salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2011-01-4
追悼 高峰秀子さん

修学旅行、体育祭、文化祭、誕生会…etc ここ一番、元気いっぱい楽しもうというときに熱出して休む奴。そういう間の悪い、運のない、ツキのない人間とは、どうやら自分のことだったようだ。というのも、この10年まともに寝込んだことなど一度もないのに、よりによって大晦日に風邪を引き、39度の熱にうなされ、時代劇に出てくる「病気のおとっつぁん」さながらの辛気くささ満載のニューイヤー。
なるほど、持っていないというのは、こういうことか・・・

そんなこんなで心身ともにぐったり弱り果て迎えた2011年。さらに追い打ちをかけるように「まさか!」の訃報にがく然とした。
12月28日、わたしが敬愛してやまない大女優・高峰秀子さんが、肺がんのため86歳でこの世を去ったという。
見ず知らずの芸能人の死去に、わたしが声を上げて泣いたのは、美空ひばり以来。それだけ、強烈に思い入れのある、尊敬してやまない女性だった。

高峰秀子さん

よく現代女性の生き方のお手本NO.1といえば「白州正子」があげられる。ただ、わたしが生きるお手本としてその言葉、文章、姿を胸に刻みつけたいと願うのは「白州正子」より「高峰秀子」である。何というか、「白州正子」は、家柄も出自も年代も何もかもが遠すぎて、その人格、生き方がどれほど毅然と美しく立派であるかは理解できても、俗で貧相な自分が感情移入できるポイントが爪の垢ほども見当たらない。高峰秀子さんとて雲の上のお方ではあるが、高峰秀子さんはたったひとり、帰る家も頼る親も肉親も、自分を救う人間は自分しかいない境遇で5歳から「高峰秀子」を演じて、働き続けてきた半生の凄味に、たとえようもなく惹きつけられてしまうのである。

ただ、このお二人に共通して感じるのは、虚飾、虚栄、慢心、奢り、自意識という人間の醜さを一瞬にして看破して唾棄する冷徹な眼力。
ゆえに、なぜかお二人とも、古美術・骨董品の目利きなのである。本物の価値がわかるということは、偽物の醜悪さに耐えられない、我慢がならないということであり、それが即ち研ぎ澄まされた感性というものなのだろう。しかも、その感性は「モノ」や「ヒト」だけでなく、自分自身に向けられてこそ本物であり、そこに自分を許すとか、自分を愛するとか、頑張った自分にご褒美とか、一切の甘えや優しさや妥協は生じ得ない。

白州正子も高峰秀子も、孤高の輝きを持つ女性であり、その生き方、言葉ひとつひとつに、これほど学ばされる、考えさせられる、唸らされるような人物は二度と現れないに違いない、その時代にしか生まれ得なかったスタァである。しかしながら、白州正子には、薩摩志士・樺山伯爵家の娘に生まれたという生まれながらの光がある。なんというか、それだけに「不思議」がないのである。が、高峰秀子には、「それなのに、なぜ」と問い続けたくなる凄絶な生い立ちがある。もちろんその容貌の美しさ、女優としての才能という別格の星を持って生まれたにせよ、4歳で母親と死別し、邪念の塊のような養母・志げに引き取られ、5歳から映画界のスターとして稼ぎ出した莫大な資産すべてをこの養母の欲と見栄のためにむしり取られてきた半生。親戚縁者何十人もの生活を幼い肩に背負い、学校にも行けず、好きでもない女優の仕事を50年以上も続けてきた高峰秀子の人生は、想像を絶する苦難と絶望の日々である。

当時、高峰の映画出演料は1本100万円、日本映画界トップのギャラであった。時の首相、吉田茂の給料が4万円ということを考えれば、それがどれほど途方もない額かが想像できる。しかし、この高峰秀子本人が「デブ」と吐き捨てるように呼び、生涯憎み続けた養母・志げは、色と欲に飽かせて高峰の稼ぎを湯水のように使い果たし、ようやく出会った生涯の伴侶と結婚し自由の身になれたとき、高峰の手元にはわずか6万円しかなかったという。

高峰を「かあちゃん」と呼び、間近に見続けてきたライターの斉藤明美さんが綴った著書「高峰秀子の捨てられない荷物」、高峰秀子自身のエッセイ「わたしの渡世日記」を読むと、高峰秀子の人生がいかに苦難に満ちたものであったか、人は己の意志の力によってどこまで強く、聡明に、正しく生きられるのかがイヤというほどよくわかる。

著書1

「おししい人間」著・高峰秀子 「高峰秀子の捨てられない荷物」著・斉藤明美

高峰秀子の輝きは、「デブ」としか言いようがない養母志げの邪悪な闇夜を切り裂くような不屈の魂そのものである。
あの司馬遼太郎にして「どういう教育をすれば、高峰さんのような人間ができるのかなぁ」と言わしめた高峰秀子のはかりしれない強さと賢明さ。それは天賦の才、生まれ持った器量と褒め称えるだけでは消化しきれない重みがある。
そして、その重みこそが「苦労」というものの価値であると、わたしは思いたい。高峰秀子の人生に「これでもか」と打ち込まれた杭の深さを知れば知るほど、なぜ貴女はそれほど毅然と清々しく、何ごともなかったようにその人生を歩いてこれたのか。人はどこまで強く、厳しく、そして真っ当に生きられるのかと、問わずにはいられない。

わたしは高峰秀子の人生の集大成は、松山善三という伴侶を得た穏やかな家庭生活にあると思う。昭和のスターたちに共通する、成功の陰にある「私生活の孤独」というジンクスを、高峰秀子は自らの意志によってはねのけた。美空ひばり、都はるみ、大原麗子もそう、大スターのそばにはつねに「母なくして私はいない」というような猛烈な母親がいる。
あるとき高峰秀子は「ひばりさんは幸せよ。学校に行きたいと言えばそうさせてくれるお母さんがいるんだもの」とつぶやいたという。けれど、そんな母親がいなかったからこそ、一生の伴侶が得られたといえるのではないか。何があっても自分の味方、自分のためなら鬼にも蛇にもなる母親という絶対神を持たなかったからこそ、そこまでの愛情を他人に求め、結婚に失敗し、どんなに覚悟しても覚悟しても埋められないひとりぽっちの孤独、一卵性母娘の不幸を背負わず済んだのではないだろうか。

高峰秀子は、あれほどの大スター、大女優にして、妻になれた。
その1点があるかないかで、それまでのどんな苦労も不幸もチャラになるのが、女の人生だったりする。逆にその1点がないだけで、どれほどの恵まれた環境でも、百年の孤独に押しつぶされるように眠らねばならないのも、女のやるせなさである。
とはいえ、そう考えると、苦労の価値というのは生き抜くことでしか見出せない。およそ幸福など足もとにも及ばないほど、その意味は深い。深いがゆえに、わかるまで相当時間がかかるということか。
ただ願わくば、時間をかけてわかったときに「遅すぎた」みたいな苦労だけはしたくないものである。
たぶん女の言う「後悔だけはしたくない!」は、そういうスパンの長い、深い意味があるように思う。

最後に、高峰秀子さんへの追悼の思いを込めて、わたしがとても共感した高峰さん・松山さんご夫妻のエピソードを。
前出のライター・斉藤明美さんが、あるとき、とうちゃん(松山氏)にかあちゃん(高峰)の嫌いなところを訊ねたそうだ。

すると、とうちゃん「そうだねぇ。好き嫌いが激しいところ。あと、他人の悪口。いくら(僕が)、他には洩らさないといっても・・・」
すかさず必死に斬り返すかあちゃん(高峰)の言葉が素晴らしく爽快。「あれは悪口じゃありません!本当のことですッ」

心置きなく思ったまんま悪口を言える伴侶を持てた高峰秀子は、自ら幸せを切り開いた女性の手本だと、痛烈に感じさせられる。そして、収入も地位も名も、自身とは違いすぎる大女優を妻にしても卑屈にならず、押さえつけようともせず、自然にありのまま受け入れ、そばに居て笑っている「とうちゃん」という好人物を見初めたことが高峰秀子の目利きの凄さである。

高峰さん夫妻

晩年の高峰秀子さんと松山善三さん夫妻(夫人画報より)

東京に来た3年前。麻布十番の永坂を上りながら「ああ、このあたりに高峰さんが住んでらっしゃる」と思うと、まるで高峰さんに近づいたような何とも言えず光栄な幸せな気持ちになったことを思い出す。同じ空の下で、同じ空気を吸って生きておられると思うだけで心強く姿勢を正したくなる存在がこの世からいなくなったことが、今もまだ信じられない。

昭和という時代の大きな星がまたひとつ、心を照らす光に変わってしまった。

昭和30年、結婚式の朝。(婦人画報より)

高峰秀子さん著「わたしの渡世日記」文章も鋭く潔く、見事。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

1件のコメント

初めて、ネットに記載しました。この文章を拝見させてもらい、とても感動、同感しました!!ありがとうございます。私も高峰秀子様を大尊敬している者の一人です。あなた様の説得力のある文章内容は的確に高峰秀子様を表現していると思い、すばらしく感動しました。本当に同感しました!!私にとっては高峰秀子様は神的存在です!!そう言いきっても過言では決してありません!生きる勇気を与えてくれる存在です!!亡くなられてしまって、本当に神様になってしまいました・・・・・!!ご冥福をお祈り致します。また、何か高峰秀子様の情報があったら、ネットに掲載していただければ、たいへん幸福です!!よろしく、お願い致します!!

by もう少しで52歳になる女より - 2011/04/17 11:16 AM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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