salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2014-08-25
湘南の思い出


平塚の海岸 2014-8-20 撮影

 思い立って鎌倉由比ヶ浜から、徒歩で海岸伝いに九州を目指した。ナップサックには10リットル入るポリ水筒と薄手の毛布と地図と文庫本数冊。どんな本か詳しくは忘れたが、一冊は砂漠で隊商となったランボーの詩集だった気がする。
 海を見ながら毎日太陽を追いかける旅を計画した。歩き疲れたら、夜空と陸とのすき間にもぐりこんで、草を枕に満天の星を数えながら朝を迎えようと思った。
 杜撰な計画だった。
 由比ヶ浜を後にしてしばらくすると、海岸が途切れるなどして、砂浜を歩けなくなり、仕方なく沿岸道路に乗った。側道を歩いていたら、車が凄まじい勢いで後方から通り過ぎ、そのうちの何台かに一台は、けたたましくクラションを鳴らしながら私を追い越して行った。車道と側道との間は、かなりのスペースがあるというのに、失礼な連中だと腹を立てた。しかし、あまりに次々にクラクションが鳴らされるので、何か自分に落ち度があるのかと周囲を見回すと、自転車も通行人も、私以外にはいないことに気がついた。私はいつからか自動車専用道路を歩いていたらしい。
 高速道路をトボトボと歩いていたのと同じだった。それを知ってにわかに恐ろしくなった。通り過ぎた自動車のドライバーたちは、クラクションを鳴らしても鳴らさなくてもその数だけ肝を冷やしたに違いないと反省し、すぐに道路外に逃れ命拾いをした。

 春、出版社に就職したが、うまくはいかず、夏前には辞めた。会社は私に辞めることを勧めた。私の両親、先輩、周囲は、我慢を勧めた。
 あの人たちと日々茶番を演じる能力が、私にはなかった。それが一生続くかもしれないと思ったら、居ても立ってもいられなくなった。
 辞めてからの計算は何一つない。
 とりあえず思いついた計画が、海岸伝いの西への旅だった。
 
 私は所定の路線からは外れたのだから、既成の鉄路に従う旅を潔しとはしなかった。足の向くまま気の向くまま、空と海と陸とを見ながら、西へと向かい、私の進むべき未来を考えるのである。
 だが、この旅はすぐに、私の颯爽とした目論見を根底から覆した。
 10キロ余りの重量のナップサックを背負い、真夏の炎天下、主に砂浜を歩き続けていると、何一つ考えなかった。少なからず私を捉えて離さない将来への不安も、いつの間にかひたたる汗とともにすっかり蒸散してしまうのだった。そんなことより、背中の三浦半島が小さくなり、江の島が大きくなって、そして伊豆の山並みも前方にうすぼんやりと見え始め、富士山さえも手招きする。私はこの青い、蒼い大パノラマを独り占めにしながら、快適な旅を一歩一歩確実に進めていく充実を、体全体で感じていた。

 私の入った会社のボスは、業界の風雲児としてつとに知られ、一代で巨万の富を得て、都心の一等地にビルを構えた立志伝中の人物だった。財界、政界、マスコミ界の大立者たちと次々に親交を結び、独創的なアイディアと人脈を駆使して、出版界のみならず、不動産、通信、サービス業界などなどに進出していった。
 ボスは社内で王様だった。王様ゲームのように自由に命令を下し、従わない兵卒を公然と恫喝し、震え上がらせた。絶対服従の世界に生まれて初めて接した。社員の一部はボスを真似、社外の下請け業者に対してボスと同様に振る舞った。
 ある日印刷会社の営業部長が、社内のフロアーの真ん中で、衆人環視の中、土下座をして、土足で歩き回る絨毯の床に何度も額をこすりつけていた。50がらみの営業部長は、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、鼻水を垂らしながら上ずった大声で、「どうか、お許しください。打ち切りだけは、ご勘弁ください」。値引きをしないなら、印刷物の年間契約を打ち切るといわれ、必死に哀願しているところだった。
 ボスに恫喝され、衆目も憚らず涙ぐんでしゃくりあげていた人が、今度は下請け業者をいじめ抜いている。学校を出たばかりの私は、こんな世界が現実にあるとは想像もできなかった。
 後で社内の親しい先輩にこの一件を話すと、彼はニヤニヤしながら、「印刷屋だって、土下座なんて平気なんだよ。涙もバケツの一杯ぐらいは用意している」ということだった。
 どうやら私の見た現実はゲームらしいから、深刻に考える必要はないことがわかったけれど、大の大人が取り組むには楽しくないゲームだった。それに、傍観者としてならまだしも、私もゲームのメンバーの一員であるという事実は、私の心をさらに重くした。
 
 たとえばこんなことがあった。私はボスの赤字校正をもらうために、都内の高級ホテルの美容室へと向かった。
 ボスは、飲食、衣服、宝飾、旅行、女などには、限りなく贅を尽くすのだけれど、ボールペン一本の購入伝票まで目を通す性分だった。だから、ちょっとした印刷原稿にまで目を通し、赤字を入れる。経営者としては優秀だったらしい。
 ホテルの美容室にたどり着くと、ボスは大きな鏡の前で、大きな椅子にふんぞり返り、二人の美容師を従えていた。一人は頭部のマッサージ、一人はかしずいて爪の手入れをしていた。ボスは週に2、3回ここに来る。文字通りの王様気取りである。
 私は恭しく近づき、かしずきはしないが、気持ちはかしずきながら、一枚の校正紙を手渡し、チェックを依頼する。ボスは返事もしないでそれを左手でもぎ取り、空の右手を広げる。お付の秘書課の人が「赤ペン!」と、私をなじる。私はようやく気がついてペンを差し出すと、ボスは瞬く間に赤字を何か所かに入れ、振り向きもせずに校正紙を肩口に掲げた。もって行けということらしい。私は有難く頂戴して美容室を後にした。会社への帰途、自分に問うた。
 私はこの男にかしずき、恭しく校正を頂戴するために生まれてきたのだろうか。答えはすぐに出た。

 まだ25歳。体力には自信があった。毛布一枚を頼りに、砂浜で寝るのである。無論潮の満ち引きがあるから、それぐらいの注意はするつもりだ。
 さて、一泊目の夕暮れとなった。海はまだ明るい。平塚の海岸である。左には江の島が見える。右にはシルエットの伊豆半島。防砂林の松林の中では、眺望がつまらない。防砂林脇の小高い砂丘に陣取って持参の毛布を敷き寝転んで、温んだ缶ビールのプルトップをブシュッと抜いて、ピーナッツを肴に晩酌を開始した。
 炎天下の砂浜や道路を歩いて疲れ切った私は、少しのアルコールですぐに睡魔に襲われた。隊商に加わり、砂漠で寝たであろうランボーを思い出す暇もなく眠りに落ちると思われたそのとき、快いまどろみを邪魔するものに気がついた。それは海風だった。日が陰るにしたがって風速は増し、やがてまるで扇風機の前で寝ているような状態になった。
 私はすごすごと浜辺から退散し、松の防砂林と国道を超え、街中へと向かった。すると野球グラウンドがあったので、そこで野宿することに決めた。人通りからは木立でさえぎられ、夜は静粛が保たれそうだ。私はグラウンドの中央、ピッチャーズマウンドの傾斜を利用して毛布を敷き、星空を見上げながら寝ることにした。海風は多少あるが、浜での強さとはくらべものにならないほど穏やかだ。これで安眠が保障されると思った。しかし、また異なる困難が待ち受けていた。今度は背中が怖いのである。背をグラウンドにつければ背中は地面だけれど、感覚として背中が怖かった。背後から襲われる危険を感じた。浮浪者への襲撃が流行る前の頃だったから、現実にはそんなことはあり得なかった。なのに一個の動物として、背中が怖いという感覚が否めず、背中を守るためにバックネットのコンクリートのへりに毛布を移し、何者かの襲撃の可能性を制限することで、多少の安心を得ることとなった。
 明日は頑張って小田原まで歩こう。そのためには十分な睡眠だ。私は夜空の星を数え始めた。

 人はなぜ電車に乗って会社に向かうのだろう。私は勤めてすぐにそんなことを疑問に感じた。毎日同じ電車、朝8時3分に、準急西武新宿行に乗る。そうするともうそこから何も考えなくてよかった。ボスが考え、ボスが決める。もちろんその範囲の中でいろいろと自分なりに考え、よい仕事をしなければならないのだが、大枠はボスが決める。だから、朝8時3分の準急西武新宿行に乗りさえしたら、私はもう何も考えずに、生きるていくことができるのだろうと実感した。
 人はどう生きなければならないのか。人のために何をすればよいのか。そんな厄介な問題とは生涯おさらばできるのである。叱られ、怒鳴られ、意地悪に出あおうと、準急西武新宿行に乗りさえすれば一日は終わる。ボスのために収益を上げる努力を怠らなければ、決まった日に給料がもらえるのだ。
 人はそうして命をボスのためにささげる。ボスになれない人たちは、この宿命から逃れられない。
 どう生きるべきかなんて考えなくていい世界があるとは知らなかった。私はボスに仕える苦痛と快楽を、同時に知ることとなった。

 星は星の数ほどあった。いくら数えても数え尽くせず、私は結局その夜、まんじりともできなかった。
「おっ、誰か死んでるぞ。けっとばしてみようか」
 酔っ払いが近づいてきたこともあった。
 朝方には犬の散歩の老人が近づいてきて、「どうしたの、家出」と聞かれる始末だった。
 自分は野宿さえできないのかと不満に思いながら、ぼんやりした頭を抱えながら早朝の海岸へと向かった。
 風は止んでいた。そして生まれて初めて見る光景が眼前に広がっていた。
 目と心を奪われた。それは海ではなく湖だった。
 朝凪は波立ちのない海を私に示した。海面はピタリと鎮まり、鏡として水色の空を映していた。
 どれほど鏡の海をながめていただろうか。
 私は生涯二度と見ることのないだろう奇跡の光景を十分目に焼きつけて、平塚駅のコインロッカーへと向かった。貴重品をロッカーに預けておいたからだ。お腹がすいたので、町で何か食べようと思った。

 もちろん、ボスに仕えることをしない生き方だってある。けれどそれを可能にするのは、準備だ。私は三歳の頃からピアノのレッスンを受けてこなかったし、幼稚園の頃から父に連れられ、ゴルフを始めてもいなかった。
 だから、会社や団体で雇われる以外にないのである。多くの人がそうするように。そして、少しでもいい条件で雇われるように、人はやはり幼い頃からそのための準備をするのであるが、その準備も私には欠けていた。
 だからここは一つ、どんな会社であれ我慢して、雇われの身を貫くことが、私に与えられた最善の道であるのは、わずかの疑念も不要なほど自明なことだった。それに、考えなくてもいいのだ。どう生きるべきかを。どう尽くすべきかを。
 けれど私はボスに私の時間を差し出すことは嫌だった。そして、そのボスだけでなく、世界のあらゆるボスに、断じて私の時間を渡さないと思った。

 一番列車が走る頃だっただろうか。平塚駅へと向かう勤め人が一人、二人、足早に徹夜明けの私を追い越していく。早朝の涼やかさもあっという間に去って、浜辺の町はまたその日も強い日差しに晒され始めていた。
 駅の近くまで来ると、沿道の低い生垣に、投げ出された足が見えた。何事かと近づくと、汚れた衣服の人が生垣に潜り込むようにして、つっぷして寝ていたのだった。寝息までは聞こえないが、わずかに身じろぎをした。
 こんな所でこんなふうに、背中も無防備なままで寝ることができるようになるまでには、いくつのハードルを超えなければいけないかと思った。ボスを持たないとは、こういうことなのかもしれないと実感した。絵に描いた自由の代償に見えた。

 あの旅から35回ばかり夏が過ぎた。
 結局私はボスを持たない生活を続けたが、幾人もの慕わしい友と敬すべき先輩に出会うことができ、私の生活は貧しくも嬉しい彩のあるものとなった。
 その敬すべき先輩の一人が平塚に居た。明晰な頭脳と鋭敏な洞察力と溢れんばかりの素朴な愛情を持ち合わせた人である。先頃30年の歳月を隔てて偶然再会した。空白の30年間においても、私の心のボスの一人だった。
 30年の空白を埋めるために、先週平塚を訪ねた。その日東名高速は意地悪だった。私のはやる気持ちをからかうかのような大渋滞。1時間半足らずで行けるはずのところを、3時間半かかって、ようやく平塚市内に入った。
 35年前の町並みとは変わっていたのかもしれない。見覚えがない。けれど町中を進むうちに、なんとなく見たことのあるような雰囲気を感じてきた。平塚の町中はそれほど大きくはないといっても、私が35年前に歩いた道は、ごく一部。海岸と駅を結ぶ道とその周辺だけだ。時代も隔たり家々も変わり、見覚えのある場所を通る偶然などあるはずがないと思ったそのときだった。木立に囲まれた公園が現れ、木々の隙間からバックネットが見えた。忘れもしないあの35年前のバックネットだった。先輩の住まいは、その公園のすぐ隣だった。
 不思議な縁に導かれて30年ぶりに再会した先輩。そして、先輩に導かれて35年ぶりに戻って来たあのバックネットだった。

 1979年夏。2014年夏。これが私の湘南の思い出である。

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2件のコメント

人生の選択肢、自分で決めて進んでいると思っているけど、
そこには運命、ご縁、巡り合わせがあるのですね。

by うらちゃん - 2014/08/28 10:11 AM

そうですね。Kとの出逢い、そしてうらちゃんとのご縁。私の遠回りの道のりに、美しい木立として、今も何時も輝いているのです。

by EN - 2014/08/28 11:27 AM

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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