salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

そらのうみをみていたら。

2011-06-2
photographerたかはしじゅんいちさん
「内観の刻」—序<前編>

「ふりだし」とは、物事のはじまり。人生というすごろくでコマを進めて行くと、「ふりだしに戻る」こともある。「死」がゴールであるならば、先を急ぐことより、「ふりだしに戻る」ことがあってもいいんじゃないか…(自分に向けた慰めでもある)。
この連載では聞き手・魚見幸代のご縁のある人々に登場いただき、人生すごろくのエピソードをうかがいます。

今回お話を伺ったのはフォトグラファーのたかはしじゅんいちさん。
お会いしての第一声は「俺今まで、ふりだしに戻った感覚ってないんだよね。戻ることは、ほぼないと思ってる」。
そんな男前のことばにいきなり引き込まれた。このあと、神泉の居酒屋で4時間半。たかはしワールドに私はすっかり酔いしれた。

1989年から19年間NYでコマーシャルフォトグラファー(商業写真家)として活躍していたたかはしさんは2年半前に、日本に拠点を移した。
その理由のひとつが「日本の美意識」を学ぶこと。
中田英寿さんの日本の魅力を再発見する旅「Revalue NIPPON Project」で共に各地を回ったり、京都や名古屋、東北など、縁のつながった職人に会いに行ったりする中、あるひとつの表現方法に思い至ったという。

「デジタルカメラで撮影をしたデータを手透きの和紙でプリントしようかと。日本の古い書はまざりものが少ない和紙だったから、これほど長く保存ができていると言われてるんだよね。普通の紙だったら色落ちするし、恐らく残っていない。デジタルという架空のデータをアナログに落とし込むとき、ひとつの方法として和紙には大きな可能性があるんじゃないかと思ってる」

その試みは、6月8日から新宿高島屋で開催される写真展「内観の刻」—序で観ることができる。

「何十年もかけてつくりあげてきたダンサーさんの素晴らしい肉体を素材として提供してもらい、華道家が生きた花を活けるように、人を『いける』感覚で撮るという、カメラマンの硬質でエゴイスティックな作品。それに和紙を使うことで、いわゆる写真表現とは違った、温かみのある世界観ができあがっているんじゃないかと思う」

もうひとつ、和紙へ落とし込むプロセスの中で気づいたことがある。それは、デジタルというのは、「写真」ではないということ。

「僕らはフィルムの延長線上としてデジタルに移行してきた。道具が変わっただけで、表現としては変わらなかったはず…。でもずっともんもんとしてたの。カメラマンによって意見がわかれるところだけど、俺の中ではデジタルカメラで撮ったものを写真だととらえればとらえるほど、不自由になって表現の幅が少なくなっていくんだよね。今回の和紙の場合、にじみの効果でどんなにサイズを大きくしても、データの足りなさを感じないし、風合いが残る。別のプロジェクトで350人以上の日本人を撮影した。この夏「NIPPON-JIN」という写真集がサンクチュアリ出版より出版予定なんだけど、このシリーズはフィルムだったらやれなかったと思う。被写体には好き勝手動いてもらってラフに撮る。たくさん撮ってもフィルム代はかからないし、あとから修正もできる(笑)」

一方で、ニューヨークの気配を撮るシリーズはフィルムでないと駄目だそうだ。

「デジタルのデータには限りがあって、その中にたくさんのデータ量をつめこみたい、綺麗に見せたい。となるといらないデータはノイズということでどんどん削って行く。でも俺がとらえたい気配はノイズの中にある様な気がしている。だからフィルムじゃなければ駄目なんだと思う。」

カメラメーカーのほうが先に進んでいて、静止画のカメラでハイビジョンムービーが撮れるようなっている以上、自分たちは写真家ではなく、映像を作る人でないとこの先、当たり前に生きて行けないと気がついた。「もんもん」から抜け出ることができて、ラクになったそうだ。

そして様々な表現方法を練っていこうと思ったところで、東日本大震災が起こった。
たかはしさんの動きは早かった。震災後5日後に地元新潟に入り、次の日から物資を避難所に入れていた。

「条件反射だね。あと、縁かな…。」

以前仕事をしたことがある地域プロデューサー本田勝之助さんが会津にいて、その彼が新潟からなら物資を入れられるということで呼びかけがあった。東京で彼のサポートをしようとメールや電話で動くが、小さいところは量が十分ではなくて、大きいところは時間がかかる。東京にいてもなにもできないと判断して、新潟に入る。が、準備は整っていなかった。

「仕分けの場所も決まってなくて、新潟のNPOや有志の人たちとまず場所を決め、その日のうちに鍵をもらい、物資を集める告知をした。翌日から集まった物資を仕分けて、その晩に会津に配送する、というのを1ヶ月やった」

慣れないことばかりだった。写真を撮るということなら、わからないことも考えれば出てくるし、聞ける人だってたくさんいる。でも、緊急支援活動はだれもがいっぱいいっぱいで、指示をあおいではいられない。例えば、いらなくなったような古着などが送られてくる。思いがあるのはわかるし、悩みはしたが、自分が責任をとるしかないと、現地でゴミになってしまう前に処理した。
あっという間に毛布もいらなくなる。必要な人がいたとしても、その場所を探しだせない状況…。それでも夜中、靴がいる、米がいる…と届くニーズには応えたいとHPにアップしていった。

「3週間目ぐらいたって、大手のNPOや企業、政府の支援も整い始めて、そろそろ緊急支援じゃなくなってきていた。そこで実際に現地に行って、被災地で実際何が起こっているのか、何が必要なのかを見て来なければいけないなっと思ったんです。ちょうど「プロジェクト結」の長尾彰さんが被災した子供たちの支援のためのリサーチに宮城石巻に入るとのお誘いを頂き、一緒に連れて行って貰った。そのあと、実はさっき話した日本人シリーズの最後の撮影地が岩手の久慈市で、そこの地域プロデューサーさんも現地の状況をみてほしいって、岩手にも行った。報道とは違って、盗難もあるし、ガソリンだって抜かれたりする。あまりにも衝撃的で…。ここは日本なのかって。でも、そんな中必死に前を向いて頑張っている人がいた。俺はこの人たちを支えたいと思った。」

とにかく人手が足りていない被災地にいかないと、という焦りと、成果が出せてないという思いに苛まれた。そして、活動資金のこと…。
「俺がちゃんとNYでお金貯めていればって、絶望したよ。1000万あれば2ヶ月間、トラック1台を押さえて好きなところに物資を入れることができた。いい年して、なんで俺は1000万が手配できないんだと…」

あるつてでアスリートが直接、支援活動しているところに寄付をしたいという話があった。NYの仲間やギャラリーからも、支援したいと申し出があった。しかし、組織でなければ税金などのことがあり、受けることができない。

そこでたかはしさんは、社団法人BACKUP CENTER JAPANをつくることを決意する。それはイベントや大道芸、子供と一緒に遊べるエンターテインメントに特化した支援活動。定期的にエンタメを派遣する活動だ。

「2、3ヶ月に1回、年間5回。それを5年は続けたいね」

被災地に行きたい。支援がしたい。だから東京で必死に働く。大事なのは、自分が2次被害にあわないこと。

「俺に説得力があればある程、被災地に貢献できる幅が広がるからね」

後編はBackup Center Japanの活動内容などのお話につづきます。

<インフォメーション>
「内観の刻」序

会場:新宿高島屋10階美術画廊
住所:東京都渋谷区千駄ヶ谷5-24-2
会期:2011年6月8日〜2011年6月20日
時間:10時〜20時(6月11日と6月18日は20時30分まで。最終日16時まで)

Artist Talk
2011年6月12日 17時~
「今」の写真に対する想いや今後のビジョンなどをお話されます。


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魚見幸代
魚見幸代

うおみ・ゆきよ/編集者。愛媛県出身。神奈川県在住。大阪府立大学卒業後、実家の料理屋『季節料理 魚吉』を手伝い、その後渡豪し、ダイビングインストラクターに。帰国後、バイトを経て編集プロダクションへ。1999年独立し有限会社スカイブルー設立。数年前よりハワイ文化に興味をもち、ロミロミやフラを学ぶ。『漁師の食卓』(ポプラ社)

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