2013-10-5
働かないアリ
あれはまだ雪が残っている頃のこと、今年の一月の終わりだったか、私は自転車を走らせ、沖縄から遊びに来た若い友だちを、近くのいこいの森公園に案内した。一眼レフカメラの基本を教えるのが目的だった。
私がカメラを教える? プロでも専門家でもない私が人様にカメラを教えるのは、大変間違ったことだが、10年近くカメラ雑誌にかかわり、すばらしい写真家を数多く取材した経験があるので、そのとき得た知識や感動を、若い友だちに伝えられればと考えた。
彼は私より30も年下だけれど、私より30倍ぐらい頭のできがよいので、絞りとシャッタースピードと適正露光の関係や、ボケ味、背景処理、アングル、レンズ特性などの基本的なカメラの知識を、あきれるほどすぐに理解し、自分の仕事に生かそうと、意欲を燃やしている様子がうかがえた。
彼はとても小さなものを相手に仕事をしている。そしてそれは、意外に速く動く。私は速く動くものを撮るときの心構えと方法についても、彼に紹介した。
その心構えについては、F1のカーレースの写真家として名高い、ジョー・ホンダさんを取材したときに聞いた言葉を伝えた。
「時速300キロの車を撮るには、どうすればいいんですか。流し撮りでも、1秒間に100メートル近く走るレーシングマシンの動きに合わせるというのは不可能だと思うんですが」と私が聞くと、ジョー・ホンダさんは、少し考えてから、静かにこう答えた。
「心をニュートラルにしておくんだ。そしてシャッターを押す」
宮本武蔵の五輪書にも確か、相手のすばやい動きに対応するためには、相手のどこか一点を注視するのではなく、漫然と全体を見ることが必要だと書いてあったと思う。まさにニュートラルの状態だ。武蔵の剣術の奥義にも通じるジョー・ホンダさんの至言を、若い友だちは痛く感心しながら、「なるほど、なるほど」と言って理解した。
そして私は、高速で動くものを撮るための流し撮りについても、彼に伝えた。
流し撮りとはいうまでもなく、カメラを固定して撮るのではなく、動いているものの動きに合わせて弧を描くようにカメラを動かしながらシャッターを切る方法だ。
この方法を使って被写体の動きに合わせてカメラを動かせば、理論上は時速300キロで走るレーシングマシンさえ、ピタッと止めて撮ることができる。しかもそれほど速いシャッタースピードでなくても撮れるから、絞りをかなり絞り込み、ピントの合った輪郭のくっきりとした写真を撮ることができる。
私はこの心構えと流し撮りの方法を、若い友だちに頭ではなく、体で理解するために、実際に彼に一眼レフカメラを持ってもらい、私が高速移動物体を投げ、それを流し撮りしてもらうことにした。
私が自転車で走り、それを撮るのもよいと思ったが、園内は自転車禁止だ。そこで私は、自分のツバ付きの黒いフェルトの帽子を、フリスビーのように放り投げた。それを彼がカメラで追いながら、流し撮ることにした。
最初はうまくいかなかったが、何回か試すうちに、冬の澄み切った青空を背景に、UFOのように飛ぶ私の帽子が、バッチリ画面に捉えられた。空とともに映っている背景の高層マンションや木々の梢の輪郭は、幻想的に流れ、不思議で面白い趣の写真となった。
これに気をよくした若い友だちが、何回も、満足のいく流し撮り写真を撮ろうとするので、私も面白くなり、今度は手袋を投げた。すると早くも流し撮りに熟達し始めた彼は、生き物と化した二つの手袋が虚空をつかまえようとしているような、哲学的、宗教的示唆に富んだ(?)写真を得ることができ、二人のテンションはどんどん上がっていった。そしてさらに私たちは、帽子や手袋といった小物では飽き足らなくなり、最後にはかなり大きな丸太を、公園の端から探し出してきて、それをエイコラショッと投げ、彼がまた見事にそれをとらえ、重量感のある物体の浮遊状況の妙を、ゲージュツ的に表現することに成功したのだった。
ウィークデイの昼日中、世間の人たちが一生懸命働いているときに、私たちは帽子や手袋や丸太を放り投げて、「撮れた?!」「ハイッ!」「背景が流れて幻想的だな。これはいい」「いいですねー」などと、キャッキャいいながら遊んでいた。
そんな楽しい写真教室から、半年余りが過ぎた先月8月のこと、彼から連絡が入った。スイスに居るという。スイスのレマン湖の畔にある大学で籍を得た彼は、そこで研究生活を始めていた。
彼が相手にしている、速く動く小さなものとは、アリである。アリのコロニーの研究をしている。しかも、彼が注視しているものは、働かないアリである。
イソップ童話のアリとキリギリスの話を持ち出すまでもなく、アリは働き者の象徴といえる。なのに働かないアリがいるとは驚きだ。なんだか私や友だちのコウタくんのことをいわれている気がする。しかし、この働かないアリは、私たちよりもヒドイ。まったく働かないらしい。私とコウタくんは、よく遊びもするが、一応人様の役に立つ本を作ったりすることもある。「働く」という行動は、自分のエネルギーを犠牲にして他者を利する=他者ために役に立つ行為を意味するので、私とコウタくんは、少しは「働く」のである。
働かないアリはコロニーの中に、ある割合(アリの種類によっては約2割)いるという。働きアリがもたらす助け合いの利益にただ乗りする。具体的にはエサをもらったり、巣の掃除をしてもらったりするそうだ。
ここまで具体的になってくると、私とコウタくんは、ますます肩身が狭くなる。そもそも、もの書きという仕事は虚業だからだ。虚業に対する言葉は実業で、実業というのは、実際に生きるために必要なお米を生産したり、魚を獲ったり、それを流通させている仕事だ。一方虚業というのは、私とコウタくんの書く原稿のように、それがなくても誰も餓死することはないという仕事である(ただし、コウタくんは生きるために役立つ本もたくさん書いてはいるが)。したがって私とコウタくんは、フリーライターでありフリーライダーである。
フリーライダーとは、ただ乗りする人であり、必要なコストを負担せずに利益だけを得る人であり、いわゆる不労所得者を意味する。働かないアリは、まさにフリーライダーである。
私たちもの書きがもらうことのある本の印税は、しばしば不労所得と呼ばれる。とうとう私は働かないアリと、区別がつかなくなってきた。
もちろん私は、もの書きすべてが働かないアリ、フリーライダーだというつもりはない。世の中の進歩のために、進歩による生産性の向上や健康の増大のために、ひいては経済、厚生事業の充実、拡大のために、日夜身命を賭して、著述業にいそしむ方々が数多くいることは、いうまでもない。私とコウタくんは、その方々にくらべ、あまりに志が低く技量も未熟だ。私たちの仕事の成果がなくても、世の中の人はまったく困らないだろうなという日々の反省が、フリーライダーの自覚を強めるのである。
そして聞くところによれば、会社にも、私とコウタくんのような、フリーライダーが存在するという。一般的には2割がフリーライダー、給料泥棒と呼ばれているそうだ。組織が成熟するとその割合が増えて、やがてみんなフリーライダーとなり、組織が壊滅するという。
私の若い友だちと同様に、働かないアリについての研究をしている進化生物学者長谷川英祐さんは、その著書『働ないアリに意義がある』〈メディアファクトリー新書〉の中で、次のように指摘する。
「『個体が貢献してコストを負担することで回る社会』というシステムが常態化すると、そのシステムを利用し、社会的コストの負担をせずに自らの利益だけをむさぼる『裏切り行為』が可能になってきます」
いよいよ私とコウタくんの分が悪くなってきた。私たちは「裏切り者」のレッテルを貼られても仕方のない存在なのかもしれない。
私の親しい若い友だちは、まさに私とコウタくんをとことん追い込み、猛省を促すべく、スイスにまで行って、働かないアリの研究をしているような気さえしてくるのだった。
去る者日々に疎しではないが、若い友だちのことや働かいなアリのことが、頭から離れていたある日、ネットでヤフーニュースを見ていたら、トップページのトピックスの一つに、こんなタイトルが出ていた。「働かないアリは長生き」(琉球新報3013-9-18配信)。記事の内容はこうだった。
私の若い友だちと琉球大学の教授が、働きアリよりも働きアリの労働にただ乗りする働かないアリの生存率が高いことを突き止め、人間社会でも見られる「公共財のジレンマ」の実例を、人間と微生物以外で初めて発見し、その研究成果が、「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」(オンライン版)に掲載される、という速報だった。
ちなみに、公共財のジレンマというのは、知らなかったので調べると、全員で協力して社会をつくれば最終的な利益が大きくなるのに、他者よりも大きな利益を得ようとして、他者の働きにただ乗りする者が多くなり、結局社会の形成さえおぼつかなくなるということらしい。
そして、「米国科学アカデミー紀要」というのもよくわからなかったのでウィキペディアを見ると、「自然科学全領域のほか、社会科学、人文科学も含む。特に生物科学・医学の分野でインパクトの大きい論文が数多く発表されている。総合学術雑誌として、ネイチャー、サイエンスと並び重要である」とあった。
おやおや、遂に私とコウタくんの逃げ場がなくなった。世界的な学術雑誌のお墨付きを得て、フリーライダーの有罪が確定したことになる。唯一の救いは、「働きアリよりも働きアリの労働にただ乗りする働かないアリの生存率が高い」という点だけだが、これもまたよく論文を詳しく読むと、生存率の高い理由は、働かないアリの増加にともない、働くアリの労働量が多くなり、過労死するからだという。なんとも罪深い、働かないアリである。
とはいえ、私の若い友だちだって、もとはといえばチョウチョを追い回していた昆虫大好き少年にすぎない。その延長でアリの巣を見つけ、アリをじーっと見つめていた。するといろいろな不思議を感じたので調べてみると、アリのコロニーの成り立ちがわかってきた。その結果を、大仰な研究論文という形にしただけのことである。私だって、自分自身やコウタくんをじーっと見つめて、なぜこの二人は働きたくないのだろうと疑問に思い調べ、巧妙な手段を講じて、ただ乗りを試みようとする二人の性根と戦略の共通性と、二人以上に狡猾なフリーライダーが、世にごまんといることを突き止め、日本は世界は、フリーライダーという名の裏切り者たちの増加により、壊滅に向かってひた走っていることを究明したのであるが、私にはこれを研究論文にする力量がないだけの話である。
けれど、そんな負け惜しみは、何の意味もない。
若い友だちが発見した、アリの世界の「公共財のジレンマ」は、ただ乗りしたいという個の欲望と組織の生産性の関係を解明しただけでなく、病原体と宿主の関係の究明にもつながるらしい。
病原体は宿主を壊滅させ、宿主もろとも自らも死滅する。しかし、病原体は消えない。働かないアリもコロニー(=宿主)を壊滅させる可能性を秘め、自らもコロニーもろとも死滅する方向に進む。けれど、働かないアリの遺伝子は引き継がれ、存在し続ける。つまり、働かないアリとコロニーの関係の研究という側面から、病原体の駆逐に迫ることができるかもしれない、というわけだ。
私は米科学アカデミーに発表する論文を書く知識も能力もないが、もう少し、いやもっと、何故コウタくんがカメのカメリに夢中になるのか、仕事より遊びが好きなのか、私は何故自転車に乗って白い雲を追いかけていると気分がいいのかということを、突き詰めて考えてみる必要があるようだ。そこから人類のために役に立つ普遍的な理論を発見することができれば、フリーライダーの汚名を返上できるかもしれないと、少しだけ思う今日この頃である。
以上で今回の筆を置こうとしたら、スイスの若い友だちから、メールが届いた。近況とともに送られてきた添付写真を開くと、部屋の中でジャンプしている彼の姿だった。なんのためのジャンプかわからない。こういう無駄な遊びは私もよくやるのだが、彼はすでに働くアリと認められた。私とコウタくんも、なんとか頑張ってキチンと、人のためになる何かをやらなくてはならない。
さて、何を? コウタくん、それについては、近々一杯やりながら考えてみようじゃないか。
2件のコメント
フリーライダーにもなりそこねた私はどうしたらいいでしょう…?(^_^)?
私は、
一生懸命働いて身体を壊している夫に支えられ、
でも少し働いてる、中途半端なアリです。
私は間違いなく長生きしますね。
コメントする ※すべて必須項目です。投稿されたコメントは運営者の承認後に公開されます。