salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2011-01-14
よかれの人情、どろソース

自分がされてイヤなことはしてはいけない。自分がしてほしいことを人にしましょう。
そうすれば、みんな仲よくうまくやっていけると教えられたが、大人になるとなかなかどうして、そんな単純な原理だけで人間関係うまくなんかいかないものである。

何しろ人というのはそれぞれ出自も性質も性格も考え方も生き方も習性もてんでバラバラ、その人が何をどうされたいのか、何をどうされるとイヤなのか、何が喜びで何を不服とするかなど千差万別。こちらが良かれと思ってしたことが仇になることも、恨みを買うことも、十分ありえるわけである。

それこそ動物みたいに「エサをやれば懐く」「なでれば喜ぶ」「背後から近づくと噛む」「寂しいと死ぬ」みたいな喜怒哀楽のシステムが単純であれば、犬猫レベルのひとつ覚えで万事うまくいく話だが、人の世にそんなうまい話はまずない。

落ち込んでいるときに励まされたい人もいれば、そっとしてほしい人もいるし、大きな仕事を任されれば俄然やる気になる人もいれば、逃げ出したくなる人もいる。自分で決めなきゃイヤな人もいれば、人に決めてほしい人もいるし、束縛されるのがイヤじゃない人もいれば、死ぬほどイヤな人もいる。自由が楽しい人もいれば、自由が苦痛な人もいる。自分がそう思うからといって、人もそう思うとは限らないのが、とかくこの世は生きにくい所以である。

無論、「にんげん」という同じ心の機能を持っている者同士、それだけはしてはいけない、されたくない基本は変わらない。殺される、盗まれる、犯される、奪われる、虐げられる、ナメられる、バカにされる、コケにされる、裏切られる、騙される、捨てられる… 、言うまでもなく、誰もがそんなことされたくない。けれど、わたしたちが現実にぶつかる人間関係の悩みというのは、そこまで非道で非情な行為によって引き起こされるわけではなく、むしろ素朴で温かな人情によって引き起こされる悲劇の方が多いのではなかろうか。大体からして、情をかけられてイヤな気がする人はそうそういない。むしろ情があるから人間同士肩寄せ合って何とか生きていけるわけである。けれども、この情ってやつが曲者で、こっちの情とあっちの情がつねに同じリズムで、同じトーンで、同じテンポで進み続けるとは限らない。あの時点では合っていたけど、どこかの時点で合わなくなることもあるし、互いの立場、コンディション、置かれた状況によって相手に対して思うことはズレてくる。

「喜ばれると嬉しいから」の佐川急便じゃないが、そうは言っても、現実には喜ばれると思っていることが、そもそも違っている場合もある。昔、弟のバイト先に、「困ったことがあったら何でも言えよ」みたいな人一倍人情にあつく、面倒見のいい先輩がいた。が、ある日、弟がいつになくその先輩に対して批判的な物言いをするときがあり、何があったのかと訊ねると、昼食のカレーライスに勝手にソースをかけられたと憤っているのである。先輩はカレーにソースをかけて食べた方がおいしいと思う人間で、だからお前もおいしかろうと、きっとそうしてほしいだろうと、ソースをかけてくれた。しかし、弟にしてみればソースなんかかけてほしくなかった。かけたのはソースかもしれない。けれど、そこに現されているのは、まぎれもなく人間の情のかけ違いではあるまいか。

そういえば、自分もそういう人情ソースにやられたことがある。以前勤めていた会社に、ことあるごとに「オレが盾になってお前たちを守ってやるからまかせとけ」と言うことだけは頼もしく、情け深い人情ディレクターの上司がいた。わたしたち部下のことを思ってくれていることはわかるのだが、どうもその上司がしてくれることは、自分がしてほしいこと一辺倒なのである。

たとえば、わたしのPCの調子が悪いとなれば、「おう、ちょっと待っとけ。この作業が終わったらすぐに直してやるから」と徹夜でOSの初期化作業をしてくれる。東に病気の子どもあれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い・・・というような雨ニモマケズみたいなありがたさなのだが、そこから先が、別れの38度線なのである。

「おう、なおったぞ」
「ありがとうございます!」
と、いざ自分のPCに向かうと、デスクトップがハードロックカフェみたいなネオン管サインがきらめく装いにリニューアルされ、フォルダすべてがハーレーのエンブレムみたいないかついアイコンに整えられてしまっていた。イージーライダー世代のバイク好きの上司にすれば、自分がしてもらったら嬉しいことなのかもしれないが、そこが、何してくれてんねん!の人情どろソースなのである。

まあこれらのケースは、あまりにも分かりやすい初歩的なかけ違いだが、こうした「人情のかけすぎ」が、ひとたびシビアな人間関係に落とし込まれると、それまであんなにわかり合っていた、通じ合っていた、同じ夢を追いかけてたはずのお互いの心が離れていくことになる。そして、そういうかけ違いが決定的になったときに傷つくのは、よかれと思ってかけた方だったりする。でも、だからといって、人を思うことは止められないし、喜ぶだろう、嬉しいだろう、助かるだろうと思ってしたことが相手に取ったらそうじゃなかったとしても、それはもう結果論でしかない。君が思うより僕は君が好きと思った分だけ傷ついたとしても、そういう僕を僕以上に好いてくれる人もいる。この世にひとりぐらい、絶対いる。

「あのとき、先輩がソースをかけてくれなかったら、カレーの本当の味を知ることはなかったと思います。今、おれ、新宿のカレー屋で店長やってます。今のオレがあるのは先輩のおかげです」みたいな嬉しいことを言ってくれる、わかってくれる人間もいるから、そこはもう賭けですな。お後がよろしいようで。

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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