salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2014-04-5
夏目漱石の手紙


漱石の書斎・漱石山房前のベランダにたたずむ漱石
西早稲田 漱石公園内の掲示写真 2014-1-24

 やわらかな日差しがそそぐ春の日に、バッグに本二冊を入れ、多摩湖自転車道路を西へと向かった。目的地はそう遠くない小平の駅前の喫茶店POEMだった。
 三時の約束だけれど、半ば無理やりいただいた時間だったから、少しでも早く行って待ち受けるのが礼儀と考え、二時半には店に着いた。古びた木枠のガラス戸を押し開けると、店内はウィークデイにもかかわらず、ほぼ満席のようである。
 さてどうしたものかと困って、黒目をチロチロ動かし店の奥を探し始めたら、S先生がすでに二人掛けの小さなテーブルに、両ひざを揃えるようにして行儀よく座って居た。私の気配に気づいた先生は面を向け、いつものように満面の笑みを浮かべ、開口一番「早いね、偉いねー」とおっしゃった。
 先生は五十年近く前、初めて出会った頃から少しも変わらず、誰に対しても分け隔てなく決して偉ぶることがなく、おおらかで、基本いつも笑顔だ。一言一言心のこもった優しい言い方をする、誠実で気遣いに満ちた人である。しかし、寛大さがスーツを着たような、そういう人ほどものごとにいい加減ではないということは、一応長く社会経験をしてきた私は知悉していた。先生には遅れたものの、三十分前に到着でき、せめてもの礼は尽くせたと、ややほっとした。

 それにしても、私のこの傲慢さは、どうしたものかと暗然とすることが多い。朝起きて天気がいいと、急に誰かに会いたくなり、無理やり約束をとりつけることが時々ある。そんな子供じみたやり方はもういけないと、その都度厳しく自戒するのだが、完全に戒めることがまだできない。
 私はだいたいヒマだから、いつ誰に急襲されても歓迎できるし、むしろ前もって約束をしてしまうと、未来が決まってしまったようで窮屈な感じがする。子供時代のように、会いたくなったら友達の家の前に行き、大声で叫ぶのがいい。「○○ちゃん、あーそぼ」。すると友達が不興な顔をしながら出てきて、「あーとで」と一蹴される。代わりに母親が顔を見せ、「今お勉強中なの」と冷たくあしらわれたりもする。私はしゅんとして踝(くびす)を返し、独り自転車で町内のパトロールに出かけたり、空き地に行ってコンクリートのカベに軟球をぶつけたりして、大リーガーになる夢を見る。そんなときの私の心中は、今も昔も自らの身勝手を棚に上げて、人の薄情がうらめしく、いまいましい。度し難い性格と言わざるを得ない。

 S先生との約束も、その日だった。天気がよく、しかも自分が書いた新刊本の発売日だったから、突然先生に電話して、「今日お届けに上がるだけ上がりたい。玄関先で失礼するから」と告げた。すると先生は少し考えてから、夕刻小平方面に行く用事があるので、その前にちょっと会おうといってくださった。少し考えてからといっても、それはほんの一瞬ではあったが、その間に先生は、その日の予定を修正してくださったに違いない。私はまた先生に甘えてしまったと思いながらも、先生の温情を引き出せたことに、いやらしく満足した。

 S先生は、私が中学生のときに通っていた近くの学習塾の講師で、当時は大学生だった。男子にも女子にも人気があり、授業が終わるとプレハブの教室前のコンクリートの三和土にジーンズのまま腰掛け、群がってくる中学生の男女何人かと、学校のこと、恋愛のこと、クラブのこと、いろいろな話を日が暮れるまで続けるのがいつもだった。私はその輪の中に入ることはできなかったが、先生が私を見つけると時々笑顔で二言三言声をかけてくれるのがとても嬉しかった。
 先生は私のクラスの担当ではなかったし、そんな具合で特に私との関わりが深かったわけでもないのに、私は一方的にその後も先生を慕い、大人になってからも、折に触れて事に寄せて先生にお願いごとをしてはばからなかった。

 私は自転車を急がせほてった体を鎮めるために、アイスコーヒーを注文したあと、慌ただしく本を取り出し、先生に渡した。すると先生はすがすがしい笑顔で、「今度は夏目漱石の手紙か。ありがとう」と答えてから、耳を疑う意外な言葉を発せられた。
「ぼく、漱石の手紙、暗記しているよ」
 もちろん声は聞こえてきたが、初め何を言われているのか、すぐには理解できなかった。なぜならS先生が文学に興味があるとは思っていなかったからだ。長年コンピュータ関連サービス企業のSEとして活躍し、リタイヤー後も豊富な人脈を糧に、人材派遣サービスの仕事などに関わっておられる先生の口から、まさか漱石の手紙、暗記、といった語句が出てくるとは、思いもしなかった。鼓膜にかすかに残った先生の声の痕跡をたどり、いぶかりながら聞いてみた。
「えっ、アンキ? アンキって、どういうことですか」
「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。……あせっては不可(いけ)ません。頭を悪くしては不可(いけ)ません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉(く)れません。うんうん死ぬまで押すのです……」
 先生は、すらすらと長い手紙を暗唱し始めた。聞けば、高校時代、現国の名物先生が、この手紙の暗記を全員に命じたそうだ。だからクラス会で集まると、全員で漱石の手紙をスラスラと暗唱し、五十年前の青春を思い出すのだそうだ。私はアイスコーヒーのストローを口につっこんだまま、しばし唖然とするばかりだった。

 S先生が暗唱したのは最晩年、四十九歳の夏目漱石が、二十五歳の芥川龍之介に与えた手紙だった。四百字詰原稿用紙、五枚以上になる長大なもので、文士として立つための心構えを説いている。私は漱石の書簡を長年読んできて、もちろんこの手紙のことはよく知っていた。幾度か自分の本にも引用しているが、まさか小平駅近くの喫茶店POEMで、この手紙の朗読を聞こうとは、想像することなどできなかった。
 一人の人間がどのような成分からできているかは、非常に興味深い問題である。そして、予測し得ない成分の存在を確認したときの驚きは、また格別だ。まさか先生を構成する成分のひとつが、漱石だったとは。
 しかし、私の心の波立ちは、それほど時間を要することなく凪いでいった。ほどなく、漱石という大きく穏やかな湖に浮かぶいくつもの小舟のひとつに、先生の姿を見つけることがたやすくできた。
 さらには、漱石という大海に、日本という一艘の船が、浮かんでいるようにも思えてくるのだった。

 私は二時間もの長い時間を私のために突然割いてくだったS先生に帰り際、さらに厚かましいお願いをかぶせた。N先生にも本を渡してほしいとお願いしたのだ。S先生はその日、N先生とその教え子たちと共に、立川で旧交を温める計画だった。私は当時大学院に通っていたN先生を私淑し、倒れそうな重い本棚に囲まれた狭い下宿にお邪魔して、経済学や教育についてご高説を拝聴し、痛く感動した思いがあった。その際N先生の厳密さにも驚かされた。N先生は実にさまざまな勉強をしておられ、その一端を学生だった私に教えてくださった。
「ぼくは、文章表現についても勉強しているんだ。そこでこんな文章の書き方という本も読んでいる。でも、この本はいい加減だ。センテンスは短いほうがいい。五十字以内がいいと、ほら、ここに書いてある。だから僕は数えたんだ。するとこの本には、何十か所も五十字以上のセンテンスがある。著者に文句を言ってやろうと思っているんだ」
 世の中はこういう人を、融通の利かない人というかもしれない。けれど私は昔から、あまりにおおざっぱだったし、今も依然としていい加減だから、N先生のような厳密さは、常に尊敬しなければならないと思ってきた。
 とはいえ、N先生の社会の授業を受けたのは、約五十年前。そして最後にお会いしたのは40年前のことになるから、いくら私が先生を覚えていようと、先生はその後大学の教授になり、多くの学生と接してきて、私のことなどとうに忘れているに違いないと想像するのが順当だった。たとえ忘れていらしてもいいから、当時の感謝をこの一書に託したいという思いで、そんな気持ちをつづった手紙を添え、S先生に本とともに託すことにした。

 後日、N先生から長いメールが届いた。
 私は心中快哉を叫んだ。それでこそN先生と。
「老人の戯言と笑い流して下さい」と断りながらも、期待道理先生は、私の本の文章表現のあいまいさを指摘してくださった。さらに先生は私の思い出になかった事件を振り返り、私が先生の記憶の一部に鮮明に残っていることを示された。このように。
「ボクが想い起こすのは、貴兄が小6のとき、三振させられたことです。一振、二振の球は、高めでストライクゾーンを外れていると読みながら、軽く当ててファールに、というのが空振り。三振めは、少し真剣になって臨んだのですが、見事空振り。6年生でもこんな速いボールを投げるのか、と感心させられたものでした。」
 私はあの頃大リーガーになることを夢見て、少々おおげさに言えば、漱石いうところの「根気づく」で日夜トレーニングに明け暮れ、野球を「うんうん」押していた。だから、「一瞬の記憶」で終わることがなかったかもしれない、などと、ちょっとばかり思うのだった。

 こんなふうに、昔の恩師を美的に懐かしむのは、過去を美化しようとする人間一般の性向によるものかもしれないし、年齢を重ねるほどその傾向が強くなるためともいえる。
 しかし、私はそれだけではないと思っている。私は夏目漱石の書簡二千五百通余りを何年かかけて子細に読み込み、漱石が芥川龍之介ら門下生たちと繰り広げた師弟関係の豊かさや美しさに触れ、それに憧れただけではなく、自分の経験に潜んでいる師弟関係の中の美的な面を、改めて味わいたくなったのだという気もするのである。
 漱石だって芥川だって、ただの人間だ。そうたいしたものじゃない。私たちとそれほど違うところがあるはずはないだろう。
 もちろん、S先生をはじめとする、私が半世紀にわたり親愛を寄せる恩師たちは、漱石とはまったく異なるいつもの特性を備えている。ある人はギャンブラーである。ある人は冒険家である。ある人は科学者で、ある人は教育者。そしてある人は詩人である。しかし、漱石と共通する点がひとつある。
 そのひとつこそが、子弟の関係の中に、すがすがしく美的なものを見出すきっかけを、いつも与えてくれるのである。
 そのひとつとは。あえて言うまい。
 言ってしまえば、逃げていく性質のものだからだ。

“夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫”
夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫

中川 越
マガジンハウス

1,400円+税

気持ちを通わす、こころの伝え方、そのヒントは漱石の手紙にあった。
夏目漱石の書簡は、2500余現存し、その内容は、生活全般にわたる。しかも、漱石の手紙は、芥川龍之介、武者小路実篤、佐藤春夫はもとより、多くの文人たちが愛読し、そこから多くを学んでいる。生活書簡からにじみ出る、漱石の面白さ、そして、人生をどう生きるか、楽しむかということについて、手紙の端々から学びとることができる読み物。


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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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