2015-07-25
東伏見早大プール
砂利を混ぜたプールサイドのコンクリートは、真夏の太陽に晒され、その上をまだ柔らかな子どもの素足で歩くと、砂利の凹凸が足裏を刺激してちょっと痛く、そして火傷しそうなほどに熱かった。
準備運動もそこそこに小学校低学年のその少年は、50メートルプールに満ちあふれる人々の合間をジグザグにずんずん泳いで進んでいった。足裏はすぐに気持ちよく冷やされ、人々の歓声が少年の浮き立つ心をさらに弾ませた。
しかし、一度顔を水中に沈めると、歓声は急に静まり、ごぼごぼと泡の音があちこちから聞こえ、人々の手足がスローモーションで動いていた。水面一枚で区切られた別世界の不思議に少し心細さを覚え、少年は助けを求めるように、プールサイドにいるはず彼の父親を捜した。赤い海水パンツから腹がはみ出した父親は、まだていねいに準備運動を続けていた。少年は父親が自分を見守っていることを確認して安心し、気を取り直して向こうのプールサイドへの進行を続けた。
父親が、プールの中の大勢から、たやすく少年を見つけ出せたのは、少年の姿が他と明らかに異なっていたからだ。少年一人だけがライフジャケットを装着し、しかもその色は、鮮やかなオレンジだった。
今から五十年前のことである。当時、プールに浮き輪を持参する子供はいても、ライフジャケットを着けて泳ぐ者は、子供も大人も皆無だった。恥ずかしがり屋の少年ははじめ人中で目立つことを嫌い、ジャケットを力弱く拒んだ。しかし、父親に抗議を無視され渋々従ううちに、足の届かない大人用のプールでも自由に泳げることに味を占め、当初ジャケットを拒んだことを、いつの間にか忘れていた。
少年は、父親から教わった平泳ぎで得意になって大人用プールをスイスイ泳いだ。街々に水泳教室のない時代、足の届かない大人用プールを自由に泳ぎ回る小学校低学年の子どもは、少年以外にはいなかった。たとえジャケットの力を借りているにせよ、少年の自尊心は満たされた。そして、ジャケットを着ることにより、恥ずかしがり屋の自分の殻を脱ぎ捨てることができ痛快だった。
少年の晴れ舞台は、西武新宿線東伏見駅前にあった。1960年のローマ五輪で銀メダルに輝いた山中毅選手が所属する、由緒ある早稲田大学水泳部の専用プールである。正式な競技会が開ける50メートルプールと、高い飛び込み台のある水深5メートルのプール、そして大人のひざぐらいの深さしかなく、真ん中に噴水の付いている幼児用プールの3種類があった。もともとは早大の水泳部のプールだから、幼児用は一般開放されるようになってから設置されたに違いない。
近隣の子どもたちは、皆ここでプールを初めて体験することになる。まず幼児用の足の届くプールから始める。泳ぐというより水遊びの延長だ。そして、小学校中、高学年となり、泳ぎがある程度できるようになると、50メートルプールの浅いほう、すなわち、競技用のスタート台がある側とは逆の端付近で泳ぎ始める。スタート台がほうの水深は約2メートあり、大人でも足が届かないが、逆側の端のほうは、小学校高学年になると、爪先立てば頭の半分が水上に出て、アゴを上げると口を水面から出して息ができた。
いざとなればいつでも足を水底につけることができれば安心だ。しかし、足が届かない底なしの不安を抱きながら泳ぐスリルは、快感にもつながる。ライフジャケットで安心を得ながらも、底なしのプールを泳ぐ冒険に、少年は酔い痴れた。
また、さらに少年を魅了する出来事が、このプールでは起こった。それは父親の泳ぎっぷりだった。
50メートルプールを利用する人々のほとんどは、50メートルを泳がず、プールの横幅15メートルほどを泳いだ。少年もその群れに従って泳いだ。
ところが父親は、50メートルをそのまま悠然と縦に泳ぐことがあった。スタート台からプールの中ごろまで、水深が深い所には人もまばらで、そのあたりを泳ぐとき、プールはまさに父の一人舞台だった。しかもその泳姿は、少年の目にも実にあでやかなものだった。
クロールの腕の抜き上げがスムーズでしなやかでリズミカルでゆったりとしていた。そのときの少年の語彙にはなかったが、プールの中で誰よりも品格に満ちていた。
さらに、時よりクロールにまじえる古式泳法の抜き手は、クロールにもまして高い格式を感じさせ、泳ぐ者の人品を錯覚させる威力さえあった。
父親は、東伏見早大プールにおける、夏の王者だった。そして少年は、その正統な従者だった。
しかし、王者はすぐに消えた。泳ぎ終えて更衣室で父親は、タオルもかけずに赤い海水パンツを脱ぎ、誰はばかることなくぶらぶらさせて、シャワーを浴び、またぶらぶらさせてロッカーまで戻り、真っ白な越中ふんどしをきりりと締めた。少年はその一連の父親のふるまいが恥ずかしくてたまらなかった。さらに、プールを出ておでん屋で注文するとき江戸っ子の父親は、「おやじ、大根とがんもとちくわぶ」と、叱るように大声で注文した。おでん屋のおじさんは機嫌よく、「へい、旦那ビールは? キリン? アサヒ?」と答えるのだけれど、少年は父親がとても威張っているように感じられた。おまけに少年は、おでん種で一番嫌いな三種類、大根とがんもとちくわぶを分け与えられ、仕方なく飲みこむようにして食べたのだった。
炎暑の中自転車で図書館から仕事場に戻るとき、近所の小学生が大きなビニールプールで、気持ちよさそうに水しぶきを上げていた。遠い日、父親とプールに通ったことが、その隣に思い出された。
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