2013-09-4
スイートメモリーズ
子どものころは「遠山の金さん」や「暴れん坊将軍」に熱狂し、いまは一日の終わりに「あまちゃん」をみて、ひとしきり泣いたり笑ったりして寝るのが日課。
好きな歌手歴はピンクレディーに聖子ちゃん、マッチ、チェッカーズ、ドリカム、安全地帯、森山直太朗、くるり…etc.。好きな男性のタイプはと聞かれれば「キムタク」と答える。
カラオケで歌う曲は、聖子ちゃんかテレサテン。ときどき、小泉今日子。
私の青春時代、どこからみても欧米文化に影響を受けた形跡はない。
それなのに、なぜだろう。
中学生頃から、ただただ、外国で暮らしてみたいという思いがあった。(外国といっても広いんだけど…><)
何はともあれ、英語が必要だと思い、親に無理をいって高校3年間は英会話スクールに通った。大学受験もあったから、今までの人生でもっとも英語の能力が高かった時期だ。
無事に大学へ入学すると、親に留学したいと頼んだ。
それでなくても親元を離れて大学に通っていたのに、留学までしたらどれだけ資金が必要か。そんなこと考えもしない甘ったれだった。
当然、申請は却下。自分で行けるようになったら好きに行けばいいといわれ、アルバイトで貯めたお金で、ひとまず高校の同級生が留学しているアメリカ・ミシガン州に行くことにした。
初めてのひとり旅。初めての海外。
サンフランシスコ空港に自分の乗った飛行機が着陸したときの心の声は、今でもくっきりと脳裏に刻まれている。
「すごい!私いま、日本じゃない土地にいるんだ。アメリカにいるんだ!」
我ながら「いつの時代や!」とツッコミたいくらいに興奮していた。
トランジットの途中、悪天候で乗る便が欠航になるというハプニングにみまわれ、「はじめてのお使い」ならぬ「はじめての欠航」にあたふたしながら(日本と違って自分でどんどん確認をしないと、なにもインフォメーションしてくれなかった)、なんとか別の航空会社に乗り換えして無事に友人の待つミシガン州へ。
到着口を出ると、そこには、真っ黒に日焼けし、クルクルヘアでアイラインの濃いメイク&ブラックカルチャーファッションに身を包んだ友人が立っていた。
いうまでもない。黒人の彼の影響だ。
訪れたのはたしか、2回生の夏。
彼女は英語を早くマスターしたいと、アメリカに渡ってからの1年半、ほとんど日本語を話していなかった。その街には日本人がおらず、大学にいてもあえて交流をもたないという徹底ぶり。
そういうわけで、私ともあまり日本語を話したくない…という。
さらに、夏休みとはいえ、彼女には夏期講習があったり、学校の友だちとの約束も入っていたりして、私は彼女のシェアハウスで時間をもてあましながら過ごした。
テレビではボビーブラウンの「Every Little Step」とマルティカの「Toy Soldiers」がベビーローテーションしていた。
表情も雰囲気もすっかり変わってしまった友人に、少し(いや大分)戸惑っていた。トイレのドアを開けたまま用を足していたのをみてしまったときは(誰もいないと思っていたのではなく、見られてもいいという姿勢)、雷が落ちたような衝撃を受けつつも(なんせ、うぶな20歳だったから)、彼女が築いているアメリカの生活を受け入れようと、なんでもないフリをした。
ホテル滞在ではない、憧れの普通の外国生活をかいまみれて、退屈な時間もそれなりに楽しんではいたが、退屈にも飽きていたころ、やっと友人がパーティーがあるから行くか?と誘ってくれた。もちろん参加表明をすると、アルコールは屋外で飲めないことや購入もできないこと(アメリカで飲酒できるのは21歳から)、男の子に誘われてもついていかないことなどいくつか注意点を教わった。
近くのスーパーで挨拶するくらいだった滞在中、初めて英語にまみれた夜。思っていた以上に、会話らしきものはできなかった。ネイティブな現地の英語はめちゃくちゃ早くてさっぱり聞き取れず、私のつたない発音の英語は相手にされなかった。
正直、初めてのこの旅行は楽しさよりも、「違い」に圧倒されるだけの旅だった。やりたいことがあるなら主張しなければ伝わらない。伝えるにも、努力と根性が必要だ。察する日本とはコミュニケーション方法が違う。そこに立ち向かっている友人の強さを肌で感じ、自分の未熟さに傷ついた。それでも、数週間を外国で過ごしたという現実に、小さな達成感のようなものも味わっていた。
その後も、私の外国で生活したい種火は灯されたままだった。そしてついに決意をした。オーストラリアへワーキングホリデービザを利用していくことにしたのだ。23歳の夏だった。
ワーキングホリデーとはその名のとおり、ビジネスではなくあくまで休暇中に異国の文化を学ぶための足しに、仕事をしてもいいよのビザ。
私は大学生のときに始めたスクーバダイビングのインストラクターを目指し、インストラクターとして働くことを目標に、オーストラリア・ケアンズに旅立った。
ミシガン州と違って、観光地として人気のケアンズには多くの日本人がいた。同じくワーホリで来ている人もいれば、ビジネスで来ている人も。
そこでの生活は、長い長い修学旅行のようなものだった。
ひとところで生活はしているものの、毎日が遊びのようでもあるし、一応、目指すべき目標もある。日本人との交流が多いこともあって、ミシガン州で感じた「違い」はそれほど強烈ではない。
でも、日本にいるときとは何かが明らかに違う。
私は開放されていた。日本でなにに縛られていたのかはわからない。
愛媛の実家から大阪に出たときの自分は、それまでの自分とは違っていたけれど、なんというか海に行くと大胆になるような、そういう開放感。
服装は毎日Tシャツに短パンで、裸足かビーサン。(なぜかケアンズは、外を歩くときもちょっとした買い物も裸足の人が多かった)
好きなものを好きなだけ食べた。
中でも、「TimTam」というチョコレート菓子は、多いときは1日1袋食べていた。
約束の優先順位を選べることも知った。
たとえば、先に誰かとご飯を食べる約束をしていても、そのとき別の用事ができて、そっちが良ければ先約はやめてしまってもいい。そういうルールというわけではないが、みんな「なぜ来ないんだ!」と神経質になることはなく、「きっと他の用事ができたんだよ」と納得している。今なら日本にいても比較的よくあることだが、その頃の私にとって約束は絶対だったし、連絡もしないで行かないなんてあり得ないことだったのだ。(携帯がない頃なので、今なら連絡ぐらいはするのかも)
ときどき、旅もした。
長距離バスに乗って、野生のイルカと遊べるポイントに行ったり、エメラルドグリーンの突き抜けるような海のある街に行ったり、サンゴだけでできたビーチに行ったり…大自然の豊かなオーストラリアには旅人が行くべき名所が数限りなくあった。
その旅先ごとに、いろんな国の人たちと出会い、1日〜数日間寝食をともにした。もう二度と会うことがない出会いのひとつひとつが、奇跡のようで輝かしい。すべてが美しく、雄大で自由だった。
広野に沈むあまりにも美しい夕日を眺めていたとき、突然、声が聞こえた。
「この素晴らしいものをひとりでみて、なにが楽しいの」
自分の声だった。
そこには旅先で知り合った友人が隣にいる。決してひとりで見ているわけではない。けれどその声に、私は答えられなかった。私はすぐに日本に戻ることにした。
あれから20年。
外国で暮らしたい思いはもうないのかというと、それはわからない。もともと、なんのためにそうしたかったのか、わかっていなかったぐらいだ。
今年の1月に初めてスペイン語が公用語であるメキシコへ行った。言葉の通じない雰囲気に久しぶりに胸が躍った。ストリートの屋台で、お兄さんにタコスを注文しようと英語とジェスチャーで伝えるが、「??」という表情でうまくいかない。後ろから別のお兄さんが出てきて、これか?と看板を指差してくれた。思い切り頷いて、無事にタコスを買うことができた。
帰り際「グラシアス」というと、最初のお兄さんも笑顔を返してくれた。
つまりは、そういうことだ。言葉も肌の色も、育った環境もなにもかもが違っている。それでも、どうにかしていくうちに、通じ合えることが少しでもあると、ただ嬉しい。楽しい。それを現実のものとして経験できること。
それは自分が日本人であって、違っているからこそ、できる。自分がつくられる居場所があるから。
西の果てで聞こえた声に、今なら答えられるだろうか。
1枚100kcal以上もある脳みそまでトロケそうな味は、その日々を象徴するような味だった。日本でも手に入るので、ときどき食べては、何かわからない、何かを求めていた頃を懐かしんでいる。
オージーに教わったTimTamのおすすめの食べ方。片端を少し齧り、齧った側をミルクティーに浸して吸い上げ、口にミルクティーが到達したところで、いっきに口に放り込む。友だち曰く「これほどの快感はないよ」。
1件のコメント
少女が夏の扉を開ける瞬間の初々しさに引き込まれるうちに、なんだか妙にTimTamのことが知りたくなりました。そして、さらに読み進むと、TimTamと主人公が、ほとんど同じに感じられてきたから不思議です。TimTamをネット検索しようと思った衝動が消えたころ(最後までスクロールしていなかったので)、そうだ、この連載は、ソウルふるフードだと思い出し、まんまと作者の術中にはまっていたことに気が付きました。TimTamの中に詰まっている、甘い夢や希望を、誰もが持つ穏やかな孤独が引き締め、味わいを深めています。まさにソウルふるフードの完成です。おめでとうございます。
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