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そらのうみをみていたら。

2012-04-9
グランマひろこのおうちごはん

ずいぶんとご無沙汰しました。
光陰矢の如し。
2012年はもう、4月に突入して世間は新生活がはじまっている。
年を重ねると、時間が経つのが早く感じるのは、ジャネーの法則といわれ、生涯の時間の心理的な長さは年齢の逆数に比例するそうだ。

つまり、50歳の人にとって1年の長さは50分の1だが、5歳の人間にとっては5分の1。年々早く感じるのを防ぐには、子どものころのように新しいこと、知らないことを日々体験していくのがいいのだろう。

昨年11月から「新しいこと」を始めた67歳の女性にお会いした。

「人生はあっという間。みじかいものですからね」
ご自宅でちょっと特別な家庭料理「グランマひろこのおうちごはん」を提供している須藤浩子さん。
スタートして数カ月。早くもクチコミで評判を呼び、FM横浜でも取り上げられたこともあり、週2回の食事会は次々と予約で埋まっている。

「日本ってほんとにおいしいものがたくさんあるでしょ。豪華なフレンチやイタリアン、おでんやラーメン、居酒屋と広い領域で。いまは恵まれた時代だからみなさん、おいしいものを食べ尽くしていると思うんですよ。すると家庭料理が珍しいのかもしれないわね」

家庭料理といっても、「グランマひろこのおうちごはん」のメニューは“ちょっと特別”。浩子さんがこれまで滞在したことのあるブエノスアイレスやニューヨーク、チリなどで食べられている家庭料理が組み込められている。

ここで少し浩子さんの経歴をご紹介。

浩子さんが初めて海外へ足を踏み入れたのは、今から45年前の1967年。行き先は日本から一番遠い国、アルゼンチンのブエノスアイレス。
「当時、母がブエノスアイレスで生け花の先生をしていたので、会いに行ったんです。羽田からホノルル、ニューヨーク、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブエノスアイレスって何度も乗り継いで行きました。ほんとに遠い国でしたね」

その後、結婚やお仕事のご縁で、ニューヨークやロサンゼルスをはじめ、いろいろな国を訪れた。そのどこの国でも食事の面で苦労することはなかったという。

「グアテマラで牛の血の入ったチョリソーがあって、その土地の人でも食べる人は少ないらしいのだけど、私は大好きでおいしいっていただくの。食いしん坊なのよ、小さい頃から(笑)」
もちろん、「グランマひろこのおうちごはん」がそんな刺激的なメニューばかりというわけではない。けれど、純日本風な家庭料理とも違って、毎回新鮮な驚きがある。私は3度程おうちごはんをいただいたが、なかでも珍しかったのは茄子のプディング。

「私も最初いただいたときは驚いたわね。アルゼンチンで教わったお料理で、パテのようでコクもあるからお肉でできていると思ったら、茄子だというの。それから作ってお出しするとみなさん驚かれますね」

こちらも見た目に衝撃的なキャベツの丸ごと煮。

意外にも、鎌倉の精進料理をアレンジしているそうだ。
「以前、お肉が苦手な方がいらっしゃって、代わりに高野豆腐を甘辛く煮て、フッドプロセッサーで細かくして卵などを詰めて蒸したら喜んでいただけたの」



楽しいメニューはブログでご覧ください。
いただいたお料理の作り方レシピをお土産にもらえます!

浩子さんの料理魂は、育ての親である明治生まれのおばあさんから引き継がれたもの。
「戦後のモノがなく、世間全般が貧しい時代。そんな中でも祖母はアメリカの宣教師から、当時としてはハイカラな料理を教えてもらっていて、同じ材料と時間でも、楽しくおいしいものを作っていました。例えば前の夜がカレーだったとしたら、翌朝は具を細かく刻んで牛乳で伸ばしてスープにする。それが私には魔法のように思えたんです。小さい頃、虚弱体質だった私は、食いしん坊だったから生き延びられたのよと祖母に言われたことがあります。“食べることは生きるコト”と祖母が身をもって教えてくれましたね」

こんなこともあった。
まだ白血病が助からない病気と言われていた頃。浩子さんの親しい友人がその白血病を患い、新薬を試しながら必死に生きようと頑張っていた。でも薬の副作用でなにも食べられないという状態のとき、浩子さんはもしかしたらと思いつき、ビシソワーズ(冷たいじゃがいものスープ)を魔法瓶に入れて病院へ持って行った。すると、その友人はスープを口にし、目を閉じて「…おいしい」と言ってくださったそうだ。
「動物のように、生命のためだけに食べるのではなく、人にとって最後の一瞬までおいしいと思って食べることに大きな意味があると思うの」

それはおうちごはんを始めて、さらなる確信になっている。
「この広い地球の中で生まれてから死ぬまでの間に、会えるご縁は限られています。そうしてご縁のあった方と楽しく食べることを共有できるのは、心のつながりに大きく作用する気がするんですね。あたたかい何かがそこから生まれてくると思うんです」

ところでひとつ、気になることがあった。
このおうちごはん、紹介者だけでなく、どなたでも食べにいくことができる。ご自宅に見ず知らずの方を招くことに、不安はないのだろうか?

「それは考えたことないわね(笑)。私は人に疑問を持つというのがないの。それは生まれた時から天涯孤独だと思ったせいかもしれない。父が結核になり、姉も感染して亡くなった。母はアルゼンチンへ行き、私は祖母に育てられたんです」

浩子さんのおばあさんは、浩子さんをかわいそうに思い、とても大事に育てた。自分のやりたいことが通らないことがあまりなく、小さな浩子さんはわがまま娘に育っていったという。

「それで小学校に入ったらいろんなことが通用しなくて、すごくショックだったのね。ある日、同級生から“ひろこちゃんのわがまま!”って言われて。でも、私はわがままという言葉すら知らなくて、祖母に「わがままってなに?」って尋ねたら「自分のことばかりしか考えないで勝手なことをいうことよ」と言われて、ドッキーンとしたの。もし私に周りの人がいなくなったらどうしようって。でも、どうしても虫の好かない人や嫌だなと思えてしまう人がいた。それで、ずっとどうすればいいかを子どもなりに考えていたのね」

そして、浩子さんはある方程式を思いついた。
「人間には良いところと悪いところがある。だからその人の良いところを見て、そこを好きだと思ったら必ず相手も私を好きになってくれる」

中学に入ってから、この方程式を実践してみた。いわゆる不良と呼ばれるグループでも、絶対に悪い人ではないと思い込んで接した。すると彼らと仲良くなり、浩子さんのことも大切にしてくれた。
「人を大事にして、人とともに生きて行くことの原点なんです。そしたら自分が自由になったし、楽しくなった」
この方程式のおかげで、これまで様々な試練を乗り越えてこれたんだと思うという。

「私がもし、両親や兄弟に恵まれていたら、そこまで気づかなかったかもしれないの。だから、私にとって、人との出会いが膨らむってことは、何よりの幸せなんです」

最後に私がこの連載をはじめるきっかけとなったことについて尋ねた。
「震災もあり大きく変化していくなかで、どう生きるか、いろんな方の話を聞きたかったんです」

すると浩子さんは
「誤解を恐れずにいうと、これまで生きて来て、大事なものはお金ではなく、人とのつながりだと確信しています。そこにお料理はとても大事な役割があると思うんです。
たとえば、お金がたっぷりあって、高級なレストランや料亭で朝昼晩と食べられるとして、幸せかというと違うかなと思います。
おうちごはんがなぜ飽きないか、それは“いい加減”だから。お母さんはその日の天気や食材や気分によって、塩を多めにしたり少なくしたり、野菜の切り方を変えたりする。自然とちょっとずつ違う味になってるんですよ。もちろん、いい意味でね」

世の流れの中で、“いい加減”に生きて行く。
“いい加減”とは実に難易度の高い生き方だと思う。“自由”と似ていて、自分の受け取り方次第。
たとえば、浩子さんは娘さんが新社会人になったときに、こう話したという。
「私のころは、ウーマンリブといって、お茶汲みなんか女の人にやらせてはいけないっていう時代があったの。でも、なにがウーマンリブかな?と私は思っていて、女性だったら早くに出社して、笑顔でお茶を入れてさしあげたら職場も和む。いろんなことを惜しまず、一生懸命やれば、必ず自分に返ってくる。これもあの方程式と同じね。だから娘にもそれを実践しなさいって話したのよ」

ふりだしというのは、原点ということでもある。
日々の時間が流れていく中で、ああ、自分はここから出発したんだ。そんなふうに思いをはせるって、とても大事なことだと思う。
今の生活の中で、その時間を持つのが実は難しいのかもしれない。

「グランマひろこのおうちごはん」は自分の原点を感じることができる、不思議な魔法の空間。実家でも、レストランでもない、ご縁から生まれたその場所でいただくおいしいごはんが、そこを訪れた自分を励ましてくれるから。



「日本の食卓はもう少し遊びがあるといいわね。このテーブルセッティングも簡単なのよ」と折り方を教えてくれた。花器も家にあるお皿をアレンジし、テーブルを飾る布は帯を使っているそう。

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魚見幸代
魚見幸代

うおみ・ゆきよ/編集者。愛媛県出身。神奈川県在住。大阪府立大学卒業後、実家の料理屋『季節料理 魚吉』を手伝い、その後渡豪し、ダイビングインストラクターに。帰国後、バイトを経て編集プロダクションへ。1999年独立し有限会社スカイブルー設立。数年前よりハワイ文化に興味をもち、ロミロミやフラを学ぶ。『漁師の食卓』(ポプラ社)

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