salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2017-05-5
忘れようとして思い出せない

わが鳳啓助師匠の、「忘れようとして思い出せない」「ポテチン」は、思い出さずとも思い出される印象深い名言である。
「ポテチン」こそ放っておけない謎のことばだけれど、今回は見逃して、「忘れようとして思い出せない」について考えてみたい。

忘れようとすることなど、思い出したくもないのだから、思い出せなくなれば幸いである。しかし、忘れようとしたことが思い出せなくなる頭脳の性質が生じてくると、忘れまいとしたことも思い出せなくなる可能性も生じる。いずれにせよ、何を忘れたかも忘れてしまうようになれば、とてもさっぱりして常に新鮮で楽しい気がする一方、自分をどうつかまえておけばよいのか、自分が自分から逃げていってしまうようで心配だ。

俳優のモーガン・フリーマンがナビゲーターを務めるEテレの科学番組があって時々見るのだが、先日は「自意識」についてやっていた。脳科学の分野のことだ。人間が自分を自分だと意識できるようになるのは、一歳すぎぐらいかららしい。鏡に映る自分の姿を見て、自分だと認識するようになるのが、自意識の始まりだという。それ以前は、自分が鏡に映っていても、自分だとはわからない。

こうした自意識の形成は、記憶力と大きくかかわっているようだ。というか、記憶こそが自意識といってもいいのかもしれない。自分が自分であり続けるという感覚、自意識の持続性は、まぎれもなく記憶力のなせるわざだ。

今から半世紀近くも前、小生幼少のみぎり、「チロリン村とくるみの木」や「ケペル先生こんにちは」を、わくわくしながら見た感覚が今でも鮮明に蘇り、あの頃の物語への憧憬や素朴な好奇心のありようは、半世紀を隔てた今と、ほとんど変わらない気がして、自分は五十年たっても、ある意味ほとんど一歩も動いていないのではと感心したり、がっかりしたりするのは、記憶力のせいであるとしかいいようがない。

で、思うのだが、この記憶というやつ。いったいどこに、どのようにしまいこまれているのだろうか。「記憶とは何か」という、岩波新書を読んでみた。これもまた数十年前の古い本だから、その後進歩した脳科学の成果がほとんど収められていないのだが、人間に備わっている記憶力のメカニズムについては、その後もほとんど解明されていないというのが、実際のところらしい。

「記憶とは何か」という本や最近の脳科学の成果の断片に触れると、いろいろ驚かされる。人間が感覚器官を使って、何かを認識するときの脳の働きに関しては、相当なことがわかってきたようだ。グーグルかどこかが、頭の中で考えただけで、文字が入力できる装置を開発中とのことだが、それもきっと最近の脳科学の成果によって生まれつつある技術の一つだろう。

例えば、「あ」という文字を認識するとき、脳の何か所かの部分が、いつも同じように興奮するということがわかってきた。「あ」の字の興奮パターンがある。ということは、脳の興奮パターンを読み取ることのできる普及型センサーができれば、文字を思い浮かべただけで、どんどん文字が入力できるようになるという寸法だ。きっと実験段階ではすでに成功しているのだろう。

また京大ではこんな研究も進んでいるという。まず被験者に、単純図形をたくさん見せる。○とか×とから+とか-とか。それを数千だったか数万だったか見せて、その図形を見たときの脳の興奮パターンをデータ化する。そして、今度はそのデータを利用して、被験者が見ているものを、映像化するという実験だ。試みに、「neuron」という文字を被験者に見させた。すると、脳の各所が興奮した。その興奮のパターンを、すでに蓄積した興奮パターンのデータをもとに映像化してみると、おぼろげではあるが、不鮮明ではあるけれど、確かに「neuron」の文字がモニター上に映し出されたのだった。このことが何を意味するかというと、被験者が就寝中に夢を見ているとき、その映像をモニターで見ることが可能になるということだ。そして、起きているときも、考えていることが全部モニターに映し出されてしまうことにもなる。

それほど脳の中のことはわかってきている。けれど、やはりわらかないのは記憶についてだ。「チロリン村とくるみの木」や「ケペル先生こんにちは」を見たときの映像の記憶や思いの記憶は、どこにどのようにしてしまいこまれているのだろう。印刷物のようにプリントされている部分、ハードディスクのように情報が高密度に信号化されている部分が、脳のどこかにあるのだろうか。あるとしても、それはどのようなメカニズムによって記憶が定着され、持続し、また、意識の表面に呼び出されるのだろうか。

このあたりのことを、わかりやすく説明してくださる方、サリトテの読者のみなさんの中に、いらっしゃいませんか。

年齢にふさわしく、このところ記憶力の低下が著しい、などといったレベルではなくなってきている。忘れたことを忘れてしまって、なかったことになってしまうケースが頻発している、らしい。らしい、というのは、本人にはなかったことなのだから、何の戸惑いもないのだが、周囲からは、それはなかったことではなく、忘れたことと知らされるからである。そんな小生の現状に対して、周囲はざわつき始めている。
愛すべき周囲、隣人たちのために、記憶の確保、再生に今後も努めようとおもうのだが、さて、どうなりますか。できうれば、思い出したいことだけすぐに思い出すことができ、忘れたいことは思い出せなくなる好都合な記憶システムを、この貧しい頭脳に構築したいと思うのだけれど、そんなことって可能だろうか、と鳳啓助師匠に尋ねれば、返る言葉はたぶん「ポテチン」。この語に記憶のヒミツが隠されている気がしないでもない。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

3件のコメント

ポテチン、チロリン村、ケペル先生、懐かしいです。
「時間よ止まれっ!」なんていうのもありましたね。
思い出したいことだけすぐ思い出し、忘れたいことは思い出せなくなる、
理想です。
でも、そうなったら人間は
ますます馬鹿になってしまうかな?

by うらちゃん - 2017/05/13 8:51 AM

そうですね、パカになったらいけません。
忘れてはいけないことまで忘れたら、
バカが繰り返されてしまいます。
では、何を忘れたらいけないのか。
やはり勉強が必要になります。
けれど、事実とは何か。
立場が違うと、一つの出来事でも、
真反対の事実と真実が対立します。
そして、力づくで物事が決まります。
結局、暴力、お金、権力が、すべての善悪を決めます。
うらちゃん、今度教えてください。解決のカギを。
お願いします。

by EN - 2017/05/14 7:58 PM

悲しく理不尽な善悪の決め方ですね。
解決にはならないけど、私は私の道を進むのみ。
この年齢になると、何にも怖くない!?

by うらちゃん - 2017/05/17 9:17 PM

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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