salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2013-12-5
カイツブリとお金


武蔵関公園 2012-11-22撮影

 秋も暮れ、街中落ち葉だらけの冬が来た。公園を訪れ、乾いた落ち葉を踏みしめて自転車を漕ぐ。ザクザク、ミシミシ。桜の落ち葉の紅のグラデーションは、夕焼けのようだ。これが小判だったらなとも思う。でも本当にそうだったら、一枚も落ちてはいない。
 漱石の秋の手紙の書き出しにある、こんなのが好きだ。
「伊香保の紅葉を貰って面白いから机の上に乗せておいたら風がさらって行って仕舞った。どこをたずねてもない」
 真似をして赤くなったモミジを公園で拾ってきて、白いテーブルの上に置いた。予定していた来客に風流をひけらかす計画だった。閉め切った部屋だから、モミジは風にさらわれず、そのままそこに居たけれど、客が来るころには、時が赤を奪ってしまった。枯葉も生きているらしい。とくに葉の薄いモミジは乾燥に弱く、鮮やかな赤はすぐに茶色く変色し、星形は無残にしわ枯れてクシャクシュになってしまった。
 モミジはアッという間に精彩をなくした。漱石は机に乗せておいて鑑賞したというふうなことを書いていたが、ウソをついたのかもしれない。だとしたら、きれいなウソだ。
 
 昔よく酒を飲んだデザイナーは、都心の真ん中に住んでいた。流行りのショップや食べ物屋、先端のファッションに囲まれて、新しいデザインを感じて暮らすのも仕事のうちと考えていたのだろうか。けれど彼はときどき山に出かけた。トレッキング程度らしいが、ともかく山はいいと言った。都会も自然も好きですよという広い感受性を誇示するための気取りの一種かと疑い、私はちょっと意地悪に自然のどこがいいのかと尋ねた。すると彼は照れ臭そうに答えた。「都会で見るものには、全部値段がついている。ぼくのデザインする商品にも。でも、山の中の葉っぱの一枚一枚には、値札がついていないんだよな」と。

 太宰治の作品に、「私は、七七八五一号の百円紙幣です。」で始まる、「貨幣」という短編がある。太宰が焼却処分間近い百円紙幣に成り代わり、過去を述懐する。「焼かれた後で、天国へ行くか地獄へ行くか、それは神様まかせだけれども、ひょっとしたら、私は地獄へ落ちるかも知れないわ。生れた時には、今みたいに、こんな賤(いや)しいていたらくではなかったのです」などと。
 ちなみに、七七八五一号の独白が女言葉なのは、貨幣は外国語で女性名詞だからだ。彼女の話によれば、生まれた時分は幸福だったらしい。
「はじめて私が東京の大銀行の窓口からある人の手に渡された時には、その人の手は少し震えていました。あら、本当ですわよ。その人は、若い大工さんでした。その人は、腹掛けのどんぶりに、私を折り畳たたまずにそのままそっといれて、おなかが痛いみたいに左の手のひらを腹掛けに軽く押し当て、道を歩く時にも、電車に乗っている時にも、つまり銀行から家へと、その人はさっそく私を神棚にあげて拝みました。私の人生への門出は、このように幸福でした」
 それなのに、なぜ、地獄に落ちるかもしれないと彼女が思うかというと、恥ずかしくて仕方がない臭気が、体に付いてしまったからだ。
 神棚に上げられ拝まれた幸福な門出のあと、七七八五一号はすぐに大工のおかみさんに質屋に連れて行かれ、着物とかえられ、質屋の冷たくしめっぽい金庫に入れられてからというもの、次々に人の手に渡り四国や九州を転々として、めっきり老け込んでから東京に戻ると、「それからまもなく、れいのドカンドカン、シュウシュウがはじまりましたけれども、あの毎日毎夜の大混乱の中でも、私はやはり休むひまもなくあの人の手から、この人の手と、まるでリレー競走のバトンみたいに目まぐるしく渡り歩き、おかげでこのような皺(しわ)くちゃの姿になったばかりでなく、いろいろなものの臭気がからだに附いて、もう、恥ずかしくて、やぶれかぶれになってしまいました」ということだったようだ。
 彼女が、自分の体についた、恥ずかしくて仕方のない臭気については、さらに次のように説明している。
「けだものみたいになっていたのは、軍閥とやらいうものだけではなかったように私には思われました。それはまた日本の人に限ったことでなく、人間性一般の大問題であろうと思いますが、今宵死ぬかも知れぬという事になったら、物慾も、色慾も綺麗に忘れてしまうのではないかしらとも考えられるのに、どうしてなかなかそのようなものでもないらしく、人間は命の袋小路に落ち込むと、笑い合わずに、むさぼりくらい合うものらしうございます。この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに、自分だけ、あるいは自分の家だけの束(つか)の間(ま)の安楽を得るために、隣人を罵(ののし)り、あざむき、押し倒し、(いいえ、あなただって、いちどはそれをなさいました。無意識でなさって、ご自身それに気がつかないなんてのは、さらに怒るべき事です。恥じて下さい。人間ならば恥じて下さい。恥じるというのは人間だけにある感情ですから)まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をしているような滑稽で悲惨な図ばかり見せつけられてまいりました」
 そんな状況の中で人々の間を渡り歩き、臭気を身にまとい、疲れ切った七七八五一号が、どう救われたのか救われなかったのか、結末はあえて伏せてご一読をぜひ勧めたいが、この作品は、希望と欲望と幸福と不幸、たくさんの思いを身にまとう、あまりに現実的な、あまりに抽象的な、その意味において詩的な、貨幣というものの不思議さを、改めて感じさせてくれる。
 
 漱石の「永日小品」という随筆風の小話を集めた作品集にも、「金」という興味深い作品がある。それほど長くないから、そのまま以下に紹介する。

 劇烈な三面記事を、写真版にして引き伸ばしたような小説を、のべつに五六冊読んだら、全く厭になった。飯を食っていても、生活難が飯といっしょに胃の腑まで押し寄せて来そうでならない。腹が張れば、腹がせっぱ詰まって、いかにも苦しい。そこで帽子を被かぶって空谷子(くうこくし)の所へ行った。この空谷子と云うのは、こういう時に、話しをするのに都合よく出来上った、哲学者みたような占者(うらないしゃ)みたような、妙な男である。無辺際(むへんざい)の空間には、地球より大きな火事がところどころにあって、その火事の報知が吾々の眼に伝わるには、百年もかかるんだからなあと云って、神田の火事を馬鹿にした男である。もっとも神田の火事で空谷子の家が焼けなかったのはたしかな事実である。
 空谷子は小さな角火鉢(かくひばち)に倚(も)たれて、真鍮(しんちゅう)の火箸で灰の上へ、しきりに何か書いていた。どうだね、相変らず考え込んでるじゃないかと云うと、さも面倒くさそうな顔つきをして、うん今金(かね)の事を少し考えているところだと答えた。せっかく空谷子の所へ来て、また金の話なぞを聞かされてはたまらないから、黙ってしまった。すると空谷子が、さも大発見でもしたように、こう云った。
「金は魔物だね」
 空谷子の警句としてははなはだ陳腐だと思ったから、そうさね、と云ったぎり相手にならずにいた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描かいて、君ここに金があるとするぜ、と丸の真中を突ッついた。
「これが何にでも変化する。衣服(きもの)にもなれば、食物(くいもの)にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」
「下らんな。知れ切ってるじゃないか」
「否(いや)、知れ切っていない。この丸がね」とまた大きな丸を描いた。
「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利(き)き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」
「どうして」
「どうしても好いが、――例えば金を五色(ごしき)に分けて、赤い金、青い金、白い金などとしても好かろう」
「そうして、どうするんだ」
「どうするって。赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦(かわら)の破片(かけら)同様まるで幅が利きかないようにして、融通の制限をつけるのさ」
 もし空谷子が初対面の人で、初対面の最先(さいさき)からこんな話をしかけたら、自分は空谷子をもって、あるいは脳の組織に異状のある論客と認めたかも知れない。しかし空谷子は地球より大きな火事を想像する男だから、安心してその訳を聞いて見た。空谷子の答はこうであった。
「金はある部分から見ると、労力の記号だろう。ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから、同じ金で代表さして、彼是(ひし)相通ずると、大変な間違になる。例えば僕がここで一万噸(トン)の石炭を掘ったとするぜ。その労力は器械的の労力に過ぎないんだから、これを金に代えたにしたところが、その金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。しかるに一度(ひとたび)この器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在(だいじざい)の神通力を得て、道徳的の労力とどんどん引き換えになる。そうして、勝手次第に精神界が攪乱(かくらん)されてしまう。不都合極まる魔物じゃないか。だから色分(いろわけ)にして、少しその分(ぶん)を知らしめなくっちゃいかんよ」
 自分は色分説(いろわけせつ)に賛成した。それからしばらくして、空谷子に尋ねて見た。
「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収される方も好かあないんだろう」
「そうさな。今のような善知善能(ぜんちぜんのう)の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」
 自分は空谷子と、こんな金にならない話をして帰った。

 人間はしばしば、身に余る、手におえない発明をして喜び、苦しむ。その最たるものがお金かもしれない。
「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利(き)き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」
 そんな時代が来たら、私のような人間が受け取ることのできるお金は、五色のうちの何色なのだろうかと思ったりもするが、ともかくもう少しお金があるといいなというあさましい気持ちは消せないし、一人で仕事をするようになってからの三十五年間というもの、一日としてお金のことを考えなかったことはなかったなとつくづく思いながら、さっきまで潜ったり浮かんだりを繰り返していた公園の池のカイツブリをふと見ると、冬にしては暖かな昼下がりの日和の中、池の真ん中にぽっかり浮かび、丸くなって昼寝をしていた。その隣には銀杏の落ち葉が浮かんでいる。
 気持ちよさそうだなと思い、持参したカメラの望遠で、銀杏とカイツブリを撮ろうとして驚いた。カイツブリはとても小さな水鳥で、肉眼の遠目には首をひねってクチバシを背中の羽毛につっこみ、昼寝をしているとばかり見えたが、望遠レンズをのぞいて拡大してみると、片目をしっかり見開いていたからだ。
 穴のあいたコインのようなその目は、私を気の毒そうに見つめていた。

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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