2015-09-5
犬嫌い
子供のころ住んでいた家は、車の通ることができない細い路地沿いにあった。幅2メートルもない、この細い細い路地で、ままごとをしたりゴムとびをしたり、けんけんパーをしたり…、多くの時間を過ごした。
この細い路地を曲がって、家1軒分を歩くと、国道(旧)に出た。国道といっても車1台が通ることができる程度の幅なのだが、その角あたりには駄菓子屋やパン屋、本屋、くすり屋、金物屋、八百屋などが並び、町の中心部となっていた。それで学校から戻って家の前で遊んでいると、よく母親におつかいを頼まれた。
路地を曲がって家1軒分を進むだけの、短い距離だ。
けれどときに、その道が怖くて怖くてしかたなかった。
白く大きな犬がつながれていたのだ。
お金を握りしめ、そぉっーと犬に気づかれないように、なるべく犬から離れて歩いた。けれど細い路地だから、犬が起きてわたしに気づいたとしても大丈夫と安心できるほどの距離を離れることができない。
あるときは行き道で吠えられ、おつかいの店にたどり着けず、泣きながら家に走って帰った。
あるときは帰り道で吠えられ、おつかいで買った卵を落として泣きながら走って帰った。
走ればよけいに吠えられる、とわかっていても走ることをやめることはできなかった。一方でおつかいがなくなることもなく、そんな試練の日々はけっこう、長く続いたように思う。
父は強面だが、犬が好きだった。わたしの犬嫌いをなんとか克服させたいと、小学5年の誕生日に犬を飼ってくれることになった。
やってきたのは小さな小さなオスのマルチーズ。
まるでぬいぐるみのようなその子は、小さなわたしの手の中におさまり、すやすやと眠った。起きているときは家の中をクルクルとまわった。そして、毎日の散歩はわたしの役目となった。
おつかいにいく道と反対側に行くと港がある。散歩のコースは、家を出て港の防波堤を進み、灯台のある先まで。
毎日、マルチーズと灯台の先まで歩いて、漁から帰ってくる船をみたり、夕日を眺めた。そして決して、同じそらはないことを知った。数十年経ってもあいかわらず、今日のそらは昨日と違う。
1件のコメント
新連載「そらのうみをみていたら」スタートおめでとうございます。とてもいいタイトルです。とてもいいタイトルバックの写真です。ぼくの長いだけの編集者生活の中でも、人に伝えたい屈指のデザインです。なんとこの文を読んで、百年前の過去から著名人が感想をいっているのでご紹介します。ぼくも彼とまったく同じ思いです。「私は個々の人が個々の人に与へられた運命なり生活なりを其儘(そのまま)に書いたものが作品と思ひます。何となればそれに接した時自分に与へられないものを見出して啓発を受けるからであります。あなたの書いたものも私にとってその一つであります。」(大正3年1月17日付け書簡 夏目漱石から小泉鉄宛て)
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