2017-02-27
下を見ろ! おれの下には俺がいる
村西とおるという一つの事件を、どう見るか。そんなしかつめらしいいい方では、なにもわかないのが、村西とおるだろう。村西とおるはナイスですねーと一言いえば、それがすべてという気もするけれど、やはり、もう少しだけ詳しく考えてみたくなる。
どうして、ナイスなのか。
人のウソを、私のウソを、すべてはぎとって全裸にしてくれるからだ。
「全裸監督」村西とおるは、何一つ装飾がなく偽装がない。
ぼくらに毎回生真面目な速球を投げ込む。
そしてその速球には、どういうわけか、品位、品格が備わる。作法の先生より百倍上品だ。
「全裸監督」は貴公子としての礼節を貫き、雄々しき騎士の如くに偽りの巨大な風車に挑み、破廉恥の限りを尽くす。
この孤独の戦いを戦い抜く者、村西とおるの憂いが、恐ろしく透明であることに気づく者は幸いである。
しかもこの堂々たる勇者は、意外にも、いや正しく反省心が強い。
自らを決して勇者とは思わず、クズと断じる。
ゆえに、この稀有な名言が生まれる。
“人生、死んでしまいたいときには下を見ろ!おれがいる”
人は、村西とおるが捨ててきたものを、すべて拾い上げると幸福になれると信じている。けれど、この求道者は、それを選ばなかった。
すべての破廉恥をし尽くした先に残る高貴な幸いこそが、高貴の真実なのだろうか。
かといって村西とおるが素朴なエピキュリアンだとは思いにくい。
彼のまわりにはいつも複雑な憂愁の風が吹き抜ける。
村西とおるは独り、知の宇宙旅行に出かけたまま帰還しない。
この潔さ、清冽さは、クズであろうか。
クズはほかに山ほどいる。
したがって村西とおるの名言は、実は万人にとっての名言ではなく、自らをいたわる懺悔の辞。決して村西とおるは私の下にいない。
村西とおるの名言をもってしても、彼岸への憧れを断ち切れない人に、できることなら私の不徹底な人生を世にさらけ出し、こう伝えてみたい欲望にかられる。
それでも死にたくなったら下を見ろ! おれの下には俺がいる
コメントはまだありません
まだコメントはありません。よろしければひとことどうぞ!
コメントする ※すべて必須項目です。投稿されたコメントは運営者の承認後に公開されます。