちまわり、念仏を唱えるように苦肉のコピーを絞り出した記憶がある。トイレの便座ひとつにもギンガムチェックのシートやペーパーホルダーに総レースのカバーをあしらわずにいられない健気な乙女心や、クマさんが抱っこして「どうぞ」と首を傾げている風な「マヨネーズ立て」で余計なハッピーを演出してしまう爪先立ちの女心を知り得る限りの言葉を尽くして力いっぱい褒め称える作業はなかなかどうして苦行僧のごとき、ドMな稼業である。
自分の趣味・志向・好きなものとは真逆のコト・モノに全神経を費やさねばならない自己矛盾の葛藤を思うとき、わたしは70年代に活躍したコピーライター・杉山登志さんの遺書の文句を自分の胸に照らし合わせ、深く共感するも「いやいや、待てよ」と思い直す。
“リッチでないのにリッチな世界などわかりません
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません
夢がないのに夢を売ることなどは、とても・・・
嘘をついてもばれるものです ”
自分自身はリッチで幸福で夢のある人間ではないのに、そうであるかのような嘘をつくのは自ら自分の首を絞めるような苦しさがあるだろう。でも、それでも、わたしは思ってしまう。リッチな人がリッチな世界の素晴らしさをどれほど語ったところで、ハッピーな人がありったけのハッピーを謳い上げたところで、そこに何の喜びがあるのかと。いったい誰が「自分も頑張ろう」と思えるかと。むしろ人が人に共鳴するのは、その人がそうではないのに、なぜそこまで思えるのか、なぜそこまで笑えるのか、なぜそこまでやさしくなれるのか、その人がたたえている悲しみに胸を打たれるからではないだろうか。
夢がないのに夢を売ることなど、とても・・・
そう、心ある人間ならできない。誰もがそんな自分を偽り騙すようなこと、したくはない。それでも、「ない」からといって何も売れませんとなれば、路頭に迷って生きていけない。そっちのつらさはどうなるのかと、わたしなどはついつい居直ってしまうわけである。それこそ自分など、自分にないモノしか売ったことがない。なぜなら、ありのままの自分など売ったところで「誰が買うねん!」となぜかはわからないままドツかれる商いの町で育ったからかもしれない。もうすぐ夏だからといって、わたし自身はワクワク&ドキドキときめくことも、太陽に輝く夏の女神に変身する予感などあるわけないが、日々、黙々と考えていることは、ウソみたいにキラキラきらめき輝く、自分とは程遠い世界の夢である。貯金など一銭もない自転車操業の自分が「楽しく増やす資産運用」の魅力を語り、出産も子育て経験も皆無で、そもそも元来、子ども嫌いのこのわたしが想像に想像を膨らませ「子を産むシアワセ、子を持つ喜び」を語る。ウソといえば、何もかも嘘かもしれないが、それがそうとも言い切れず。なぜなら、どれもこれも、わたしの中の「なけなしの思い」から出た言葉だったりするからである。
わたしが大学を卒業して初めて就職した広告会社の元コピーライターの社長に、書き上げた「コピー」を見せる度、「ええか、お前な」と諭されたことを思い出す。
「コピーいうのは、自分が嫌いな人間にラブレターを書くようなもんや。自分が嫌いな人間やから相手も自分のことが嫌いや。せやから、まず読んでもらわれへん。仮に読んでくれたところで信じてもらえるわけがない。そういう相手に『好き』を伝えるコピーを書くのは、徹底的に報われへん思いやりや。自分が思うことを書きたい、自分の思いを伝えたい、そんな奢った考えでこの仕事してるんやったら、やめたほうがええぞ」と、若くフレッシュなやる気満々の新人に、来る日も来る日もそんなやるせない現実ばっかり叩き込む社長も社長なら、「やめたほうがいいかも」とさっさと1年で辞めてしまうわたしもわたしである。その後、驕り高ぶった若い鼻先をへし折られる人生の紆余曲折を経て、今は亡き社長の言葉を噛みしめながら、日々、着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編むような仕事をせっせと続けているのだから、人生というのは、自分が思う以上に未練がましい巡り合わせに満ち満ちているものである。
本来の自分ではない自分、本来の自分とは相容れない世界に矛盾や葛藤を抱えるのは、それはもうどんな仕事でもそうである。今にも泣きたい失意の底にあったとしても、ありえないテンションでハッピーを売りさばくエアロビインストラクターもいれば、失恋のどん底にありながら他人のカップルの幸福を最高潮に盛り上げなければならないウェディングプランナーもいる。産みたくても産めない悲しみを抱えながら子どもたちの笑顔のために働く保母さんもいるだろうし、飲めない酒を飲みながら面白くもない客の話に腹を抱えて笑うしかないサラリーマンもホステスもいるだろう。そう、悲しい嘘つきは自分ひとりじゃないし、自分ひとりなわけがない。悪いけど、殺伐と世知辛い世の中の断崖に涙の花を咲かせているのは、やむにやまれぬ「トホホな嘘つき」たちのおかげだということを、誰にというわけでもなく、無性に言っておきたい気分に駆られる今日この頃。梅雨の長雨のせいか、はたまた、何かとままならない私生活のせいか。
と、仕事の合間に余計なことをつらつら考えているうちに、本業のお題である「カワイイ」の真髄が見えてきたような。夢などないのに夢を売る。その悲しさこそが、胸に迫って心に沁みる何とも言えない感情を掻き立てるわけである。その何とも言えない感情を何とか言葉にするとしたら・・・「カワイイ」としか言いようがない。 そこで、日本人の情緒の底を流れる「悲しさ」をたどるべく、竹内整一著『かなしみの哲学』を読むと、なるほど、「カワイイ!」の源泉は「悲しい」に有り。なぜなら日本人の精神の底流には、万葉の昔から無常の「かなしさ」があり、自分自身の命も自分が愛する大切なあれやこれやを失わざる得ない「かなしみ」こそが人間の存在感情であり、人も世もすべては「悲の器」であるからして、その「かなしさ」をことさら愛おしみ可愛がる特異な感情が、日本独特の精神文化なのだという。
<かなしみの哲学より引用>
やまと言葉でいえば「かなしい」は「かなし」。岩波古語辞典によると「かなし」【愛し・悲し】。その語源は、自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語。 つまり「かなしみ」とは、何ごとかを成そうとして成し得ない張り詰めた切なさ、自分の力の限界、無力性を感じとりながら何も出来ないで居る状態を表す言葉である。現在では失われた「愛し(かなし)」という用法でも、基本は「どうしようもないほど、いとしい、かわいがる」という意味において「・・・・しかね」ている。つまり何をしても足りないほどかわいがっている、あるいはどんなにかわいがっても足りないという及ばなさ、切なさが「愛し(かなし)」なのである。
悲しさ、空しさ、浮かばれなさ、報われなさという本来忌むべき感情を敢えていとおしむ日本古来の精神文化を知れば知るほど、何でもかんでも「カワイイ」「カワイイ」とさざめかずにいられない大和女子の心が何となく解けた気がした。そう、それは、永遠にそう在りたくてもそう在れない、いつまでもかわいいままではいられない諸行無常のかなしみを「ハレ」の言葉で称えた言葉が「カワイイ!」と。そういうことにしよう。 「かなしさ」をつとに好み、愛おしみ、慈しむ日本人の精神文化とは、悲しくて悲しくていたたまれず可愛がるほかどうすることもできない究極の愛情表現。それが「カワイイ」の真髄。日本女子の「カワイイ!」が、そういう日本人の悲しみの底流から出たものとなれば、ものすごくわかる。自分にはないどころか、溢れんばかりにある気がする。何しろ、情けなくて腹立つくらい悲しいものほど、どうしようもなく可愛く思えてしまう自分だから。ああ、悲し、愛し。
3件のコメント
自分ほど不健康な人間はいないと思いながら健康について語る、健康になって欲しいのにまた来て欲しいと願う、また来てしまうとまだ治っとらんのかと自分の腕の無さに凹む。そんな鍼灸マッサージ師34歳。
日々矛盾だらけの水泳大会です。
共感しました。
ありがとう。明日も適度に頑張ります。
あなたは、洞察力はあっても文才は無いですね。
そう思いませんか?
傍観者じゃ駄目なんですよ、観察なら誰でもある程度経験があればできます。
ブラックスワンの説明はよかったです。
天才は狂気に飛び込んでいく異常な無邪気さと、相反する冷静さを兼ね備える人だとおもいますね。
そういう自分も、凡人だし臆病なんだよなぁ…
すいません、言い過ぎました。
物書き、頑張ってください。
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