salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り

2014-11-25
柿の実


2014-11-5 仕事場にて

 仕事に疲れて硝子戸の外に目をやると、狭い庭の端に柿の木が見える。かろうじて残る枯葉が北風に震え、真っ赤に熟した実もいくつか数えられる。そして、そのうちの二、三は雀か四十雀がついばんだせいで、丸い形は失われていた。
 今年の柿は豊作だった。かつてないほど実り、面白いので仕事場の床に並べて四百まで数えた。あとは面倒になり、ランダムに十個実を選んで一個の平均重量を出し、収穫した柿の実の総重量を測ったあとで一個の平均重量で割った。答えは約千四百。途轍もない値だ。一日五ずつ食べても二百八十日かかる。大変なことになった。

 柿が一個五十円で売れれば七万円になる。こんな木が十本もあればなあと想像した。
 実際には売ることなどできないから、自分で食べたり人に引き取ってもらったりしなくてはならない。いずれにしても高枝切りバサミで丸一日かけて収穫した柿の実を、次の日は小枝や葉を実から払い落とし、キズモノをより分け、ひとつひとつきれいに水洗いする必要があった。以上の工程を一人でし終えてわかったことがある。二度とすまいと思った。

 さて次に、洗い終わってプラスチックの洗濯カゴやバケツに入れた柿の実を、どうしたものかと考えた。ビニール袋を買ってきて五個ずつぐらいに小分けにしたら、人様に差し上げる際体裁もいいし便利だろうと思った。そして小分けにする手間を計算した。千四百割る五は二百八十。二百八十回もビニール袋に柿を詰める仕事を思い描いたら嫌になった。
 そこで、百個単位で引き取ってくれる奇特な人を探すことした。すぐに思いついたのはこうたくんだった。仕事仲間のこうたくんなら、きっと、百や二百もらいますよ、ありがとうございます、喜んでと、やる気茶屋の店員さんのように、声だけは気持ちよくこたえてくれるに決まっていた。

 早速こうたくんに電話をして事情を話すと、「いいですよ」という、あまり弾まない返事だった。「いいですよ」とはちょっと心外である。如何なる胸の内かといえば、そんなに気がすすまない、という意味にほかならなかった。意外も意外、なんとこうたくんは仕事で忙しく、その日のうちの外出は難しく、約束は翌日となった。こうたくんが私に与える処遇としては、異例なものとなった。できるだけ仕事をよけて暮らしているこうたくんには、常日頃もっと仕事をするようにと勧めていた私だけれど、仕事で忙しいそぶりですげなくされると、なんだかいつも暇だった頃の彼が懐かしくなった。

 翌日深大寺の蕎麦屋でこうたくんに会った。いつものようにゲゲゲの鬼太郎の店の前で待ち合わせた。こうたくんは忙しそうだから、その日はビールでも飲みながら、蕎麦を一枚食ってお開きにしようと考えた。あいにく天気のいい週末だったので、蕎麦屋はどこも満員で、行列を作っている店さえあった。並んでいる人々に、そんなにはおいしくはありませんよと教えたくなった。行列に並んでも食べる価値のある蕎麦など、ここ深大寺にはないと知っている私とこうたくんは、不人気の場末の蕎麦屋を見つけ、入ることにした。硝子戸の張り紙に新そばとあったから、そう外れはしないだろうと高をくくった。店内は思ったとおり誰もおらず、貸切だった。

 バス通りがガラス越しに見える席を陣取った。はす向かいの蕎麦屋は同じ場末なのに行列ができていた。道一本挟んだだけでこうも違うということは、この店にはある種の特別な威力が備わっているのだろうと思った。人擦れしたおしゃべりなおばあさんが注文を取りに来たので、私が「新そば?」と確かめると、「新そば、おいしいよ」と答えた。新そばというものはおいしいものだよ、と答えたのか、この店の新そばこそおいしいのだと教えたのか、判然としない言い方だった。私とこうたくんは、ざる二枚とビールを一本頼んだ。本当に忙しいのだろう。いつになくいそいそとした雰囲気をたたえるこうたくんを感じたので、本題を先に切り出すことにした。
「これ、柿、百個ある。見てくれ悪いし、大しておいしくないけど、二人で食べて」
 するとこうたくんは、私が期待した八割ほどの感謝を示した。私はそのとき、こうたくんが出し惜しんだ二割の感謝の意味について、深く考えることをしなかった。

 結局、新そばにしてはうまくなかった。汁もゆで加減もダメだ。コンビニのざるそばのが、まだうまいかもしれない。貸切の理由がハッキリした。口直しにビールをもう一本頼もうとすると、こうたくんが遠慮したのでやめた。これまでこうたくんの生活にけじめを感じた記憶がなかったので、けじめある遠慮に、稀にみる忙しさを想像した。仕事の充実のせいか、いつもより表情が引き締まり、一年前に決行したスキンヘッドも板について、すっかりカッコよくなったこうたくんに、ちょっと物足りない心持を抱きながら蕎麦屋を出た。私はあわただしく自転車に乗って帰ろうとするこうたくんの背中に、近々の再会を約して別れた。

 私のその日の勢いはこうたくんだけではとどまらず、その後も続いた。近隣の先輩三人に柿の引き取りを依頼し、一人に遠慮され、二人に承諾を得たので、やはり数十個の柿を自転車で届けた。しかし、柿はまだまだ一向に減らなかった。柿の山とともに徒労感が残るばかりだった。
 私はその晩、パクチー入りのタイのインスタントラーメンを食べたあと、イケヤの太陽光電気スタンドをつけ、芭蕉の本を読み始めた。読んでも文字は頭に入らず、こうたくんに柿を手渡したときの二割の不満足を思い出していた。
「これ、柿、百個ある。見てくれ悪いし、大しておいしくないけど、二人で食べて」とこうたくんに手渡し、期待する八割の感謝しか得られなかったとき、私の胸中に芽生えた思いを振り返ってみた。 

 私はたぶんあのときから少し気がついていた。見てくれも味もよくないものを、百個も人に引き取ってもらうことの厚かましさについて。せっかく実った柿を無駄にしたくないという志は悪くないとしても、自分の満足のために忙しい人を呼び出して、しかも「ありがとうございます」という感謝さえ引き出そうとしている欲深さを薄々感じていた。感謝すべきはむしろ私のほうであると。そうなると、なんで自分は苦労して千四百もの柿をもぎ、枝や葉をていねいに払って実を洗い、四十分あまり自転車をこぎ、忙しい人を呼び出して、わざわざ相手に感謝するための機会を作る必要があったのか――。いくつかの絡み合う思いを解きほぐす落ち着きは、あの瞬間の私にはまったく不足していたようだ。

 無論久しぶりにこうたくんに会いたいという思いはあった。だから柿は単なるかづけにすぎなかった。それはそうなのだけれど、やはり私は、柿の木に尊敬をこめることの喜びと、受け取るこうたくんの喜び、この二つの喜びを、同時に手に入れられると信じて疑わなかった。良い事づくしで、私もあなたもハッピー、ハッピーさ! という素朴で厚かましい感受性が息づいていたことは、否定すべくもなかった。

 パクチー入りラーメンはこうたくんから、電気スタンドと芭蕉の本は先輩二人から、柿のお礼にいただいたものだ。
 あまり明るくならない電気スタンドの光のもと、芭蕉の本をながめながら、私はようやく今日の自分をおぼろげにつかまえた気がした。こうたくんに会いに南へ、先輩二人にも柿を届けるために東へ北へと疾駆したその姿は、いささか醜いものだったにちがいない。
 口中にはまだ先ほどのパクチーの味が残っていた。
 ちょっと苦味のある青臭い清涼感だった。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

2件のコメント

見事な柿です。
20個くらいなら、引き受けましたのに・・・!?

家庭菜園をやっている何人かの友人から、
同時期に夏野菜の茄子や胡瓜やゴーヤを戴いた事を思い出します。
こういうこういう繋がりは、ち手も有り難い事で幸せな事だと思っています。

by うらちゃん - 2014/11/30 9:04 AM

まだ300ほどあります。そちらに送りたいと思います。が、柿は我慢が足りないので、やめます。日に日に真っ赤に熟れてきて、送る間にぐちゅぐちゅになってしまうにちがいありません。柿は少しだらしないのです。

by EN - 2014/11/30 5:26 PM

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中川 越
中川 越

なかがわ・えつ/ もの書き。園芸などの趣味から野球やサッカーなどのスポーツまで、いろいろな実用書を企画したり、文章構成を担当したり、近代文学の作家の手紙を紹介したりしています。子供の頃の夢は野球の大リーガー。次にバスケットのNBAを目指しました。樽の中で暮らしたというギリシアのディオゲネスは、二十歳を過ぎてからの憧れです。

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