salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

そらのうみをみていたら。

2016-10-5
私の東京周辺物語1

上京したのは23歳のとき。
仕事は雑誌『ダイビングワールド』のアルバイト。月給は10万ちょっと。当時お付き合いをしていた人が厚木にいたので、バイト先(神保町)との間をとって相模大野に住んだ。お金がないのに、どうしても鉄筋コンクリートにこだわった。駅から徒歩5分にもかかわらず、ワンルームで5万円ちょっとだった。
オーストラリアでダイビングインストラクターをしていた経験があったので雇ってもらえたと思っていた。あわよくば、編集ライターとして働けるようになるかもしれないと目論んでいたけれど、甘かった。所詮バイト。2年ほど経っても立場は変わらず。編集ライターに必要なのはライセンスではなく経験。
環境を変えたいとバイト先を代えた。フィットネスクラブのダイビングインストラクターとして働いた。月給はそうは変わらなかったが、住まいを引っ越すことにした。

ドラマ『愛しているといってくれ』の舞台になっていた井の頭公園。駅のすぐそばに、相模大野の部屋よりひとまわり小さいワンルームのマンションが6万5千円で出ていた。大家さんは1階の理容室。すぐに決めた。厚木の人とは距離が出来ていた。

ダイビングインストラクターも長くは続かなかった。なんといっても、関東の海は寒い。オーストラリアでぬくぬくと潜っていたときとは大違い。そもそも接客は苦手だった。それに、外食もできずにやりくりするのに飽きていた。

ほんとうは、子どもの頃から編集の仕事をしたいと思っていたんだった。収入ももっと欲しい。やっぱり、編集の仕事ができるところで働くのがいい。26歳になっていた。機内誌を作っているところがいいと思った。誌面はきれいだし、いろんな国にいけるし。でもすべて、門前払い。
ジャンルを選ばず、片っ端からあたった。何社も受けた。未経験の26歳はまったく必要とされなかった。やっとひっかかったところがあった。未経験の26歳を選ぶだけのことはある。社長はうつ気味で会社には週に1回しか来ず、社員はコミュニケーションが苦手な若手デザイナーと時間制勤務のママデザイナーが2人。ほかに、敬虔なクリスチャンやファッショナブルなゲイといった多様なフリーランスの人たちが出入りしていた。未経験のわたしを鍛えてくれたのは、フリーの編集者Nさんだった。

うつ気味の社長は、会社にくるとランチに誘ってくれた。ビールを飲みながら、仕事は慣れたか、といった話をした。Nさんは仕事のできる人だから、いろいろ教わるといいよ。そういう風だった。
まだ、携帯はない。パソコンもなくワープロだった。
Nさんはとても厳しくて、本当に仕事ができる人だった。なんどもなんども原稿を書き直した。チェックされるのはすごく怖かったけど、チェックされずに駄文が表に出るほうがもっと恐ろしいことだと思った。うつ気味の社長はデザイナーでもあった。ときどきやってきて、社員のデザイナーに指示をした。それでグンとかっこいいカンプができあがった。右も左もわからないわたしだったが、Nさんも社長もクライアントと呼ばれる人と“対等”だった。

この頃、井の頭公園では口から次々にピンポン球を出す大道芸人や、ギターを抱えて故郷を唄うミュージシャンと知り合った。彼らはのちに「世界が尊敬する100人」に選ばれたり、CMソングを唄ったりした。

わたしは29歳になっていた。仕事で知り合った女性が将来のことを話してくれた。彼女はいつかお茶が飲めてくつろげる本屋をつくりたいと言った。
その言葉に軽い衝撃をうけた。そして、「わたしも自分でつくろう」と思った。
本屋ではない。つくりたいのは、結婚しても、子どもが産まれても仕事ができる場所。

ドラマの舞台となったところに住んで、夢を追いかける人に会える。軽薄な東京で軽率な決断をしたわたしの物語はもう、はじまっていた。

※敬愛する中川越さんの「私の東京物語」が東京新聞で掲載されました。(2016年9月20日〜全10話)そのエッセイに触発されて書いてみたくなりました。

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魚見幸代
魚見幸代

うおみ・ゆきよ/編集者。愛媛県出身。神奈川県在住。大阪府立大学卒業後、実家の料理屋『季節料理 魚吉』を手伝い、その後渡豪し、ダイビングインストラクターに。帰国後、バイトを経て編集プロダクションへ。1999年独立し有限会社スカイブルー設立。数年前よりハワイ文化に興味をもち、ロミロミやフラを学ぶ。『漁師の食卓』(ポプラ社)

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