2015-10-5
BMW Z4を買った私
貧乏なふりをしているのが面倒になって、BMW Z4を買った。色はアルピン・ホワイト。値段は約千万。いろいろ付けたり変えたりしたためだ。早速これで吉祥寺の紀伊国屋に乗り着けたら、いろんな人がジロジロ見てた。いわゆる二度見する人も多かった。気持ちがいい。美男、美女は、こんな体験を毎日続けてきたのだろうと想像した。しかし車の場合は車の高級感が注目されるだけで、ついでに運転する人間まで高級だと思われることはない。
高級車をジロジロ見る人々の様子を観察すると、まず車に目が行き次にドライバーの品定めをする。そして、高級車に見合った見てくれや人格を感じさせるドライバーが乗っていると判断したら、いかにも不愉快そうにプイと横を向いて、何も見はしなかった、無関心であるというしぐさを見せる。場合によっては反対に、きつい目で車を睨み付け、悪事を働いた成果だろうと詰問モードの視線を発射する人もいる。フォロを収納しオープンで走ると、さらに以上の傾向が強まる。
一方高級車にはふさわしくなく軽トラが似合いそうなドライバーなら、なんとも理解ある微笑をたたえ、許可を与える視線を投げかける。祝福の笑顔さえプレゼントすることもあるようだ。私の場合はどうかというと、まず私を責めるようなまなざしはなく、祝福の笑顔を得ることもないから、微妙なところなのだろう。そのうち車格にそぐう人格を備えられるようになりたいと思っている。
また、人に道を尋ねるときも、ママチャリとBMW Z4ではかなり待遇が異なる。ママチャリで尋ねたときの相手の対応は、ていねいに尋ねればていねいに答えてもらえるのが一般で、特にママチャリだからといってじゃけんにされることは少ない。しかし、BMW Z4から降り立ってていねいに道を尋ねると、大方の人はとてもていねいに答えるだけではなく、晴れがましささえ感じている気配だ。光栄です、と顔に書いてある。何かいいことがあったような、これからあるかもしれないと思っている感じが伝わってくる。
車の中に居るときは、車格にマッチしないドライバーと判断されても、ひとたび車から外に出て道を聞くと、聞かれた人は気圧されて、ドライバーの人格を高く見積もる傾向がある。この傾向は都心から離れるほど強くなった。青山や麻布や六本木はそんな車ばかりだから、車だけ見て恐縮する人はまずいない。
そして、こうした車を得たときの不安として、人の妬みを買って、車を傷つけられることが多くなるのではないかと思ったが、それは杞憂だった。むしろこのクラスの車には、人は逆に近づこうとしない。後続車は車間をあまり詰めないし、追い越し車はできるだけ離れて追い越そうとするし、スマホを操作するために環七で停車したら、後続のトラックや営業車は、笑っちゃうほど遠巻きにして私のBMW Z4を追い越して行くのだった。こすりでもしたら、えらく高いものになってしまい面倒だという心理が働くからだろうか。これも気分のいい経験だった。
器量も人格も金の有無も、人の特徴である。どれを上位の特徴とすべきかは一概にいえない。そしてどれを下位とすべきかも同様だ。器量といったところで、不確かなものだ。ある時代のその地域の平均顔が美男、美女と呼ばれる。無個性であることをほめそやす。そして人格もまた、その高低を決するのは、ある時代その地域の価値観に大きく左右される。滅私奉公をもって人格高潔と見る向きは、現代においてはごく一部にすぎない。唯一金だけが、どの時代どの地域にあっても、人間を測るための明確な特徴となる。金持ちは時空を超えても確かに金持ちである。
この確かなものを拠り所にするのが真のリアリズムであって、見てくれや人格など、あやふやな基準によって成立する特徴に頼ることは、どんな時代にどんな地域においても賢明とはいえない。すなわち、一千万になんなんとするBMW Z4を手に入れドライブを楽しむ私は、絶対的な価値を有した人間の列に並んだことになる。そこに矜持を感じるかどうかは、人格に関与する価値観の問題になるから、あえてコメントは避けるが、四つのタイヤで移動するゆるぎない価値の象徴は、これからも往来の人々の心を少なからず騒がせることだけは確かだろう。
10月4日日曜日。今日はいい天気だった。先ごろ市役所を定年でやめた近所のおじさんが庭いじりをしながら、「暑いですねえ」と、気持ちのよい大きな声であいさつをくれた。私も「そうですね」と気分よく応えてその気分のまま自転車散歩に出かけたら、新青梅街道の保谷町の交差点にBMWのクーペが信号待ちをしているのを見かけ、ドライバーと目が合った。乗員二名は、団塊世代の夫婦の様子だ。二人とも偉そうで生意気そうで意地悪そうでズルそうで、私を軽蔑していそうに見えた。貧乏な私の偏見だ。と反省するほど私は素直ではない。十中八九睨んだ通りの人格に相違ない。
けれどいつも高級車に合うたびそんなふうに考えるのは、楽じゃない。自分が嫌になる。最近は高級車がとても多くなったから、始終嫌になる。だから今日は向こうの側に立って、向こう側の人々の了見を想像してみた。
もし私がBMW Z4を運転していたら。
私は生憎35年前に免許の更新を忘れ失効させたので、いずれにせよ叶わぬ想定ではあるのだけれど。
3件のコメント
東京に戻る以前に、車があって当然、日本を代表する車の生産地の土地に暮らしていた私達。
そこは、この年齢になっても「最後の」車とか言いながら、
いわゆる高級車に買い替えていっている友人が多いです。
私は免許も持っていないし車にもあまり興味がありませんが、
Mはいまだにこだわりがあるようで・・・・。
買い物などはお世話になっており、助かってはおります。
最近の若い方は車に関心のない方が増えてきたという話ですが、
オジさん世代は、車、行き方、格差、と関連付けてしまうのでしょうか。
何よりも願いは、何事も安全運転。
うらちゃんへ
世界一困難な状況において、世界一安全な夢の超特急の神話を維持し、それにより、日本経済を安定的に成長させただけでなく、日本の技術力を世界に示し、さらには人に優しい交通システムを堅持することを第一義に置く日本人の心を表現することに大きな功労のあった大切な一人であるMと、Mを支えるうらちゃんに対して、限りない尊敬を惜しまない小生は、貴家が高級車を所有することについては、まったく反対の理由を見出せません。どうぞ高級車を手に入れ、その技術の粋を体感し、それを生み出した技術者たちと、技術者ならではの魂の会話を楽しんでいただき、そのお話の一端を、ぜひいつか聞かせてもらいたいと思います。中川氏がかつてMの車を運転し、助手席に同乗したMの心胆を、どれだけ寒からしめたについては、Mが恐らく記憶するところだと思います。ここは中川氏の微細ないじましい私憤を、ためらいの理由にすべきではありません。自動車免許さえない中川氏はやっかんでいるのです。うらちゃんはこの中川氏の文から、それだけを読み取ればよいのだとと思います。
心のびょうきじゃん
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